一日目 拾った厄介事
「ちっ……」
薄暗いバーの、カウンターに座る男が一人。他に客はいない。いるのは店主である男一人だけ。
三十近い風貌をした男は、空になったタバコの箱を潰して投げ捨てた。
買いに行こうか行くまいか。
外は雨。
出掛けるのも面倒だが、タバコを切らしているのにも耐え難かった。
客が来るわけでもない。
というより、ここ数日客が来ていない。
最後の客は、たしか、十日前に来た一人きりだった気がする。
「仕方ねぇな」
気怠い仕草でカウンターから立ち上がり、奥にしまってあった黒いコートを羽織る。
それからレジの中にしまってあった紙幣を数枚取って店の外に出る。
「ちっ…そういや雨か」
舌打ちをして、客の忘れ物であろう傘を何の躊躇いもなく引き抜いてさした。
コンビニまでは、そう遠くない。しかし、男にとって外というのは針のむしろに近かった。
強めの風が吹いて、漆黒の髪を揺らす。もう長い事切っていないせいで、目元まで前髪がかかっていた。
揺れた前髪から覗く青い瞳。
長身で青い瞳を持つ男は日本人だった。
国の多様化が進み、国が一つの文化を持つのではなく、世界が一つの国として文化を持つ。
そのせいで、様々な遺伝子が交ざり瞳の色が変わったりするのだ。
ぱしゃ、と水溜まりに足を突っ込み音が鳴る。ズボンの裾に泥水がかかって少し苛立つが、すぐにどうでもよくなった。
「ついてねぇ」
時の運のせいにして、コンビニへと足を速める。
コンビニまでもう少し、という手前の路地で何か見えた。
今の日本、いや、特にこの新宿は治安が悪い。
浮浪者か、馬鹿か、それとも裏の人間か。
どちらにせよ、面倒な事になる。知らぬ存ぜぬで通してコンビニに行ったほうが良い。
だが、風に乗って届いた声に、足を止めてしまった。
「……ガキの声か」
別にそのまま放って帰ってもいい。だが、それだと後味が悪い。
少しだけ様子を見に行くことにした。
狭い空から水滴が落ちてくる。
路地の一番奥、光の届かない場所で、金髪の少女が横たわっていた。
「……ちっ」
浮浪者であったなら、そのまま放置しておけばいい。
馬鹿であったなら、殴り倒せばいい。
だが、びしょびしょに濡れ、倒れている少女の対処法など男にはわからなかった。
しばらく立ち尽くして、雨に濡れているのが見ていられず傘をさそうとした時。
少女の口が微かに動くのがわかった。
「たす、け…て」
微かでも確かに聞こえた。
「今日は厄日か」
ぽそりと呟きつつも、少女を抱えて路地から抜け出した。
♪
「ん……」
まばゆい光。
ここは何処だろう。
少女は今まで自分が何をしていたのか、何故ここにいるのかわからなかった。
わかるのは一つ、名前だけ。
長い金髪と青い瞳。
しかし顔立ちは日本人。
歳は六か、七か。
少女は不安がる事もなく、ベッドから飛び降りた。
途端、冷たいフローリングの感触。少女は驚いてベッドに戻る。
しかめっ面に頬を膨らませて、第一の関門を睨み付ける。
そーっと足を下ろして、フローリングに立つ。
もちろん冷たい。が、驚いてベッドに戻るような事はしなかった。
なんとなしに、少女は勝ち誇った顔になった。
次は、あの扉。
気分はさながら、冒険者だった。
どきどきしながらもドアノブに手をかける。
「んっ」
ぱちっと音がして、僅かな痛みが伝わった。しかし、それでも少女を驚かせるには十分。
しりもちをついて転んでしまった。
「むむ…」
ぱちぱちは痛い。
そう認識した少女はそーっとまたドアノブを握る。
「できた」
今度はぱちぱちしなかった。
安心しつつもどきどきはまだ続く。
ドアノブをひねり、開いた先には階段があった。
ちょっと高い位置にいることで、背筋がぷるっとした。
しかし、負けてはいられない。
一段一段、少しずつ降りていく。降りていくごとに、良い匂いがすることに少女は気付いた。
おなかすいた。
ここに来て漸く気付いた。良い匂いに気持ちが逸りつつも、階段はまだある。気持ちを押さえながらもゆっくり一段ずつ降りていく。
階段を降り切った少女の前には、再びドアノブ。
「またぱちぱち…」
ちょっと怖かった。
しかし、これを越えなければ次へ進めない。少女にとっては一大決心でドアノブを握った。
が、何も起きない。
ぱちぱちは居なかったようだ。
そのままゆっくりひねり、最後のドアを開ける。
「はぇ?」
ドアを開けた先は不思議な空間になっていて、少女は口をあけたまま驚いた。
目の前にある黒い二本の何か。
その奥には差し込む陽の光。
漂ってくる匂いは少女の胃を刺激する。
「なんだ、手間が省けた」
上から低い声がした。
少女はほとんど真上を見るように、声の主を見つけた。
「ぅあぁ…」
男は変な声だ、と思いつつも直ぐに興味を失って踵を返し、バーのカウンターに戻る。
それを少女はキラキラした目で見つめていた。
実際、男の風貌は悪くはない。
少し、というか割と長い黒髪はストレートで、今は全て後ろに撫で付けてある。
そのため顕になった切れ長の鋭い瞳は、広げられた新聞に向けられていた。
しっかりとしたバーであれば、バーテン服を着てグラスでも研いていそうなものであるが、この男は黒のスラックスに黒のシャツという、あまりバーテン向きではないような服装だった。
それでも一応、腰にエプロンは巻いているのだが。
「食え」
足りない。圧倒的に言葉が足りない。
何処かも分からない場所で目を覚まして、彷徨っている少女に向ける言葉としてはあんまりだった。
しかし、それでもこの言葉は男にとって最大の気遣い。いつもなら、放って置けば食うだろう、程度にしか思わない為、男なりに気を遣っているつもりなのだろう。
普通には、遠く及ばないが。
少女はそれでも意味を理解したのか、頑張ってカウンター席に上り、食事を目の前に目を輝かせた。
「いただきます!」
ちらりと男は一瞥し、また新聞に目を戻した。
しかし、暫くしても食事が始まった様子はない。仕方なく新聞から目を外してみると、少女は食事に手を着けずこちらを見ていた。
「……何してる。食え」
「いただきます!」
今度こそ食うだろう。そう思って新聞に目を戻した。が、まだ食事が始まった様子がない。
……まさか、いただきますに反応していないせいか?
少し考えて漸く結論に至った。勝手に家の中を歩いてきたくせして、妙なところで律儀な奴だ。
「いただきます!」
言った後もじっと見つめてくる。これは、やっぱそうなんだろうな。
「……あぁ」
柔らかな笑顔が、一層明るくなる。
男は興味を失って、また新聞に目を向けた。
「ごちそうさまでした!」
これは…また、反応しないと続くのか。面倒な奴だ。
思いつつも、続くのは面倒なので言葉を返す。
「…あぁ」
新聞を仕舞い、少女の食べた皿を片付ける。元々食器の数は少ない為、すぐに洗わなければ切らしてしまうのだ。
その代わり、グラスは大量にある。
「で、だ」
「?」
笑顔のまま首を傾げる少女。
起きたら見知らぬ所にいて、見知らぬ男がいるというのに、どうして混乱しないのだろう。
「お前、名は」
「ルリネ!」
「…………」
少女はニコニコしたままだ。
下の名前のようだが、上はどうしたんだ、と問おうとしたがやめた。ただ単に面倒だった。
「なんで倒れていた」
「おなかすいてた!」
そういうこと聞いてるんじゃねぇよ。……と行ってやりたかったが、こんな子どもに説いても意味がない。
「親は」
「えっと……おや? ってなぁに?」
……言葉の意味を理解してないのか?
いや、違う。この反応は、親という言葉の意味も、存在も知らない。そんな反応だ。
このまま警察に引き渡して終わりかと思ったが、どうやらそう上手く事が運びそうもないな。
「ちっ……」
舌打ちを一つ、タバコを吸おうとして胸ポケットを探るが、切らしていた事に気付いて苛立ちが増す。
「おじさんのなまえは?」
「おじさっ……」
まだ、そう。まだおじさんなどと呼ばれる年ではない筈だ。まだ28だ。三十路まであと二年もあるんだ。
そう、子どもの戯れ言にいちいち反応なんてしなくていいんだ。そうだ。
「俺は、如月景人〈キサラギカゲヒト〉だ」
「きさらぎ、かげひと…うん! おじさん!」
名を教えたからといって、名で呼んでもらえるとは限らない、ということか…。
「少し待ってろ」
カウンター席から立ち上がり、レジの中から携帯を取り出す。暫く使ってなかった上に、もう古い。バッテリーが切れていた。
仕方なく携帯を充電器に繋ぎ、電話帳で見知った名前をプッシュする。
数回コールが鳴った後、懐かしい声が聞こえた。
『珍しいな景人。お前から電話なんて何時ぶりだ?』
「用事がなけりゃかけない。ガキが1人、昨日路地で倒れてた。なんか情報」
傍若無人という言葉がよく似合う、と電話先の男……景人の友人である黒崎日向〈クロサキヒナタ〉は言った。
『子ども? 特に捜索届けも何も出てないが……ただ、この辺りで新しい事案があるな』
「なんでもいい。言え」
およそ人に頼む態度ではないが、それでも景人の性格をわかっている日向は言葉を続ける。
『あの案件だ。最近被害が続いてる。特に新宿でな。その子供と関係が有るのかはわからんが……』
「ガキ1人消えて親が心配しねぇ、ってんなら今の時代わからねぇことでもない。だが……このガキとアレ、何の関係がある」
ちらりとルリネを見る。
眠たそうに船を漕いでいた。
『普通の被害もある。しかし、増えた被害のうち八割は子供が襲われてるんだ』
「……何?」
『助かった子供によれば、全員口を揃えて『違う、こいつは持ってない』と言うそうだ』
「何を持ってんだ」
『推測に過ぎないが……本当の言葉、だろう』
「……アイツ、か」
一瞬でも顔を思い浮べたせいで、景人の顔は苦虫を噛み潰したように歪んだ。
『襲われた子供の情報は?』
「よこせ」
『……皆、六歳から八歳までの女の子。金髪ばかりが狙われている』
「金髪のガキがここにいる。どうにかなんねぇか」
『現状ではなんとも。暫く預かっててくれ』
「……なんだと?」
耳を疑った。
まさかこいつは、子守をしろと言っているのか。
「馬鹿言うなこっちはそんなに暇じゃない」
『そうか……少なからず報酬もあるんだが』
ぴく。
「……何日だ」
『流石。3日、4日でいい』
「3割前金でよこせ」
『後で振り込む』
その言葉を聞くが早いか、景人は電話を切った。
酒だ。タバコも買おう。
そうと決まれば出掛けなければ。
「出掛ける」
「うん!」
駆け寄ってきた。
別に連れていくとは言ってないのだが。とはいえ、残していって襲われたりなんかしたら目もあてられない。困るのだ。生活に。
しかし、よく考えたらルリネはただのワンピース一着。靴もない。どうやって連れていこうか。
と、悩んでいたら飛び乗ってきた。
これでいいか。
しかし、少し危ないかもしれない。
景人は何度か、というより、外に出れば職務質問を掛けられる。何もしてないのに、だ。
確かに人相は悪いかもしれない。が、それだけで職務質問に掛けられるのは苛立ちがつのる。
基本的に景人は邪魔されるのが嫌いだった。
そこにこのまま肩車で町を歩けばどうなるか。
……危ない。非常に。
職務質問をすっとばして現行犯逮捕もあり得る。
ふと気が付いて、警察ごときの心配をしている自分が面倒になった。
結果、そのまま街に出た。
「日向が根回ししたか」
「む?」
百貨店に来るまでの間、住民の視線はあったが職務質問されるようなことはなかった。
住民の視線は、尽く視線で潰したが。
「とりあえず、靴だ。好きなの買え」
「ん!」
景人から飛び降りてすぐさま靴を見に行った。
景人は、そのまま暫く店の前で待った。
「これか」
「これ!」
レジで万札を出し、釣りを受け取って戻る。
「次、靴下とか下着とか服。行ってこい」
「りょーかいです!」
振り向きもしないで走っていった。
一服しようと思い、外に出る。昨日の雨なんか無かったかのように晴れ渡り、冬の入りとは思えない暖かさだった。
何故こんなことになったのか。
自分の預金口座を見て驚いた。日向が桁を間違えたのではないか、と思うほど多い。それと同時に、厄介事、それも大きなものに巻き込まれたとわかった。
あの少女、ルリネが、どれ程危険な存在か。
「……出て来い」
辺りに人影はない。
百貨店だというのに、だ。
気配は一つ。
「……よくわかりましたね。気配は消していた筈なのですが」
「それで消えてたと思ってるなら、とんだお笑い草だな」
背後の物陰から表れたのは、一見どこにでもいるサラリーマンだった。
黒いスーツに眼鏡。短い髪。
しかし、顔だ。張りつけた笑みがカタギの人間ではないと物語っている。
まるで、そう。仮面のようだ。
「貴方の連れている少女…渡して頂けませんか」
疑問符が付いてない。
断れば即座に襲い掛かるだろう。
「ちゃっちゃと渡して身の安全をはかるか……少々危険をおかして金をとるか……お前ならどっちにする?」
「私は渡す方を取りますね」
「よく言う」
景人の言葉を境に、空気が張り詰めたものに変わった。
「交渉決裂ですね…『私は残念です』」
「嘘吐きが」
粒子、と呼んでいいのか。
サラリーマンの顔に、仮面が貼り付けられていく。
同時に両手に細剣が握られた。
『さぁて、貴方を殺して少女を頂きましょうか。それとも貴方も仮面を出しますか? 悪あがきにしかなりませんがね』
「いいから来い」
『ではお望み通りに』
ブレた、と思えば既に目の前。
それでも景人は焦らない。
『ホラホラ! どうしました? 手も足も出ませんか!』
首、心臓、腹、足。
様々な急所を細剣が狙うが、景人は全て躱していた。
「うるせぇ」
左足を上げた。
たったそれだけ。しかし、その上げた左足はサラリーマンの顎に直撃して、サラリーマンはふらつきながらも構えを取った。
『ふ、ふふ…まぐれ当たりでいい気に……』
「黙れッてんだろ」
そんな事は言ってなかった。
サラリーマンが口に出すより早く、景人は右足で回し蹴り。腕ごと力押しして振り切る。
まさにくの字に曲がり、左腕を押さえながら耐えた。
「しぶといな」
『命くらいは残そうと思いましたが、もう止めです。貴方は殺す』
「ハナっから殺す気だろ」
景人の言葉など聞こえなかったかのように、細剣を構えて飛び掛かってきた。
『死になさい』
「俺に命令すんな」
ポケットから、右手を出す。
細剣の刃が首に当たる、と言うところで、細剣は砕けた。
……ついでに、サラリーマンの仮面も。
「悪いな。俺は忙しいからよ」
既に、サラリーマンには聞こえていないようだった。
百貨店の中に戻れば、ルリネが泣きだしそうな顔でうろうろしていた。
「買えたか」
手に持った買い物袋を見ればわかるのだが、景人なりの心遣いだった。
景人に気付いた瞬間、泣きだしそうな顔だったルリネは、一転笑顔に変わり、飛んで景人にくっつく。
「ありがとう!」
「……あぁ」
靴を履いているのだから歩け、と言いそうになったが、口を開けて止めた。
背中に登ったルリネから、寝息が聞こえてきたから。




