二日目 酒の代金
目を開く。
昨日と同じような光だったが、ルリネにとっては毎日が新鮮だった。ここに来るまでの記憶が無い、というのもそうだが、景人がいるだけで楽しかった。
ルリネにとって景人は『大好きなひと』だった。
しなやかな黒髪や深い青の瞳。見上げる程大きな体も、全てが格好良かった。
……とはいえ、周辺住民は怖がる風貌なのだが。
昨日と同じような失敗はしないという気概を持ってベッドから抜け出す。
ベッドは一つしかなくて、既にルリネしかいないところを見ると景人は下にいるはずだ。
「きょうは、つめたくない」
靴下を履いているおかげで、直接床の冷たさは伝わってこない。
問題はドアノブだった。
そーっとドアノブに手をかけようとする。
が、止まる。
ちょっと怖かった。
意を決してドアノブに触れる。
「あうっ」
奔った静電気に驚いて一歩引いてしまう。
「むぅ…まけない」
再びドアノブに挑戦する。
今度はぱちぱちしなかった。
「やった」
機嫌を良くしてドアを開き、階段を降りていく。
この先には景人がいる。そう思うだけでわくわくしていた。
「飯食え」
「うん!」
昨日と同じようにカウンターに用意された朝ご飯。
カウンター席に頑張ってよじ登り、手を合わせた。
「おじさん、たべないの?」
「食った」
今まで子供とコミュニケーションなど取った事が無い景人はどうしてもいつもとおなじ調子で返してしまう。
「あしたは、いっしょにたべよ?」
「……必要か?」
いつも同じ時間に食事を摂ると決めている景人は、時間を遅らせてまで一緒に食べるなんて事が理解できなかった。
「いっしょにたべよ!」
「……お前が早く起きてきたらな」
あくまで自分の生活リズムを崩そうとしないあたり、頑固である。
だが、景人にとってこれは最大限の譲歩だった。
「がんばっておきる!」
「……あぁ」
ルリネが食べおわるのを待って、食器を片付ける。
片付けながら今日はどうしようかと思っていた。買い出しは昨日行ったし、今日は特にすることもない。バーも夜から。まぁ、客は来ないが。
食器を片付けたとたん、手持ちぶさたになって、なんとなしにテレビを付けた。
「暇だ」
「むぅ」
景人もルリネもテレビを見て呟いた。
なにかしよう。
そう思って立ち上がったところに、来客があった。
「まだ営業時間外だ」
「そうつれないことを言うなよ」
訪れたのは、昨日電話した相手、黒崎日向だった。
目的は景人ではなく……ルリネ。
「この子か」
「知らん」
短いやり取りの中に詰め込まれた言葉。ルリネはテレビに夢中でこちらを見ない。
「なにか『言葉』らしいものは?」
「ない。が、昨日サラリーマンに会った」
ライ、と呼ばれる能力を持った人間。
「ライアーか。やはり、奴だな」
「どうすんだ」
「頭が解れば叩きやすい。彼女はもう少ししたらこちらで引き取る」
用意は着々と進んでいるようだ。
「お前ならライアーから守れるだろう」
「当たり前だ」
ライとは、嘘吐き。
普通に生きていても嘘を吐くことはある。だが、嘘が溜りに溜り、嘘で塗り固まってしまったらどうだろう。
原因は未だ不明。
ライを手に入れた人間は、仮面と共に人外の力を手に入れる。その力を使い、ライアーは犯罪を犯す。
そのライアーを消すと言われるものが、『本当の言葉』と呼ばれるものだった。
「ルリネが奴の障害、もしくは何かの鍵になる、か」
「そうだ。その分の金は入るはずだ。頼んだぞ」
「ちっ……」
面倒だが、金は受け取ってしまった。どうせあと3日。それで終わりだ。
ルリネは未だテレビに夢中だ。
「それだけだ。私は戻る」
「とっとと帰れ」
この男、たいがいひねくれ者である。
日向は苦笑して、バーから出ていった。
「おじさん」
「なんだ」
振り向けばルリネが立っていた。なにか言いたげな目をしている。
「なんだ」
「……なんでもないっ」
笑いながら去っていくルリネ。
これはよくある、『呼んでみただけ』という奴だが、景人はそんな無意味な事はした事が無かった為、理解出来ず一瞬固まった。
「……ちっ」
なんとなく舌打ち。追い掛ける気もなかったので、店の掃除を始めた。
♪
宵の入り。
景人はバーを開く。名は『AZURE』。客など滅多に来ないが、別にそれでもよかった。
いつも同じ時間とは限らないが、毎日開いている。
「ルリネ」
「はいっ!」
「寝ろ」
まだ子供が寝るにしても早い。
これもまた、景人にとっての心遣いなのだろう。
本当ならば、『店に居ても邪魔だから消えろ』くらいは言いそうだ。
「はいっ!」
それでもルリネは景人に従って、二階へ上がっていった。素直で助かる。そこは本当の気持ち。
「どうするか」
客が来なければ暇だ。
その暇も、いつもは悪くないのだが、今日に限っていつもと違う。
「いらっしゃい」
カウンターに座って新聞を広げようとした所に、珍しく客が入ってきた。
「どうも。先日はお世話になりましたね?」
「なんの用だ」
カウンター席に座ったのは、昨日叩き伏せたばかりのサラリーマンだった。
「別にサラリーマンが飲みに来てもいいでしょう」
「何を飲む」
「ではジントニックで」
注文を受けて、景人は作りはじめた。
「貴方は、私たちの後ろにいるあのお方と交流があるそうですね」
「そんな上品なもんじゃない」
そう。あるのは怨恨のみ。
関わりが無いのならそれでもいいと思っていた。しかし、なんの因果かこうしてまた道は交わる。
「今日は戦おうなんて気はありません。あのお方からの伝言を伝えに来ただけなのです」
「聞かなくてもいいか?」
とん、とサラリーマンの前にジントニックを置く。
細やかな氷の中、炭酸が弾けレモンの香りが微かに漂う。
「それは困ります」
サラリーマンはジントニックを一口煽り、言葉を続けた。
「『邪魔をしないこと』……だそうですよ」
「それは貴様次第だ、と言っておけ」
サラリーマンの言葉に対し、即座に返答した景人。命令されるのが嫌いな景人故に、無意識の反応だった。
「おやおや。全く……どうして退いてくれないのでしょう」
「俺の前に立つ奴は誰であろうと潰す。それだけだ」
「ふふ……あのお方に敗れた貴方が?」
一瞬だけ、サラリーマンの笑みが深くなった。だが、それと同時に景人から殺気が溢れだす。
「テメェ如きが俺を挑発か……いい度胸だな。表、出ろ」
「……いいでしょう。あのまま勝ったと思われても癪ですからね」
サラリーマンはジントニックを飲み干し、外に出る。景人もカウンターから離れ、エプロンを脱ぎ捨て外に出た。
「……自己紹介、しておきましょうか。私は時疾風方〈トキシツカゼカタ〉と申します」
「如月景人だ。御託はいい。来い」
張り詰めた空気。
もし、この二人の直線上に葉でも落ちたなら、一瞬で散り散りになってしまうことだろう。
「それでは、お言葉に甘えて……『いい気分ですよ。本当に』」
「雑魚が……」
粒子が集まり、仮面が構成されていく。独特の模様が入った、華美な仮面。そしてその両手には、細剣が握られる。
『さぁ! 昨日のようにはいきませんよ!』
即座に距離を詰めてくる風方。
速い。純粋にそう思える程の速度があった。
「だが、まだ遅い」
繰り出される剣撃を尽く捌いていく。正確に、剣の腹に手を当てて紙一重でずらす。
「これじゃあ仮面なんざいらねぇな」
『甘く見ないで頂きたい』
風方が距離を取ったかと思えば、両手を広げて叫んだ。
『さぁ、踊れ!』
言葉を紡いだ瞬間、風方の頭上に粒子が収束し、両手に握られた細剣と同じものが無数に生成された。
『避けれますか?』
「避ける迄もない」
景人の言葉に対し、不敵に笑う風方。今に見ていろ、と言わんばかりの笑顔だ。とはいえ、仮面で景人からは見ることが出来ないのだが。
『串刺しです』
手を振り下ろす。
それに呼応するかのように細剣は動き出し、不規則に飛びつつも景人を狙う。
景人は動かない。ただ、右手を持ち上げただけだった。
これで終わりだ。
風方は勝利を確信し、仮面の下の顔を歪ませた。
細剣が景人に届く、と思った瞬間。
細剣が、一つ残らず消え去った。
『な、馬鹿な!』
「これが奥の手か? 本当に笑わせてくれるな」
どこえ消えたのか。
その答えは、すぐに見付かった。
細剣は全て、景人が握っていたのだ。いや、握っていたというより、潰していた、の方が正しいかもしれない。
「次は、こっちから行こうか」
刹那。
風方の視界から景人が消え去った。
「……気付けよ」
『後ろっ……』
左手の裏拳が風方にクリーンヒットする。それだけなのに、風方は吹っ飛ばされて道路に転がった。
「まだだ」
地に伏していた風方を容赦無く蹴りあげる。
『がはっ……』
伏していた筈なのに、何故今は宙に浮いているのだろう。風方は頭の隅でそんな事を考えていた。
そして、景人の攻撃はまだ続く。
「寝てろ。……『双天』」
一撃。
「地力が違う。出直せ」
『まだ、ですよ……』
地に伏した風方は、なおも立ち上がろうとする。
「はっ……そんな体で何ができる?」
『……貴方も、知ってるんじゃありませんか? ライアーの最後の力。二段階目の解放を、ね』
立ち上がる風方。その仮面の下からは深い笑みが隠れて見えた。
「ほう? じゃあ見せてみろよ。それも全部、叩き潰してやる。あいつに害なすものは全部、な」
ごき、と指を鳴らす。
『それじゃ、お言葉に甘えて。……『疾キ風』』
何かが、割れる音がした。
何かが、落ちる音がした。
そして風方の周りに粒子が集まり、再び構成していく。今度は仮面ではなく、鎧を。
『ふ、ふ……ふはははははははははっ! いいぞ、この力だ! これで貴様をねじ伏せられる!」
上半身を覆う、白銀の鎧。
その姿はまるで女王を守る騎士のようだ。
「ふん。滑稽だな。守るべきものなどないくせに」
『そんな軽口を言っていられるのも今の内ですよ。今に後悔するのですから』
倍ほどにも伸びた細剣は景人に向けられた。
「やってみろ。どうせ、徒労に終わるがな」
『ならば……その身をもって確かめなさい!』
──風。
ただ、風が駆け抜けただけにしか感じなかった。
「ほう……なかなかやるじゃねぇか」
『だから言ったでしょう? 今に後悔すると。今のはわざと外しました。次は……本気でその身を切り刻みに』
「やってみろよ? まぁ……倒れるのはお前の方だがな」
『減らず口を。それでは、見せてもらいましょうか?』
また、消えた。
ただ単に高速移動しているだけなのだが、あまりに速い。向きを切り替える際に、衝撃波さえ発生しているのだ。疾風の真名は飾りではないということか。
『捉えられないでしょう。私の速度は優に音速を超える。貴方程度の実力では──』
「御託はいいって言ってんだろうが」
『では死になさい』
ご、と衝撃波が発生する。
そう、風方はもう目の前に──
「遅い……──一文字」
『がふっ……』
景人の一撃の蹴りが、風方の顔面に直撃した。
細剣は景人に届くことはなく、風方は力なく地面に崩れ落ちる。同時に、纏っていた鎧も粉々に砕け散って。
「奥の手も尽きたな。さぁ、吐け。俺は面倒が嫌いだ。問いに三秒間が空いた場合、答えない場合は殺す。もちろん嘘も禁止だ」
「ライアーに、嘘は禁止だなんて……変な方ですねぇ」
「いいから答えろ。アイツはどこにいる?」
「……西新宿、ジャンクストリートの一角。その地下に、あのお方はいらっしゃいます。あのお方は、あなたといた以前よりも、比べ物にならないほど強くなっていますよ? 私程度で満足していては困りますね」
「満足? 馬鹿言え。お前は俺に仮面すら出させることはできなかったんだ。それに──強くなったのがアイツだけだと思うな」
「ふふふ……それで、ほかに聞きたいことはないのですか?」
風方の笑みは、どこか力ないものになっていた。
あの貼り付けたような笑みはどこにもなく、憐れむような、それでいて悲しげな笑みだった。
「ねぇよ。ま、強いて言うなら……酒の代金、払ってから帰れ」




