三日目 小さな痛み
昨日のことを思い返す。
『邪魔をしないこと、だそうですよ』
その言葉が頭から離れない。
「くそ野郎が。いつだって邪魔してんのはテメェだろうが」
座っている椅子の背もたれが軋む。
「ルリネは……まだ寝てるか」
あの少女を守ること。それが景人に任された仕事。たった数日のボディガードにしては過ぎる大金を受け取ってしまっている以上、もう後には引けなくなってしまっている。
──いや。後に引けないんじゃない。退く気がないだけだ。
あのクソ野郎が関わっていると知った時点で景人の中に退く、という選択肢は消えてなくなったのだ。
因縁、というには余りにも一方的な怨恨。
ルリネが現れるまでは忘れ去っていたというのに。
正直、ルリネを見たときには厄介事が舞い込んだとしか思わなかった。
しかし、事が推測できる今、ルリネがアイツの手に渡るのが許せない。
「──俺が、守る」
ライアーの力が嫌いで今まで使うことを避けてきたが、どうやらそれもここまでのようだ。
「おはよ!」
「……いつの間に降りてきやがった」
「おはよ!」
これはいつものパターンか。いつ起きていつ降りてきたかはわからないが、あいさつしないといつまでもこのやり取りが繰り返されることになるのだろう。
「……あぁ、おはよう」
「おなかへった!」
「……待ってろ」
よくよく考えてみれば、自分もまだ朝食を取っていなかった。
少し、思考に没頭しすぎたかもしれない。
景人は厨房に入ってありあわせのもので簡単に作る。
数分もしないうちに出来上がったものが、ルリネのもとに運ばれていった。
「いただきます」
「いただきます!」
図らずしてルリネと朝食を取ることになった。
「きょうは、んぐ、どうするの?」
「口に物を入れてるときは喋るな」
注意されてルリネは黙った。
少々大人げないか、と思ったが、躾をすることは大切だ。間違ったことはしていない──そう自分に言い聞かせて朝食に没頭する。
しばらくして二人とも食べ終わった。もちろん景人のほうが先に食べ終わっていたのだが。
「きょうはどうするの!」
「昨日と同じだ。することがない。店、開けるぞ」
昨日と同じように開店準備を始める。正直な話、こんなのんびりしている余裕はない。もうここの情報はアイツに伝わっているはずだ。いつ攻め込まれてもおかしくはない。それより、こちらから先手を打った方が──いや。
それでは『守る』ことにはならない。
どんな外敵からもルリネを守る──それが俺の仕事。
だから、平和なうちはまだ、このままでいい。
このままで。
♪
「そ・れ・で? 君はみすみすやられてぇ? 戻ってきたわけねぇ」
窓がない部屋。ランプの光唯一の光源の部屋で言葉が木霊する。
「申し訳ございませんっ……」
「うーん、僕はさぁ。謝罪が欲しい訳じゃないんだよねぇ。結果が欲しいんだよって。け・っ・か。わからないかなぁ?」
纏わりつくような声。聞いているだけで頭が混乱してきそうだ──風方は思う。
もはや私は助からない。二度の失態。このお方の前では死を意味する結果だ。
「これはもう、僕の糧になるって結果しかないよねぇ?」
「……はい、よろこん、で」
後の事は、もう意味をなさない。
嘘を重ねて、甘言に弄され。でも、それで満足だった。自分に存在意義があったから。
さようなら、世界よ。
せいぜい足掻くといい、景人。
「それじゃぁ、いただきまぁす」
君は、この怪物に──…
「くふふ。悪くない味だよぉ、風方君」
床には風方の着ていたスーツが転がっている。
ボタン、ネクタイ、ベルト。すべて装着された状態で。
それはまるで、中身がすっぽり消えてしまったかのような。
「ふふふふ、くふ。楽しみだなぁ。景人。君が来るのは楽しみだよぉ」
ランプの光が揺らめく部屋の中で、気の抜けた笑い声が木霊した。
♪
「……? 携帯か」
客も来ず、テレビの前でくつろいでいた二人。ルリネが何かに気付いて持ってきた。
「なってる」
「あぁ。悪いな」
渡された携帯を開いて通話ボタンを押す。
『私だ。あの子は元気にしてるかい?』
「日向か。問題ない」
『そうか……明日で君の仕事も終わりだ。その子の受け入れ準備が整った』
明日。突然のタイムリミットに驚く。
「……急だな」
『景人も早い方がいいだろうと思ってね。急いだんだ』
「まぁいい。それで何時だ」
『18時にそちらに向かうよ」
「わかった。用意しておく」
通話を切った。
「ルリネ」
「なに?」
まだ、何も知らない。
少しくらいは楽しい思いをさせてやってもいいだろう。
「明日、どこか行きたいところはあるか」
「んー……あ! さいしょつれてってくれたとこ!」
最初連れて行ったところ──デパートか。
「わかった。今日は寝ろ」
「はい! おやすみなさいおじさん!」
「おじさんは余計だ。……おやすみ」
ルリネが二階へ上っていくのを見届けた後、ぽそりと漏らした。
「俺らしくもないな……情が移ったか」
今までずっと一人だった。そんな環境にいきなり増えた同居人が、小さな子供。
会ってまだ数日だ。未だにどう接していいのかわからないし、子供の面倒の見かたなんてものは知ったこっちゃない。それでも、ルリネが景人を少しずつ変えていたのは事実だった。
どんな変化にせよ、景人もそれに気付きはじめている。
「明日でお別れだ。それが終われば後は日向の仕事。俺の出番じゃない」
厄介者がいなくなって。
元の生活に戻る。
だというのに──なんなんだこれは。
この、右胸の刺さるような小さな痛みは。




