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異世界が舞台の短編

ドアマット旦那様

作者: 棚本いこま
掲載日:2026/06/24




 私の旦那様は、人目を惹く姿をしている。


 金色の瞳と黒髪がこの国では珍しいというのもあるが、それはまあ「外国の人なんだね」の範疇だ。目を惹く一番の理由は、尻尾である。


 そう。旦那様には黒い鱗に覆われた、竜のような尻尾が生えているのだ。

 否、竜の「ような」でなく、竜そのものの尻尾が。


 なぜなら旦那様は、世にも希少な竜人――竜の血を引く人間なのだから。


 竜人の始まりが記された貴重な古文書には、こうある。


 とてもとても大昔、とある竜と人間が出会って恋に落ちて砂浜で追いかけっこして花畑で愛を誓って以下省略、そうして竜人の一族は生まれたのだと。


「その体格差でどうやって夫婦の営みが成立したのだ」と無粋な疑問を呈する歴史学者を火炎の息吹で燃やし尽くさんばかりの愛と情熱と惚気に溢れたその古文書、その名も『どらごんみーつがーるりあじゅう日記』は、竜人の一族が重要文化財に指定している文献であり、非常に信憑性が高い。


 ゆえに竜と人間の恋物語は、確かに事実として存在したのだろう。


 なお、古文書の題名である「どらごんみーつがーるりあじゅう」なる古代語が一体何を指す言葉なのかは、現代では不明だ。とうの竜人たちにもよく分かっていないという。

 一族の始まりを記した文献なのだから、きっと深淵で高尚な哲学用語に違いない……というのが有識者による見解である。いつか真相が解明される日が来れば、それは歴史的大発見として後世まで語り継がれることだろう。


 話が少し逸れたが、ともかく私の旦那様は竜人なのだ。


 そして私は、「この国を守護してくださる竜人の一族が望んだ時には、すぐに嫁を差し出すこと」を責務として負う貴族の娘である。


 先日ついに竜人の長からお達しを受け、花嫁衣装を着せられ、立派な輿に載せられ、初めて「旦那様」と顔を合わせたのだけれど。


「嫁とかいらん」


 これが、我が旦那様の第一声である。

 一族が望んだこと=個人が望んだことではない、というのがよく分かった瞬間だった。



  ***



 いらん発言をされたとて、のこのこ実家に帰るわけにはいかない。


 旦那様ご本人が望まなくとも、これは竜人の長のご意向である。その意に逆らったとなれば、私の家は国家反逆罪扱いされるだろう。我が国において、竜人の長は国王よりも偉いのだ。


 そのことは旦那様も重々承知らしく、迷惑そうな顔で「嫁とかいらん」とは言い放ったものの、さすがに私を放り出そうとはしなかった。


「空いている部屋を適当に使え。食事は勝手にしろ。台所は好きに使え。必要な金は渡す。家の中でも外でも自由に過ごせ。ただし俺の部屋には入るなよ」


 彼に夫婦らしい生活をする気は皆無らしいが、衣食住は保証されたので文句はなかった。愛のない結婚なんて貴族あるあるだ。悠々自適な生活を送らせてくれるのなら、私としては百点満点である。


 旦那様は魔術の研究で(竜人は人間に比べて桁違いに魔術が得意)、毎日ほぼ自室に籠もっている。定期的に研究所へ出かける姿は見かけるが、外出はそれくらいだ。一緒に住んでいても、顔を合わせるのは日に三回あるかなきか。


 表面上とはいえ夫婦は夫婦、家の中で顔を合わせれば一応「おはようございます」「おかえりなさいませ」「おやすみなさい」と挨拶をしてみるのだけれど、旦那様は「ああ」の一言。徹底した愛想の無さだった。


 いっそ清々しいほどの他人っぷりに、かえって不快感は抱かなかった。旦那様は本当に心の底から嫁なんか欲しくなかったんだろうなぁ、と感心したくらいだ。


 なお、この屋敷に使用人はいない。旦那様は使用人との付き合いさえ厭う気難しいお方なのだ。私は幸い、「将来嫁ぐ竜人様に粗相がないように」と一通りの家事もろもろは実家で仕込まれていたので、全て一人でやる生活にすぐ慣れることができた。


 こうして、ほぼ家庭内別居で実質お気楽な一人暮らしを満喫していた、ある日。

 私と旦那様の関係が、ガラリと変わる事件が起きる。



  ***



 その日、私は街で買い物を済ませ、一人で帰路についていた。

 旦那様の屋敷は、町外れの森の奥にひっそりと建っている。静かで良い立地だ。


 食材が詰まった買い物籠を提げ、「よーし今日はカレーを作るぞ」と張り切って屋敷に辿り着いたら。


 玄関前に旦那様がいた。

 ドアマットの上で三角座りをしていた。

 鍵を忘れて出掛けてしまい締め出しを食らった人みたいな哀愁漂う状態で膝を抱えていた。


「……だ、旦那様?」


 私がおずおず呼びかけると、虚ろな目で芝生を見つめていた彼はハッと視線を上げ、それから神妙な表情で「なんだ」と短く言った。


 これが玉座に腰掛けていたなら、さぞかし威厳を感じさせる雰囲気だったのだが、いかんせん体勢が三角座りなので、なんだか、うん。


「玄関前に座り込んで、どうされました?」


 なんとなく2メートルほど距離を取ったまま問うと、旦那様は数秒だけ目を泳がせてから、キリッとした表情で口を開いた。


「……お前が外に出た後、俺も研究所へ出かける用事を思い出して」


「はい」


「最近は『ピッキング』なる技術を用いた空き巣が多いのだと同僚が言っていたから、鍵を掛けるだけでは不安かなと思って」


「はい」


「俺が考えた最強の防御を屋敷に施したんだ」


「おれがかんがえたさいきょうのぼうぎょ」


「どんな攻撃も受け付けず、あらゆる侵入者を拒み、誰にも解除できない、最強の防御魔術だ。町一つ吹き飛ばせる大規模魔術を撃ち込まれてもヒビ一つ入らん」


「想定している敵は一介の空き巣なんですよね……?」


「で、防御魔術を掛けたところまではよかったが、問題はそのあとだ。『誰にも解除できない』という条件では術者本人にも解除できないのでは……ということに、後から気付いた。だが、時すでに遅く」


 ここまで威厳たっぷりに話していた旦那様は、ここで一度言葉を区切り、ものすごく小声でこう続けた。


「家に入れなくなった」


「ま、間抜けだ!」


 夫との初めての長文会話がこれというのも悲しいが、そんなことよりも常日頃スンと澄ましている男が類いまれなるポンコツだったという衝撃のほうが大きかったので思わずありのままの気持ちを叫んでしまったら、彼はムッとした顔になった。


「誰が間抜けだ。俺は天才だ。これは最強を冠するに相応しい完璧な防御なんだ。魔術のなんたるかも知らん人間のお前には理解すらできんだろうが、これは古の」


「ああ……まさかそんな間抜けな理由で玄関前のせめてお尻が冷えないドアマットの上で三角座りして途方にくれていたなんて……」


「はあああ? 途方に暮れてなどおらんわ!」


 旦那様はピンと尻尾を立てるやドアマット三角座り体勢を速やかに解除、つかつかと私の目の前にやってきて、尊大に腕を組んで顎を上げた。


「思索に耽っていただけだ! 最強の防御魔術を解除するためにな! そうだ。俺に不可能はない。この防御魔術だって解除できるはずだ」


「あ、解除できちゃうんですか。最強なのに。あっはいすみません睨まないで」


 今まで私との対話など「ああ」で済ませて足早に去るだけだった旦那様は、それはもう尻尾の鱗を盛大に逆立て(怒った猫のごとく)、それはもう至近距離で睨んでくる(やんのかコラという心の声が聞こえる)。私は荒ぶる野生動物に接する心境で「どうどう」と旦那様を宥めた。


 ちなみに旦那様、見た目は二十歳超えたくらいの青年だが、実年齢は百ほにゃらら歳だと聞いている。しかしこの荒ぶり具合および多発する「最強」発言から推測するに、きっと精神年齢は十代に違いない。混乱するので年齢と容姿と精神で足並みを揃えていただきたいところだ。


 見た目は大人、心は少年。うん、仕方ない。ここは先月に二十歳を迎えた頼れるお姉さんである私が、彼を牽引してやらねば。気分的には年下の夫を持った姐さん女房だ。どんと来い、百ほにゃらら歳の年下旦那。


「状況は分かりました。まずは旦那様の勤め先に連絡してみませんか」


 私は(精神的)姐さん女房として、冷静にそう提案した。困った時は専門知識を持った人に頼るのが大人の基本戦術である。これぞ社会性というやつだ。


「魔術の粋を極めし研究所の皆さんと協力すれば、この最強の防御もきっとどうにか」


「やだ」


「やだて」


「助けを求めるなど断固拒否だ! 自分で掛けた魔術が解けなくて自宅に入れないなどと職場の奴らに言えるか! 絶対に俺ひとりでなんとかする!」


「ううーん自尊心が天よりも高い」


 旦那様には他人に頼るという選択肢がないらしい。私は困った顔で買い物籠を見た。


「カレー用にお肉買っちゃったので、早いとこ冷蔵庫に入れたいんですけど……魔術の解除って、旦那様の独力だとどれくらい掛かりますか?」


 旦那様は私の質問を「はっ」と鼻で笑った。辞書の嘲笑のページの挿絵に抜擢されそうなほど見事な嘲笑である。


「俺ほどの天才が全力を挙げるのだ。こんなもんすぐだ、すぐ」


「へええ。三十分くらいですか?」


「一週間」


「お肉は助からないことが確定しました」


「ふふん、これほど精緻な魔術の解除をたった一週間でこなせる者は俺くらいのものだ。というわけでその間は自宅に入れないから、俺が魔術を解くまでお前は町の宿に泊まっていろ」


 旦那様は籠の中のお肉を悲しげに見つめる私に構わず、懐をごそごそと探って巾着を取り出し、明らかに巾着の外見容量よりも奥に手を突っ込み、明らかに巾着の外見容量よりも多い金貨を鷲掴み、ぞんざいに私に押しつけた。


「相場はよく分からんが当面はこれで足りるだろ。金が足りなくなったら戻ってこい。また渡す」


「私が宿暮らしをする間、旦那様はどうするのですか?」


「俺はここから動かん。いいか? 俺まで宿暮らしを始めてみろ、さすがに変な噂が立つだろうが。自分の魔術で自宅に入れなくなったなどと噂されては俺の評判に関わる」


「妻が単身で宿暮らしを始めたら始めたで、別の方向性で旦那様の評判が地に落ちると思うのですが……それに、旦那様が一人ここに残ったとして、ご飯や寝床はどうするんですか?」


「……な、なんとかする」


「本当に大丈夫ですか? 高級宿で美食と温泉とエステの贅沢三昧をしてツヤツヤになって帰ってきたら自宅前で餓え渇きカサカサになった旦那様を発見、なんてことになったら嫌ですよ? 本当に一人で大丈夫ですか?」


「うるさい! 大丈夫だ!」


 他人に頼ることに強い拒否感があるらしき旦那様は、ふんと鼻を鳴らして私に背を向け、ドアマットの上に座り込み、魔術陣を展開した。解除作業に入ったのだろう。


「旦那様」


 旦那様は何も言わない。

 

「私、ほんとに目玉が飛び出るほど高級な宿に泊まっちゃいますからね」


 旦那様は振り返りすらしない。


「旦那様が薄ーいドアマットの上で枕すらなく夜風に震えて寒ーい夜を過ごしている間、私は大きなベッドでふっかふかの羽毛に包まれながら快適に眠っちゃいますからね」


 旦那様の尻尾がピクッと動いた。


「旦那様が寝違えてバッキバキになった身体を起こし空腹に耐えながら悲しく朝日を浴びている間、私はカーテン越しの柔らかな日差しと小鳥の囀りで穏やかに起床して温かなベッドの上で優雅にベルを鳴らし香り高い目覚めの紅茶を」


「うるさい早く行け全く羨ましくなどないからな!」


「はい」


 旦那様は意地でも玄関前から動かないつもりらしい。

 いいだろう。そっちがその気なら、こっちも好きにさせてもらおう。






「というわけでキャンプ用品一式を買ってきました」


 大荷物を乗せた荷車をゴロゴロと引きながら戻ってきた私を見て、旦那様はポカンと口を開けた。


「な、なにゆえキャンプ用品……?」


「え? だって自宅に入れないなら、私たちは自宅前でテント生活をするしかないですよね? この森は旦那様の敷地ですからキャンプし放題、近場に井戸もあれば厠もあり水浴びに適した泉さえある充実の水回り、もはやテントを張らない理由がありません」


「……私、たち?」


「え? 一緒にテント生活するに決まっているじゃないですか。夫婦ですし。思いのほかポンコツだと判明した旦那様を玄関前に放置できませんし」


 呆気に取られている旦那様の目の前で、私は自慢げに荷車の中身を降ろしていった。


「どうです、このテント。余裕を持って定員五人のものを買ってみました。これはタープ。あるとないとでは便利さが違うとか。折り畳みテーブル。椅子。忘れちゃいけない焚き火台。店員さんに激推しされたランタン。薪割り用の斧。ペグハンマー。店員さんに激推しされたバドミントンセット」


「なっ、おま、お前、俺は宿に泊まれと言って金を渡したんだぞ!?」


 ようやく状況を飲み込んだらしい旦那様は、尻尾をピンと立てて怒鳴った。


「なぜ無駄に充実したキャンプ用品を買ってくる! なんだペグハンマーって! あと店員の押しに弱すぎるぞ絶対にいらんだろバドミントンセット!」


「では私はさっそくテント設営に取りかかります。旦那様はお気になさらず、引き続き防御魔術の解除を頑張ってくださいませ」


 荒ぶる旦那様を無視してせっせと荷下ろしを進める。旦那様はまだ何か言いたげだったが、「勝手にしろ」と言ってそれ以上の抗議は諦め、再び私に背を向け、荒々しくドアマットに座り込み、屋敷の防御魔術に向き合い始めた。お互いに黙々と作業に取りかかる。


 しかしテント設営、初心者にはけっこう難しい。説明書を見ながらどうにかこうにか頑張るが、全く進まない。


「うーん……」

「……」

「こうかな?」

「……」

「あっ!」

「!?」

「あちゃー……」

「……おい」

「うーん逆だったかな?」

「おい!」


 悪戦苦闘していたら、玄関前を陣取っていたはずの旦那様が、いつの間にか怖い顔で目の前に立っていた。


「なんださっきから! 気になって集中できないだろうが! しかも全然進んでないし!」


「す、すみません……。説明書を読んでも全然上手くいかなくて」


「ちっ。貸せ」


 旦那様は私の手から「愚者にも分かる初めてのテント設営」と題された説明書を奪い取り、ツンとした顔で読み始めた。


「こんな簡単な手順も分からんとは……今から俺が指示するからその通りに動け」


 旦那様は日頃から難解な魔術論文を読んだり書いたりしているだけあって、説明書の内容の理解も早かった。指示されるまま、唯々諾々と従う。


 右手で説明書を持ち、左手で私にペグや紐を渡し、尻尾で「そこ押さえろ」とか「次はあっち」と方角を示す旦那様。彼の頭脳と腕と尻尾を総動員で手伝ってもらった結果、無事に大型テントを設営できた。湧き上がる達成感。


「やりました……! ありがとうございます、旦那様。助かりました」


「ふん。この程度の些事、わけもない」


 いかにもどうでも良さそうな顔をする旦那様だが、ぱたたたた……と高速で尻尾が左右に揺れていた。機嫌良さげな様子で私に背を向ける。


「俺は作業に戻る。お前はテントで大人しくしているがいい」


「はい。大人しくしています」


 私は殊勝な態度で頷いた。


「うーん。こうかな。えいっ。あっ! あちゃー……」


 そして大人しくタープの設営に着手し、大人しくペグハンマーを振りかぶり、大人しくポールを倒し、大人しく失敗していたら、さっき機嫌良く玄関前に戻ったはずの旦那様が、再び怖い顔でつかつかと目の前にやってきた。


「お前と俺とで『大人しく』の定義が大きく異なることは理解した」


「え? 私はちゃんと大人しくタープの設営を」


「説明書!」


「あっはい」


 すごい剣幕で説明書を求められた私は大人しくブツを渡し、それから大人しく旦那様の指示を仰ぐことになり、おかげでタープはすぐに完成した。


「ありがとうございます、旦那様。さすがです。説明書を解読させて右に出るものなし」


「ふん。この程度のこともできん奴の気持ちが分からんな。他に説明書があれば持ってくるがいい。暇潰しに見てやる」


 やはり旦那様はスンと澄ました顔で言い残し、尻尾をふりふり玄関前に戻っていった。上機嫌であることがありありと分かるふりふり具合に顔がにやけてしまう。


 私はこれまで、旦那様は人嫌いだと思っていたのだけれど、それは「頼る」限定の話で、「頼られる」ことに関しては、そこまで拒否感がないのかもしれない。というかあの反応を見る限り、むしろ頼られるのは好きそうだ。新発見である。


 そしてテント一つまともに組み立てられない人間が近くにいたら、どうにも放っておけない性質らしい。単に背後でうごうごされるのが煩わしかっただけかもしれないが、それでも実際に手助けしてくれたのだから、それは優しさと言って過言ではあるまい。うちの旦那様、愛想はないが優しさは持っていたのだ。新発見である。


 なにより、旦那様はスンと冷えた表情しかない男ではなかった。普通に怒る、睨む、狼狽する、得意げにする。普通に感情豊かな人だった。あと竜の尻尾、ピンと立ったり鱗が逆立ったりぱたぱた揺れたり、これまた感情豊かだ。本体より素直説まで浮上している。新発見である。


 数ヶ月同じ屋根の下で暮らして何も発見できなかったのに、いざ同じ屋根の下から一緒に閉め出されてみたら、たった数時間で新発見の連続で。


「ふふふ」


 それは「うわあ自宅に入れなくなっちゃったなあ」という困った気持ちを、あっさり「まあ一回くらい閉め出されるのも悪くないなあ」に塗り替えてしまえるくらいには、素敵な発見だった。

 

 そんなどことなく愉快な気持ちで、新品の飯盒炊爨キットを駆使して米を炊いたりカレーを煮込んだり、本日の夕食作りに励む。


 今まで一緒に食事を取ったことはないけれど、今日は旦那様が引き籠もる部屋もないし、この状況なら一緒にキャンプ飯が自然な流れだし、何より私が彼とご飯を食べてみたいし、そうしよう。


「旦那様。カレーができましたよ。夕食にしましょう」


 ドアマットに座り込んで防御魔術をごそごそしていた旦那様に声を掛けると、彼はきょとんとした顔で振り向いた。「なんかカレーの匂いがする」と呟き、直後にぐううううとお腹の音を響かせる。


 これだけ美味しい匂いがふんだんに漂っている中、私に声を掛けられるまでカレーの存在に気付かず、たぶん己の空腹にも気付かず、ずっと魔術の解除に没頭していたらしい。大した集中力である。


「キャンプと言えばカレーです。さあさあ」


 旦那様はぐうぐうとお腹を鳴らしながら、素直にタープの下のテーブルまでついてきた。キャンプ用の軽くてかしゃかしゃ鳴るお皿にカレーをよそい、スプーンとともに渡す。


 旦那様はやはり素直にスプーンを受け取って、一口食べて、カッと目を見開いた。空腹のためかしょんぼり風情だった尻尾が、ぴこっと立ち上がる。


「味がする」


 初めて夫に料理を提供して得られた感想が「美味しい・不味い」以前の次元だったので、私は俄に彼の食生活が心配になった。味がするて。それは料理の最低条件だ。


「……旦那様って、普段どんな食事をされているのですか?」


 無表情ながら尻尾をふりふり美味しそうに食べ進めている彼に、恐る恐る尋ねてみる。


「固形栄養食と水だが」


 とんでもない回答に仰天した。


「こ、固形栄養食って、王国が軍事用の携行食として開発した完璧なクソ食事として名高い、人間が生きていくための栄養は完備、味は控えめに表現して虚無、これを配られて遠征に行った兵士たちが考えたキャッチコピー『家畜の餌? いいや、機械の燃料さ』が一世を風靡、世間の同情を買いまくって人権問題の議論にまで発展、軍の野営食のクオリティ向上のきっかけとなり、だけど一部の研究職の皆さんには熱烈な支持を受けたため生産は今もなお続いているという、あの固形栄養食ですか……?」


 顔面蒼白の震え声で問うと、旦那様は私の反応にぎょっとした顔になりつつ、「ああ」と肯定した。なんてことだ。


「なぜそんなものを日常に!」


「え、楽だから……職場の奴らも似た食生活だし……」


「ああああ、もおおお、熱烈な支持をしていた一部の研究職ぅううう」


 旦那様の悲惨な食生活を知り動揺が激しい。頭を抱えて唸る私に旦那様も動揺している。


「そ、そんなに駄目か?」


「駄目です。使用人を雇わず生活しているから、てっきり自炊できるタイプだとばかり。これからは旦那様の分の食事は私が作りますからね」


 そう言うと、旦那様はピクッと尻尾を動かした。


「……。……嫁はそうしろと命令されているからか。竜人に尽くせと」


「え? いえ、単に私がそうしたいだけですが。旦那様の食生活にドン引きしたので」


「ドン引き」


「それに自分のご飯は結局作るので、それが二人前になっても労力に大差ないですし。言ってしまえば私の『ついで』ですのでお気になさらず」


「ついで」


「あとカレーみたいな煮込み系って、なぜか大量に作ったほうが美味しくなるんですよね。一人だと二日目チーズカレー、三日目カレーうどんと変化を加えても、そこまでの量を作れなくて。だから一緒に食べてくれる人がいると気兼ねなく大量錬成できて助かるというか」


「助かる……」


 旦那様はポカンとして、それから「ははは」と急に笑い出した。

 私が初めて見た旦那様の笑顔は「はっ」という尊大な嘲笑だったけれど、二度目の笑顔はなんだか無邪気な、子どもみたいな笑みだった。


「そうか。分かった。安心して何人前でも作るがいい。助けてやる」


 ふんぞり返ってそんな偉そうなことを言うものだから、おかしくなって私も笑ってしまった。これが旦那様。筋金入りの、頼り嫌いで、頼られ好き。


「ふふ、それはよかったです」


「おかわり」


「はいどうぞ。カレー、美味しいですか?」


「ああ。味がする」


「旦那様の美味しいの基準が低すぎて悲しいのでこれから色んな料理を食べて味覚を鍛えてくださいね」


 結婚して初めて一緒に囲んだ夕食は案外楽しく、カレーを食べ終えた旦那様(合計三回おかわりした)はドアマットに舞い戻り、私はさらなるキャンプ生活充実のために可愛いガーランド(店員さんに激推しされた)の取り付けを始め、なんやかんやで時が経ち、あっという間に就寝時刻。


「旦那様に重大報告があります」


「なんだ」


「寝袋を買い忘れました」


「バドミントンセットまで買っておいてお前」


 ささやかなうっかりにより今夜の睡眠の質が危ぶまれる事態になったものの、旦那様が「空気の層を固定して(以下長文)」みたいなちょっと何を言っているのか分からない高度な魔術を使ってくれ、テント内は寝袋なしでも安心して眠れる温度になったから問題はなかった。


 こうして、突発的に始まった自宅前テント生活は、思っていた以上の楽しさで日が過ぎていき。





「おはようございます、旦那様」

「ああ」


「おはようございます、旦那様」

「……おはよう」


「おはようございます、旦那様」

「おはよう、ココ」

「えっ私の名前覚えてたんですか」

「俺をなんだと思ってるんだお前は」


「おはようございます、旦那様」

「おはよう、ココ。ところでココは俺の名を覚えているのか」

「……ラ……ラグ……? ラ……あっ嘘ですちゃんと覚えてます寝起きで記憶が曖昧で待って人を呪殺しそうな目で睨まないで」


「ココ。起きろココ。朝だぞココ。おい起きろココ」

「おはざす……旦那様……」

「なぜそんなに眠そうにしている」

「どこかの誰かさんが入眠しようとする私の耳元でひたすら呪詛の如く『ラグスタ』と囁き続けていたからです……」

「俺の名を覚えたのならなぜ呼ばない」

「だって『旦那様』のほうが特別感があっていいじゃないですか。私が名前で呼ぶ人はたくさんいますけれど、旦那様って呼ぶ人は世界で旦那様だけなんですよ」

「……。……。……へへっ」

「旦那様? どうしたんですか? 急にニヤニヤして不気味ですよ。あっまさか昨日あれほど『これは食べちゃ駄目な茸ですよ』と教えたワライタケを拾い食いしたんじゃ」

「はあああ? 誰が拾い食いなどするか! お前は俺を何歳だと思っているんだ!」

「えーと、百歳児?」


「おはようございます、旦那様。今日は早起きですね」

「おはよう、ココ。喜べ。帰宅できるぞ」


 自宅前テント生活七日目の朝、ついに屋敷の防御魔術が解除された。



  ***



 これで全てが元通りの生活に戻ったかと言えばそんなことはなく、一週間前まで「ああ」しか言わなかった旦那様がやたら「ココ」と口にするようになったり、一緒にご飯を食べて毎回「味がする」と感想をもらうようになったり、時々無言で尻尾を巻き付けられる謎の時間が発生したりするようになった。


 当初の家庭内別居状態も気楽だったけれど、今の旦那様との生活のほうがずっと楽しいので、あの日に旦那様のうっかりで自宅に入れなくなって本当に良かったと思う。


 で、平和な数週間が過ぎたところで、再び事件が起きた。


 それは、一人で街へ出かけた日のこと。


 買い物籠を提げて森を抜け、「よーし今日はカレーを作るぞ」と張り切って屋敷に辿り着いたら。


 玄関前に旦那様がいた。

 ドアマットの上で三角座りをしていた。

 鍵を忘れて出掛けてしまい締め出しを食らった人みたいな哀愁漂う状態で膝を抱えていた。


「……だ、旦那様?」


 激しく見覚えのある光景に、すでに諸々の覚悟を定めて声を掛けたら、虚ろな目で芝生を見つめていた彼はハッと視線を上げ、それから凜々しい表情でこう言った。


「家に入れなくなった。ほんの些細な手順の間違いだ。今度は玄関だけ通れるようにしたはずだったんだ。そして俺の防御魔術は最強だ」


「……解除に掛かる時間は」


「二週間」


「よーしテントの設営を始めましょうか」





 おしまい!




以上、ツンデレ竜・ミーツ・テント生活を辞さないタイプの妻でした。


本作が気に入った方は、ただいま連載中の

『捕らえた聖女の目が死んでるので正体隠して面倒見る』もぜひ!

こちらはツンデレ竜・ミーツ・ピュア聖女様の捕虜ラブコメです。




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あとがきで紹介した連載はこちら!
捕らえた聖女の目が死んでたので正体隠して面倒見る

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― 新着の感想 ―
面白の化身じゃないかこの百歳児旦那様
ドアマットもの(物理)やないかーい! なんか人間とちょっと感覚の違う種族と神経ゴンブト女子たいへん美味しゅうございます!ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"(๑´ㅂ`๑)ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"ŧ‹"
ポンコツw
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