鏡石〜近未来大阪の地下で、制服に刀を帯びた高校生の戦記〜
その世界への招待が来たのは、普通の放課後だった。
六月のある夕方、私――朝倉凛は職員室へ呼び出された。
呼んだのは担任ではなく、二ヶ月前から赴任してきた「特別指導教諭」の桐嶋という教師だ。
白峰高校にはそういう教師が定期的に現れる。
表向きの肩書きは進路支援担当だが、彼らが担当する生徒は学年でほんの数人しかいない。
それが何を意味するか、私には心当たりがあった。
桐嶋先生は小さな桐箱をデスクの上に置いた。
紐で結われた、古風な箱だ。
「朝倉さん、今日は君にその箱を授けよう。さあ開けてごらん」
先生の言う通りに、目の前に置かれたその箱を開けると、中には黒い石がひとつだけ入っていた。
その石は、大人の親指の爪ほどの大きさで、何かに例えるならば黒曜石のような光沢がある。
一件、道端で拾っても気にもとめないような石だ。
「それが何か、わかりますか?」
先生の問いに、私は答えた。
「鏡石、ですか」
先生は答えなかったが、返事のように穏やかな顔で少し目を細めた。それが答えだった。
その石のことを知っていた——というより、信じていた。
私の幼馴染、真田が行方不明になる直前、彼は私に言った。
「石に…呼ばれたら、行ってみ」
それだけで、詳しくはあまり話してくれなかった。
でも冗談を言うようなやつではなかったから、ずっと頭の片隅に残っていた。
その石を渡された生徒は選ばれた者で、普通の人間には見えない場所で戦うのだということを、私は彼の言葉からだけ知っていた。
「説明は不要なようですね。では今夜、行けますか?」
「は、はいっ」
迷わず頷いた。
行けますか、ではなく、行くでしょう、という問いだと思った。
選ばれた者が断るはずがない。
そして私には、断る理由がひとつもなかった。
私には…行かなければならない理由があった。
そう、彼を探すこと。
私たちが通う、白峰高校は天王寺の高台にある。
校門を出て坂を下れば、古い寺社と近代建築が混ざり合う上町の街並みが広がる。
この辺り一帯は十年ほど前に設備の地中化が完了していて、空が広く見える。
昔は道に電線や電柱が立っていたらしい。
坂の途中で、無人の浮遊タクシーが一台、滑るように通り過ぎた。
自動運転で、ハンドルの前に誰もいない。乗客だけが窓の外を眺めている。
当たり前の光景なのに、今日はなぜかその車を目で追ってしまった。
この日は鏡石を制服のポケットに入れて歩いた。
重みはほとんどない。でも確かに存在を感じた。
人差し指の腹で触れると、微かに温かかった。
体温なのか、石自体が熱を持っているのか、区別がつかなかった。
道頓堀から少し歩いて一本入った路地に、「旧アメ村下入口」と記されたプレートのある古いビルがあるらしい。
そこに地図には載っていない扉がある、そこが目的地だ、と桐嶋先生は言った。
この異世界のような現実を、私は全く疑問に思うこともなかった。
だって私は、ずっとこの日を待っていたのだから。
なんばに着いたのは夜の九時を少し過ぎたころだった。
戎橋のあたりはいつも通り人でごった返している。
観光客も、地元の人間も、明るい看板の下をそれぞれの速度で流れていく。
歩道の端を電動の小型モビリティが数台、縦列で滑っていった。
自転車でも原付でもない、靴の裏に装着すると滑るように走れる乗り物のような、機械のようなものだ。
道頓堀川の水面が繁華街の光を受けて、赤や金色に揺れていた。
私はその流れに逆らうように、細い路地に入った。
そこに一歩入っただけで、また大きく空気が変わった。
旧アメ村大通りは整然としていた。
舗装はピカピカで新しく、街灯は均一で、ゴミひとつ落ちていない。
監視カメラが十メートルおきに設置されていて、このエリアに死角はほとんどないと言われている。
昔はこのあたりも治安が悪く、子供が夜歩いてはいけないような街だったらしいのだが、今はそんな昔を全く感じさせないような治安のいい街だ。
私はそんな美しい街からは離れ、耳元の透明イヤホンから流れる音声案内に従って、先生の言う場所に向かっていた。
かなり歩いて、大通りからかなり離れた路地までやってきた。
その路地周辺は、大通りとは打って変わって、かなり汚く、治安も良いとは言えないような場所だった。
アスファルトはひびが入っていて、外灯はポールが道のあちこちに立っているが、電気は切れかけていて点滅している。
当たりは薄暗く、再開発から取り残されたような古いビルが肩を寄せ合っていた。
そこからまた少し歩くと、先生が言った通りのプレートがかかった扉があった。
「旧アメ村下入口」
金属製で、文字が半分消えかかっている。
鉄の扉の鍵はかかっていなかった。
開けると、下へ続く階段があった。
蛍光灯が一本、ジジッと鳴りながら点滅している。
生活感のない場所特有の、使われていない空気がした。
そのとき鏡石が、急に熱くなった。
合図だと本能で感じた。私は急いで階段を降りた。
階段は思ったより深かった。
地下一階分を降りたと思ったら、まだ続いている。
数えるのをやめたころで、ようやく下が開けた。
そこは廊下だった。コンクリートの壁に古いパイプが走っている。
でも照明だけが妙に明るい。
LEDでも蛍光灯でもなく、淡い青白い光が床から滲み出るように灯っていた。電気の照明ではなさそうだったけれど、光源が見当たらない。
廊下の先に分厚い鉄扉があり、真ん中に丸い窪みがあった。
鏡石にぴったりの大きさだ。
恐る恐るその窪みに鏡石を嵌めると、音もなく扉が開いた。
(広い……だけど、何かがおかしい……)
扉の先は外だった。正確には、外のように見えた、と言うべきか。
天井はないけれど、頭上には夜空がある。でも……私が知る限り、夜空にはこんなに星はない。
大阪の夜空ではここまで星が見えることはない。
ビル街の邪魔な光がない場所の大きな星空が、地下であるはずの空間に広がっていた。
地面は良く見ると石畳だった。
古い、やや不規則な石畳が広い広場を形成していて、中心に巨大な鳥居が立っていた。
コンクリートでも岩でもない、黒みがかった素材の鳥居。組まれた形だけが古く、質感だけが違う。
これが鏡街。
噂の通りだったと思うと同時に、噂より現実の方がずっと不思議だと思った。
「遅い」
声がした。
鳥居の傍に人が立っていた。さっきまでいたのだろうか。
赤みがかった茶色の髪、引き締まった体格。
制服は赤と黒の配色の男子学生の制服…見覚えがある、緋炎学舎の生徒だ。
腕を組んで、こちらを見ている。表情は不機嫌そうだ。
「遅い、って…あなたは誰?」
「先生からは九時に来いって言われとった。もう九時十四分や、初日から遅刻やていいご身分やな」
「ご、ごめんなさい…初めてだから、道に迷っちゃって…」
「せやけど、九時に来い言われたら九時に来るやろ」
「……」
なんて返したらいいかわからなくて、黙ってしまったら向こうも黙ってしまった。
き、気まずい…。
「とにかく…遅れたのは申し訳ないわ、私は朝倉凛。白峰高校の三年です」
「御堂迅。緋炎二年」
短い。でもそれ以上は何もなかった。
お互い、余計なことを言う必要を感じなかったのだと思う。
しばらくして、もう一人の生徒が来た。
小柄な女の子だった。
白に近い薄茶の髪、鋭い目。
制服はグレーと橙の配色で、暁星工業の一年章をつけている。
「霞沙。暁星工業一年……」
名乗り方は私より短かった。
私たちを順番に見て、すぐ視線を鳥居の方へ戻す。
「私は朝倉凛。白峰高校の三年です、よろしくね」
自己紹介をしたけれど、霞はずっと鳥居から目を離さなかった。
「あ、あの……蒼葉学院の人は来ないの?」と聞くと、霞は少し間を置いた。
「…今夜は三人みたい」
「どうしてわかるの」
「……わかるの」
それ以上は何も答えてくれなかった。
それを横で見ていた御堂が小さく鼻で笑った。
「謎めいた後輩やなぁ」
「……謎めてなんか、ない」
「いちいち噛みついてこな気が済まんのか?」
また噛み合わない会話が始まりそうな予感がしたので、私は割り込んだ。
「ね、ねぇ、鏡戦っていつ始まるの?」
霞は鳥居を見ながら答えた。
「もう始まるよ」
霞がそう呟くと、空気が変わった。
鏡石がポケットの中で急激に熱を持つ。
制服の上からでも感じるくらいに。
一番最初に動いたのは、御堂だった。
鏡石を右の掌に置く。その瞬間、石が光った。
黒い石が白い光を吐き出すように輝いて、その光が彼の体を包んだ。
光が収まったとき、制服のシルエットはそのままに、随所に紋様が浮かんでいた。
龍の形をした光の線が袖から肩へ走っている。
炎の文様が裾を縁取り、黒いパーツが胸と肩に形成されていた。
右手に、刀がある。片手打ちで、鍔には龍の頭が彫られていた。
そして…御堂の目の色が赤に変わっていた。深い赤――熾火のような色だ。
「お前もはよ変身せえ、死んでまうぞ」
「う、うん」
私は急いで鏡石を取り出した。
真似して掌に置く。石が熱い。でも怖くはなかった。
光もなんだか不思議だった。すごく眩しいのに目は痛くない。温かいのに熱くない。
自分の内側から何かが引き出されていくような感覚。
気づいたら、手に刀があった。
白銀の打刀。鍔は白鶴の形をしている。重くはなかった。
制服に紋様が走っているのを感じた。視界が変わった。
鏡街の石畳の細部まで見える。遠くの暗がりに、何かがいる。
「いる」
霞の声がした。彼女も変身していた。
両手に短刀を持ち、目線は鳥居の向こうを見ている。
暗がりが、動いた。
影というのは、本当に影のようだった。
その陰は烏のような形をしていた。人の丈の三倍はある。
でも輪郭が定まっていなくて、見るたびに形が微妙に違う。
羽があると思ったら、次の瞬間にはそれが腕のようなものになっている。
目がなかった。声もなかった。音もなかった。
翼があるのに、羽ばたきの音がしない。それだけで十分に不気味だった。
「これが、シェード……」
御堂は私の横で、軽く片手で刀を構えた。
「さっさとやろか」
誇りとか、使命とか、そういうことを考える余裕はなかった。
ただ足が動いた。刀を持った手が動いた。
白峰の剣道の授業で散々叩き込まれた構え。
でも体が動く速度がいつもと違う。自分が自分ではないみたいに速い。
私は本能のまま、走った。
◇
この夜のことを振り返るとき、私はいつも思う。
あのとき、私には疑問のかけらひとつなかった。
選ばれたから、使命があるから戦った。ただ、それだけだった。
刀を抜くことが、誇りだと思っていた。
戦えることが、特別だと思っていた。
それは間違いではなかったのかもしれない。でも、全部でもなかった。
疑問が生まれるのはもっと後の話で、この夜の私にはまだ何も見えていなかった。
次の鏡夜は、もうすぐ来る。
◇
走り出してから気づいたのは、私の体自体が変わっているということだった。
速い、というより、正確だった。
踏み出す足の角度、重心の移動、刀を握る右手の力加減――すべてが剣道の授業でやっていた動きと同じなのに、精度が違う。
ブレがないし、身体が思った通りに動いて引っかかりがない。
でも頭の理解が追いついていなかった。
目の前の影は、巨大だった。
烏に似ていると思ったのに、近づくほど違う。
形が決まっていない。見るたびに輪郭がぼやけて、別の何かになろうとしている。腕が三本になったり、翼が消えたり。
けれど確かに動いていて、こちらを見ていた。
目がないのに、見られている気がする。
不気味だった。でも、止まれなかった。
刀を構えて、踏み込んだ。
刃が影に触れた瞬間、手に感触があった。
切れた、と思うよりも先に、影が揺らいだ。
水面に石を投げたときのような波紋が、影の体に広がる。形が崩れ、端から霧のように散っていく。
数秒で、消えた。
思っていたより影は呆気なかった。
「……あれだけ?」
声に出すと、後ろから御堂の声がした。
「お前が言うなよ、俺より先に片づけといて」
振り返ると、彼は別の影を相手にしていた。
どうやら、もう一体いたらしい。
片手打ちの刀を軽く振って、影の残滓を払っている。
沙はいつの間にか私の斜め後ろに立っていた。
短刀を両手に持ったまま、何かを考えているような顔をしていた。
「二体だったの?」
「…いいえ、三体。私が一体…仕留めたの」
いつ仕留めたのかも気づかなかった。
沙は短刀を鞘に収めながら、石畳を一点見つめていた。
影が消えた場所を、何かを確認するように。
「どうしたの?まだ何かいる?」
「…何でもない」
一息ついたタイミングで、御堂が私の方を見た。
「お前、なんで来たんや?」
「え…?」
「鏡戦、なんで参加したんかって聞いてんねん」
唐突な質問だった。
なんで参加したのか…。
使命感と、それから、真田のことを思い出した。
でも初対面の人間に話すような内容じゃない気がして、当たり障りなく答えようとした。
「うーん、選ばれたから…かな」
「それだけなんか?」
「……他に理由が必要?」
御堂はしばらく私を見ていた。
「まあええけど」と言って、視線を鳥居の方に戻した。
「…俺は、お前みたいなんかと違う」
「お前なんかとって…」
「誇りとか使命とか、そういうんじゃない。あほらしい」
ぶっきらぼうな言い方だったけど、嘘をついている感じはしなかった。
「じゃあ何のために来たの」
「金や。奨学金の増額条件に入っとった。鏡戦の参加実績があれば、奨学金が上がんねん、それだけや」
誇りのために戦う気など毛頭ないと、顔に書いてあるようだった。
私の周りにいる白峰の生徒とはまるで違う。
選ばれたことを光栄に思い、戦いに意義を見出す、そういう空気がまったくない。
なぜかその正直さが、少しだけ羨ましかった。
次の波が来たのは、そこから間もなくだった。
鳥居の向こうが、急に暗くなった。
暗い場所がさらに暗くなるというのは変な表現だが、それ以外に言いようがない。
光を吸っているような、空間ごと濃くなっていくような暗さが、鳥居の向こうから滲み出してきた。
「…来る」
沙が一歩下がった。彼女が退いたのを初めて見た。
鳥居をくぐるようにして、「それ」は現れた。
「それ」は、さっきのと比べ物にならないくらい大きかった。
先ほどの影が鴉の幼鳥なら、これは成獣とも比べ物にならない別の生き物だ。
形は人型に近いが、服の縫い目のような線が全身に走っていて、そこから暗い光が漏れている。
顔がある位置には何もない。ただ何もない、黒い球体があるだけだった。
地面が、揺れた。
「これが…大影…」と霞が言った。声が、微かに低かった。
御堂が刀を構えた。私もそれに倣った。でも霞は動かなかった。
「三人でやれるの?」と私が聞くと、霞は少し考えてから答えた。
「わからない」
正直な答えだった。でも動揺している様子はなかった。
大影は、速かった。
見た目の重量感に反して、動きに無駄がない。
巨大な腕が横薙ぎに振られた瞬間、私は反射的に後ろへ跳んでいた。
石畳を削る音がして、腕が通過した場所に亀裂が走る。
物理的な力がある。
さっきのシェードとは、別物だ。
「散れ!」
御堂が叫んで、左に走った。私は右へ。大影の注意が二方向に割れる。
その隙に霞が動いた。
小柄な体が影の懐へ飛び込み、短刀の両方を体幹部に叩き込んだ。
影が揺らぐ。さっきと同じ波紋が広がるが、消えない。沙がすぐに離れる。
「固い」と彼女が言った。「何度か重ねないと」
つまり一撃では仕留められない。
「わかった」
御堂が答えながら、右から切り込んだ。
片手打ちの刃が大影の横腹に入る。
また波紋。また、消えない。でも確実に削れてはいる。
私も御堂に続いて踏み込んだ。
三人が交互に、角度を変えながら刃を入れていく。
引いては入り、入っては引く。
その動きを繰り返すうちに息が上がってくる。
でも刀を持つ手は安定していた。
どこかで剣道の授業を思い出していた。
打ち込み稽古。同じことの繰り返しで、かなりきつい練習だし、苦手だった。
意味があるのかと思いながらやっていたあれが、今こうして体に残っている。
不思議だった。
選ばれた意味、というものを、このとき初めて少しだけ実感した。
大影がのけぞった。
三人が同時に打ち込んだタイミングで、影の体に大きな波紋が広がった。体が揺れ、形が乱れ始める。崩れる直前の兆候だと、本能的に感じた。
「今!」
霞が言って、三人が同時に動いた。
それは一瞬だった。
大影の体が、内側から弾けるように散った。
音はなく、煙のように、霧のように、ただ消えた。
石畳の上には何も残らなかった。
しばらく誰も喋らなかった。
息を整えながら、私は自分の右手を見た。手に刀はまだある。
変身は解けていない。手が、少し震えていた。
怖かったからじゃないけれど…わからない。
「……こ、これで終わった?」
「今夜は、これで終わり」と沙が答えた。
御堂は黙ったまま刀を下ろして、空を見上げていた。
鏡街の星空を見ていた。
その表情から、何を考えているかはわからなかった。
しばらくすると、変身は自然に解けていった。
ゆっくりと、制服から紋様が薄れて消えていく。
鎧のパーツが霧散していき、刀が光に変わって小さな鏡石に戻っていく。
体が少し重くなった。疲れが出てきた、ということかもしれない。
私は鏡石を握ったまま、鳥居を見た。
選ばれた、ということを、改めて感じた。
でもその言葉の後に、ずっと止まっていた問いが浮かんだ。
真田は、ここにいたのだろうか。
この石畳を、真田も踏んだのだろうか。
この星空を、見上げたことがあるのだろうか。
誇りとか使命とか、そういう言葉が頭を満たしていたはずなのに、今は別のことしか考えられなかった。
私がここへ来た理由は、選ばれたからだけじゃない。
それは最初から知っていたのに、目をそらしていた。
「お前…なんか顔つき変わったな、初めての鏡戦はどやった?」
御堂の声がした。見ると、彼がこちらを見ていた。
「案外ちゃんと戦えてたやん、なんや誇らしくないんか?」
「誇らしい、けど…」
それだけじゃない、と言いかけて、やめた。
「……私が戦う理由はそれだけじゃない、ってことに気づいたの」
「…そうか」
御堂はそれ以上なにも聞かなかった。
それを見ていた霞も黙って帰る準備をしていた。
鏡街から出ると、そこはいつもの夜の大阪だった。
当たり前のことなのに、少し驚いた。
向こうでは随分長い時間が経った気がしていたのに、地上の時間はほとんど変わっていなかった。
戎橋の上は、来る前と変わらず人が流れていた。
観光客の笑い声が遠くから聞こえた。道頓堀川に、繁華街の光が揺れていた。
何も変わっていない。
変わったのは、私だけだった。
橋の欄干に手をつかない程度に立ち止まって、川を見た。
水面に映る煌びやかな夜の街の光が、揺れるたびに形を変えている。
まるで、鏡街みたいだ、と思った。
御堂とは鏡街の出口で別れた。
霞は最後まで何も言わなかった。
ただ、去り際に一度だけこちらを見た。何かを言おうとして、やめて速足で去っていった。
気になったけど、追いかけなかった。
地下鉄の改札は人がいなく、無人だった。
改札は顔認証で通過する。ただ歩くだけで改札が開く。
電車に乗り込んで、端の席に座った。
帰りの電車の中で、鏡石を取り出した。
変身も終わり、熱も引いた石は、ただの黒い小石に見えた。
でも触れると、微かに、ほんの微かに、温かかった。
真田も、この石を持っていたのだろうか。
この温かさを、感じていたのだろうか。
わからないことが多すぎる。
でも私は鏡街に行って、変身して、戦って、刀を抜いた。
それは事実で、もう変わらない。
選ばれたことが誇りだと思っていた。それは今でも変わっていない。
ただそれだけじゃないということに、今夜気づいた。
もっと、御堂のように、自分に正直になって戦いたい。
真田を探しているという事実から目を逸らさずに。
次の鏡夜がいつなのかは、まだわからない。
また必ず来る。桐嶋先生がそう言っていた。「今夜が最初で最後ではない」と。
その日が来たら、また鏡石を握る。また鏡街の石畳を踏む。また刀を抜く。
そして今度は、少しだけ違う答えを持ったまま戦う。
夜は、まだ明けていなかった。




