ゲーム発売
《ループ〈The Loop of Mercy〉》。
発売前にもかかわらず、黒馬のように注目を集め、
「最高峰の人気を誇るゲームの一つになる」と噂されているタイトルだ。
当初、《ループ》はそれほど大きな話題を呼んだわけではなかった。
だが、クローズドテストに参加したプレイヤーたちの証言が広まるにつれ、このゲームは「異常なまでに現実的だ」という評価を得ていく。
それは、これまでのどんなゲームとも違っていた。
砂漠の苛烈な寒暖差を体験することもできる。
中世を思わせる、無慈悲な戦争の只中に身を置くこともできる。
それだけではない。ゲーム内のNPCは、一人ひとりが鮮明な個性を持ち、老若男女、身分の高低を問わず、誰からでも依頼を受ける可能性があるという。
「この世界は、誰のことも覚えてはいない。
だが――あなたが怪物にならないと選んだ、その瞬間だけは覚えている」
空に浮かぶ巨大なスクリーンウォールに映し出されたその言葉は、
チュートリアルでも、警告でもなかった。
ただ静かに、そこに在り続けていた。
それが《ループ》の広告コピーだった。
たった二行の、簡素な文章。
それなのに、不思議な引力を持っているかのように、人々の空気を熱狂へと染め上げていく。
例外なく、集まった人々の手には、何らかの《ループ》関連グッズが握られていた。
そして、この狂騒の根本的な理由――
今日は、《ループ》の正式サービス開始日だった。
都市のスクリーンウォールは、早朝から同じ映像で埋め尽くされている。
カウントダウンもなければ、祝辞もない。
あるのは、ゆっくりと回転する空と、その上に浮かぶ文字だけだ。
情報過多に慣れきった人々にとって、その宣伝は異様なほど抑制的で、冷淡にすら映った。
だが、その冷淡さこそが、目を逸らさせなかった。
街角、商業施設の入口、交通拠点の待合スペース。
人々はそれぞれ別の方向を向きながらも、同じ映像に視線を留めている。
クローズドテスト時の噂話を小声で交わす者。
腕部デバイスのプリロード状況を何度も確認する者。
あるいは、予想していたはずなのに、まだ具体的に想像できない「何か」を待つように、ただ立ち尽くす者もいた。
この時代において、ゲームはもはや娯楽だけではない。
感情のリハビリテーション。
ストレスの解放。
あるいは、社会を模した疑似体験の場。
人々が仮想世界へ向かう理由は、英雄になるためではなく、
しばしの間、何者でもなくなるためだった。
《ループ》は、その点を宣伝で強調してはいない。
自由を約束することも、理想郷を描くこともない。
公開されている情報の中で、最も頻繁に語られていた評価は、
ただ一つ――「高度なリアリティ」だった。
――空腹は判断力を奪うほどに現実的で、
――痛みは慣れによって薄れることはなく、
――そして、下した選択の一つひとつが、望まぬ形で、いつか必ず自分の前に戻ってくる。
それに胸を躍らせる者もいれば、
不安を覚える者もいる。
あるいは、新たな世界への漠然とした憧れかもしれない。
正式サービス開始の時刻が刻一刻と近づくにつれ、
人々のざわめきは、むしろ静まっていった。
彼は、人混みの外れに立っていた。
議論に加わることもなく、最新情報を追うこともない。
周囲の音は、彼にとってただの背景雑音だった。
期待も、熱狂も、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
彼はただ、空に浮かぶその言葉を小さくなぞるように呟き、
しばらくの間、動けずにいた。
やがて、《ループ》は全面開放された。
彼は左手の腕時計型デバイスを操作し、
表示されていたステータスが「プリロード」から「ダウンロード中」へと切り替わる。
その後、先ほど購入した日用品と食料を手に、ゆっくりと歩き出した。
頬を撫でる微風の中で、彼自身も何を考えているのか分からなかった。
アパートの一室。
部屋の中。
ベッドの上。
彼はデバイスを起動した。
ログインプロセスは、驚くほど静かに始まる。
効果音も、歓迎の言葉もない。
まるで、あの世界が、誰かを迎え入ぐことを急いでいないかのようだった。
そのとき彼は、まだ知らなかった。
誰のことも覚えていない世界に、
自分が「残される」ことになるということを。
そして、空を見上げ、あの標語を最後まで読み上げた選択こそが、
《ループ》が彼を記憶した、最初の理由になるということを。




