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鏡石〜近未来大阪の地下で、制服に刀を帯びた高校生の戦記〜

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/05/15

その世界への招待が来たのは、普通の放課後だった。


六月のある夕方、私――朝倉凛は職員室へ呼び出された。

呼んだのは担任ではなく、二ヶ月前から赴任してきた「特別指導教諭」の桐嶋という教師だ。


白峰高校にはそういう教師が定期的に現れる。

表向きの肩書きは進路支援担当だが、彼らが担当する生徒は学年でほんの数人しかいない。


それが何を意味するか、私には心当たりがあった。


桐嶋先生は小さな桐箱をデスクの上に置いた。

紐で結われた、古風な箱だ。


「朝倉さん、今日は君にその箱を授けよう。さあ開けてごらん」



先生の言う通りに、目の前に置かれたその箱を開けると、中には黒い石がひとつだけ入っていた。


その石は、大人の親指の爪ほどの大きさで、何かに例えるならば黒曜石のような光沢がある。


一件、道端で拾っても気にもとめないような石だ。



「それが何か、わかりますか?」


先生の問いに、私は答えた。


「鏡石、ですか」


先生は答えなかったが、返事のように穏やかな顔で少し目を細めた。それが答えだった。


その石のことを知っていた——というより、信じていた。




私の幼馴染、真田が行方不明になる直前、彼は私に言った。


「石に…呼ばれたら、行ってみ」


それだけで、詳しくはあまり話してくれなかった。

でも冗談を言うようなやつではなかったから、ずっと頭の片隅に残っていた。


その石を渡された生徒は選ばれた者で、普通の人間には見えない場所で戦うのだということを、私は彼の言葉からだけ知っていた。


「説明は不要なようですね。では今夜、行けますか?」


「は、はいっ」


迷わず頷いた。


行けますか、ではなく、行くでしょう、という問いだと思った。


選ばれた者が断るはずがない。

そして私には、断る理由がひとつもなかった。


私には…行かなければならない理由があった。


そう、彼を探すこと。




私たちが通う、白峰高校は天王寺の高台にある。


校門を出て坂を下れば、古い寺社と近代建築が混ざり合う上町の街並みが広がる。



この辺り一帯は十年ほど前に設備の地中化が完了していて、空が広く見える。

昔は道に電線や電柱が立っていたらしい。


坂の途中で、無人の浮遊タクシーが一台、滑るように通り過ぎた。

自動運転で、ハンドルの前に誰もいない。乗客だけが窓の外を眺めている。


当たり前の光景なのに、今日はなぜかその車を目で追ってしまった。



この日は鏡石を制服のポケットに入れて歩いた。


重みはほとんどない。でも確かに存在を感じた。

人差し指の腹で触れると、微かに温かかった。


体温なのか、石自体が熱を持っているのか、区別がつかなかった。



道頓堀から少し歩いて一本入った路地に、「旧アメ村下入口」と記されたプレートのある古いビルがあるらしい。


そこに地図には載っていない扉がある、そこが目的地だ、と桐嶋先生は言った。



この異世界のような現実を、私は全く疑問に思うこともなかった。


だって私は、ずっとこの日を待っていたのだから。




なんばに着いたのは夜の九時を少し過ぎたころだった。

戎橋のあたりはいつも通り人でごった返している。


観光客も、地元の人間も、明るい看板の下をそれぞれの速度で流れていく。


歩道の端を電動の小型モビリティが数台、縦列で滑っていった。

自転車でも原付でもない、靴の裏に装着すると滑るように走れる乗り物のような、機械のようなものだ。


道頓堀川の水面が繁華街の光を受けて、赤や金色に揺れていた。



私はその流れに逆らうように、細い路地に入った。



そこに一歩入っただけで、また大きく空気が変わった。


旧アメ村大通りは整然としていた。


舗装はピカピカで新しく、街灯は均一で、ゴミひとつ落ちていない。


監視カメラが十メートルおきに設置されていて、このエリアに死角はほとんどないと言われている。


昔はこのあたりも治安が悪く、子供が夜歩いてはいけないような街だったらしいのだが、今はそんな昔を全く感じさせないような治安のいい街だ。


私はそんな美しい街からは離れ、耳元の透明イヤホンから流れる音声案内に従って、先生の言う場所に向かっていた。



かなり歩いて、大通りからかなり離れた路地までやってきた。


その路地周辺は、大通りとは打って変わって、かなり汚く、治安も良いとは言えないような場所だった。


アスファルトはひびが入っていて、外灯はポールが道のあちこちに立っているが、電気は切れかけていて点滅している。


当たりは薄暗く、再開発から取り残されたような古いビルが肩を寄せ合っていた。


そこからまた少し歩くと、先生が言った通りのプレートがかかった扉があった。



「旧アメ村下入口」


金属製で、文字が半分消えかかっている。

鉄の扉の鍵はかかっていなかった。


開けると、下へ続く階段があった。


蛍光灯が一本、ジジッと鳴りながら点滅している。


生活感のない場所特有の、使われていない空気がした。



そのとき鏡石が、急に熱くなった。


合図だと本能で感じた。私は急いで階段を降りた。




階段は思ったより深かった。

地下一階分を降りたと思ったら、まだ続いている。

数えるのをやめたころで、ようやく下が開けた。




そこは廊下だった。コンクリートの壁に古いパイプが走っている。


でも照明だけが妙に明るい。

LEDでも蛍光灯でもなく、淡い青白い光が床から滲み出るように灯っていた。電気の照明ではなさそうだったけれど、光源が見当たらない。



廊下の先に分厚い鉄扉があり、真ん中に丸い窪みがあった。

鏡石にぴったりの大きさだ。


恐る恐るその窪みに鏡石を嵌めると、音もなく扉が開いた。




(広い……だけど、何かがおかしい……)


扉の先は外だった。正確には、外のように見えた、と言うべきか。


天井はないけれど、頭上には夜空がある。でも……私が知る限り、夜空にはこんなに星はない。



大阪の夜空ではここまで星が見えることはない。


ビル街の邪魔な光がない場所の大きな星空が、地下であるはずの空間に広がっていた。



地面は良く見ると石畳だった。


古い、やや不規則な石畳が広い広場を形成していて、中心に巨大な鳥居が立っていた。


コンクリートでも岩でもない、黒みがかった素材の鳥居。組まれた形だけが古く、質感だけが違う。


 

これが鏡街。

噂の通りだったと思うと同時に、噂より現実の方がずっと不思議だと思った。


「遅い」


声がした。


鳥居の傍に人が立っていた。さっきまでいたのだろうか。


赤みがかった茶色の髪、引き締まった体格。


制服は赤と黒の配色の男子学生の制服…見覚えがある、緋炎学舎の生徒だ。

腕を組んで、こちらを見ている。表情は不機嫌そうだ。


「遅い、って…あなたは誰?」


「先生からは九時に来いって言われとった。もう九時十四分や、初日から遅刻やていいご身分やな」


「ご、ごめんなさい…初めてだから、道に迷っちゃって…」


「せやけど、九時に来い言われたら九時に来るやろ」



「……」


なんて返したらいいかわからなくて、黙ってしまったら向こうも黙ってしまった。


き、気まずい…。



「とにかく…遅れたのは申し訳ないわ、私は朝倉凛。白峰高校の三年です」


「御堂迅。緋炎二年」


短い。でもそれ以上は何もなかった。

お互い、余計なことを言う必要を感じなかったのだと思う。




しばらくして、もう一人の生徒が来た。



小柄な女の子だった。

白に近い薄茶の髪、鋭い目。

制服はグレーと橙の配色で、暁星工業の一年章をつけている。


霞沙かすみ すな。暁星工業一年……」


名乗り方は私より短かった。

私たちを順番に見て、すぐ視線を鳥居の方へ戻す。


「私は朝倉凛。白峰高校の三年です、よろしくね」


自己紹介をしたけれど、霞はずっと鳥居から目を離さなかった。



「あ、あの……蒼葉学院の人は来ないの?」と聞くと、霞は少し間を置いた。


「…今夜は三人みたい」


「どうしてわかるの」


「……わかるの」


それ以上は何も答えてくれなかった。

それを横で見ていた御堂が小さく鼻で笑った。


「謎めいた後輩やなぁ」


「……謎めてなんか、ない」


「いちいち噛みついてこな気が済まんのか?」


また噛み合わない会話が始まりそうな予感がしたので、私は割り込んだ。



「ね、ねぇ、鏡戦っていつ始まるの?」



霞は鳥居を見ながら答えた。


「もう始まるよ」


霞がそう呟くと、空気が変わった。



鏡石がポケットの中で急激に熱を持つ。

制服の上からでも感じるくらいに。




一番最初に動いたのは、御堂だった。


鏡石を右の掌に置く。その瞬間、石が光った。

黒い石が白い光を吐き出すように輝いて、その光が彼の体を包んだ。


光が収まったとき、制服のシルエットはそのままに、随所に紋様が浮かんでいた。


龍の形をした光の線が袖から肩へ走っている。

炎の文様が裾を縁取り、黒いパーツが胸と肩に形成されていた。


右手に、刀がある。片手打ちで、鍔には龍の頭が彫られていた。


そして…御堂の目の色が赤に変わっていた。深い赤――熾火のような色だ。




「お前もはよ変身せえ、死んでまうぞ」



「う、うん」


私は急いで鏡石を取り出した。

真似して掌に置く。石が熱い。でも怖くはなかった。


光もなんだか不思議だった。すごく眩しいのに目は痛くない。温かいのに熱くない。


自分の内側から何かが引き出されていくような感覚。



気づいたら、手に刀があった。

白銀の打刀。鍔は白鶴の形をしている。重くはなかった。


制服に紋様が走っているのを感じた。視界が変わった。

鏡街の石畳の細部まで見える。遠くの暗がりに、何かがいる。


「いる」


霞の声がした。彼女も変身していた。

両手に短刀を持ち、目線は鳥居の向こうを見ている。



暗がりが、動いた。



影というのは、本当に影のようだった。


その陰は烏のような形をしていた。人の丈の三倍はある。


でも輪郭が定まっていなくて、見るたびに形が微妙に違う。

羽があると思ったら、次の瞬間にはそれが腕のようなものになっている。


目がなかった。声もなかった。音もなかった。

翼があるのに、羽ばたきの音がしない。それだけで十分に不気味だった。



「これが、シェード……」



御堂は私の横で、軽く片手で刀を構えた。


「さっさとやろか」


誇りとか、使命とか、そういうことを考える余裕はなかった。

ただ足が動いた。刀を持った手が動いた。



白峰の剣道の授業で散々叩き込まれた構え。


でも体が動く速度がいつもと違う。自分が自分ではないみたいに速い。


私は本能のまま、走った。




       ◇




この夜のことを振り返るとき、私はいつも思う。


あのとき、私には疑問のかけらひとつなかった。

選ばれたから、使命があるから戦った。ただ、それだけだった。


刀を抜くことが、誇りだと思っていた。

戦えることが、特別だと思っていた。


それは間違いではなかったのかもしれない。でも、全部でもなかった。


疑問が生まれるのはもっと後の話で、この夜の私にはまだ何も見えていなかった。


次の鏡夜は、もうすぐ来る。




       ◇





走り出してから気づいたのは、私の体自体が変わっているということだった。


速い、というより、正確だった。


踏み出す足の角度、重心の移動、刀を握る右手の力加減――すべてが剣道の授業でやっていた動きと同じなのに、精度が違う。


ブレがないし、身体が思った通りに動いて引っかかりがない。


でも頭の理解が追いついていなかった。




目の前の影は、巨大だった。

烏に似ていると思ったのに、近づくほど違う。


形が決まっていない。見るたびに輪郭がぼやけて、別の何かになろうとしている。腕が三本になったり、翼が消えたり。


けれど確かに動いていて、こちらを見ていた。

目がないのに、見られている気がする。


不気味だった。でも、止まれなかった。


刀を構えて、踏み込んだ。


刃が影に触れた瞬間、手に感触があった。

切れた、と思うよりも先に、影が揺らいだ。


水面に石を投げたときのような波紋が、影の体に広がる。形が崩れ、端から霧のように散っていく。




数秒で、消えた。

思っていたより影は呆気なかった。


「……あれだけ?」


 声に出すと、後ろから御堂の声がした。


「お前が言うなよ、俺より先に片づけといて」


振り返ると、彼は別の影を相手にしていた。


どうやら、もう一体いたらしい。


片手打ちの刀を軽く振って、影の残滓を払っている。

沙はいつの間にか私の斜め後ろに立っていた。


短刀を両手に持ったまま、何かを考えているような顔をしていた。


「二体だったの?」


「…いいえ、三体。私が一体…仕留めたの」


いつ仕留めたのかも気づかなかった。


沙は短刀を鞘に収めながら、石畳を一点見つめていた。

影が消えた場所を、何かを確認するように。


「どうしたの?まだ何かいる?」


「…何でもない」


 一息ついたタイミングで、御堂が私の方を見た。


「お前、なんで来たんや?」


「え…?」


「鏡戦、なんで参加したんかって聞いてんねん」


唐突な質問だった。


なんで参加したのか…。


使命感と、それから、真田のことを思い出した。

でも初対面の人間に話すような内容じゃない気がして、当たり障りなく答えようとした。


「うーん、選ばれたから…かな」


「それだけなんか?」


「……他に理由が必要?」


御堂はしばらく私を見ていた。


「まあええけど」と言って、視線を鳥居の方に戻した。


「…俺は、お前みたいなんかと違う」


「お前なんかとって…」


「誇りとか使命とか、そういうんじゃない。あほらしい」


ぶっきらぼうな言い方だったけど、嘘をついている感じはしなかった。


「じゃあ何のために来たの」


「金や。奨学金の増額条件に入っとった。鏡戦の参加実績があれば、奨学金が上がんねん、それだけや」


誇りのために戦う気など毛頭ないと、顔に書いてあるようだった。


私の周りにいる白峰の生徒とはまるで違う。

選ばれたことを光栄に思い、戦いに意義を見出す、そういう空気がまったくない。


なぜかその正直さが、少しだけ羨ましかった。




次の波が来たのは、そこから間もなくだった。



鳥居の向こうが、急に暗くなった。


暗い場所がさらに暗くなるというのは変な表現だが、それ以外に言いようがない。


光を吸っているような、空間ごと濃くなっていくような暗さが、鳥居の向こうから滲み出してきた。


「…来る」


沙が一歩下がった。彼女が退いたのを初めて見た。


鳥居をくぐるようにして、「それ」は現れた。


「それ」は、さっきのと比べ物にならないくらい大きかった。


先ほどの影が鴉の幼鳥なら、これは成獣とも比べ物にならない別の生き物だ。


形は人型に近いが、服の縫い目のような線が全身に走っていて、そこから暗い光が漏れている。


顔がある位置には何もない。ただ何もない、黒い球体があるだけだった。




地面が、揺れた。


「これが…大影…」と霞が言った。声が、微かに低かった。


御堂が刀を構えた。私もそれに倣った。でも霞は動かなかった。


「三人でやれるの?」と私が聞くと、霞は少し考えてから答えた。


「わからない」


正直な答えだった。でも動揺している様子はなかった。





大影は、速かった。


見た目の重量感に反して、動きに無駄がない。

巨大な腕が横薙ぎに振られた瞬間、私は反射的に後ろへ跳んでいた。

石畳を削る音がして、腕が通過した場所に亀裂が走る。


物理的な力がある。

さっきのシェードとは、別物だ。


「散れ!」


御堂が叫んで、左に走った。私は右へ。大影の注意が二方向に割れる。


その隙に霞が動いた。


小柄な体が影の懐へ飛び込み、短刀の両方を体幹部に叩き込んだ。

影が揺らぐ。さっきと同じ波紋が広がるが、消えない。沙がすぐに離れる。


「固い」と彼女が言った。「何度か重ねないと」


 つまり一撃では仕留められない。


「わかった」


御堂が答えながら、右から切り込んだ。

片手打ちの刃が大影の横腹に入る。


また波紋。また、消えない。でも確実に削れてはいる。


私も御堂に続いて踏み込んだ。


三人が交互に、角度を変えながら刃を入れていく。


引いては入り、入っては引く。

その動きを繰り返すうちに息が上がってくる。

でも刀を持つ手は安定していた。


どこかで剣道の授業を思い出していた。


打ち込み稽古。同じことの繰り返しで、かなりきつい練習だし、苦手だった。

意味があるのかと思いながらやっていたあれが、今こうして体に残っている。


不思議だった。

選ばれた意味、というものを、このとき初めて少しだけ実感した。



大影がのけぞった。


三人が同時に打ち込んだタイミングで、影の体に大きな波紋が広がった。体が揺れ、形が乱れ始める。崩れる直前の兆候だと、本能的に感じた。


「今!」


霞が言って、三人が同時に動いた。


それは一瞬だった。


大影の体が、内側から弾けるように散った。


音はなく、煙のように、霧のように、ただ消えた。

石畳の上には何も残らなかった。


しばらく誰も喋らなかった。


息を整えながら、私は自分の右手を見た。手に刀はまだある。


変身は解けていない。手が、少し震えていた。

怖かったからじゃないけれど…わからない。


「……こ、これで終わった?」


「今夜は、これで終わり」と沙が答えた。


御堂は黙ったまま刀を下ろして、空を見上げていた。


鏡街の星空を見ていた。

その表情から、何を考えているかはわからなかった。




しばらくすると、変身は自然に解けていった。


ゆっくりと、制服から紋様が薄れて消えていく。

鎧のパーツが霧散していき、刀が光に変わって小さな鏡石に戻っていく。



体が少し重くなった。疲れが出てきた、ということかもしれない。


私は鏡石を握ったまま、鳥居を見た。


選ばれた、ということを、改めて感じた。




でもその言葉の後に、ずっと止まっていた問いが浮かんだ。


真田は、ここにいたのだろうか。


この石畳を、真田も踏んだのだろうか。

この星空を、見上げたことがあるのだろうか。


誇りとか使命とか、そういう言葉が頭を満たしていたはずなのに、今は別のことしか考えられなかった。


私がここへ来た理由は、選ばれたからだけじゃない。

それは最初から知っていたのに、目をそらしていた。



「お前…なんか顔つき変わったな、初めての鏡戦はどやった?」


御堂の声がした。見ると、彼がこちらを見ていた。


「案外ちゃんと戦えてたやん、なんや誇らしくないんか?」


「誇らしい、けど…」


それだけじゃない、と言いかけて、やめた。


「……私が戦う理由はそれだけじゃない、ってことに気づいたの」


「…そうか」


御堂はそれ以上なにも聞かなかった。


それを見ていた霞も黙って帰る準備をしていた。


 




鏡街から出ると、そこはいつもの夜の大阪だった。


当たり前のことなのに、少し驚いた。


向こうでは随分長い時間が経った気がしていたのに、地上の時間はほとんど変わっていなかった。


戎橋の上は、来る前と変わらず人が流れていた。

観光客の笑い声が遠くから聞こえた。道頓堀川に、繁華街の光が揺れていた。


何も変わっていない。


変わったのは、私だけだった。


橋の欄干に手をつかない程度に立ち止まって、川を見た。

水面に映る煌びやかな夜の街の光が、揺れるたびに形を変えている。


まるで、鏡街みたいだ、と思った。


御堂とは鏡街の出口で別れた。


霞は最後まで何も言わなかった。

ただ、去り際に一度だけこちらを見た。何かを言おうとして、やめて速足で去っていった。



気になったけど、追いかけなかった。



地下鉄の改札は人がいなく、無人だった。

改札は顔認証で通過する。ただ歩くだけで改札が開く。



電車に乗り込んで、端の席に座った。


帰りの電車の中で、鏡石を取り出した。


変身も終わり、熱も引いた石は、ただの黒い小石に見えた。

でも触れると、微かに、ほんの微かに、温かかった。




真田も、この石を持っていたのだろうか。

この温かさを、感じていたのだろうか。




わからないことが多すぎる。


でも私は鏡街に行って、変身して、戦って、刀を抜いた。


それは事実で、もう変わらない。


選ばれたことが誇りだと思っていた。それは今でも変わっていない。


ただそれだけじゃないということに、今夜気づいた。




もっと、御堂のように、自分に正直になって戦いたい。

真田を探しているという事実から目を逸らさずに。



次の鏡夜がいつなのかは、まだわからない。


また必ず来る。桐嶋先生がそう言っていた。「今夜が最初で最後ではない」と。


その日が来たら、また鏡石を握る。また鏡街の石畳を踏む。また刀を抜く。


そして今度は、少しだけ違う答えを持ったまま戦う。


夜は、まだ明けていなかった。


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