もう証拠はいらない
「浮気調査です」
そう言った彼女は、椅子に座るなり背筋を伸ばした。
年齢は三十代前半。きれいだが、色気より疲れが先に来るタイプ。
「証拠写真をお願いします。言い逃れできないやつ」
「はは、また修羅場の匂いだ」
俺がそう言うと、彼女は眉ひとつ動かさない。
「仕事ですから」
……ああ、これは重いやつだ。
三日で終わった。
旦那は実に分かりやすい男だった。
決まった曜日、決まった女、決まったホテル。
ロマンも罪悪感もない。
シャッターを切りながら、俺はため息をつく。
「もう少し頭使えよ、既婚者」
約束の日。
事務所に来た彼女は、前より少しやつれて見えた。
「はい、証拠」
俺は封筒を差し出す。
自信作だ。慰謝料コース一直線。
……なのに。
彼女は受け取らなかった。
「……いらないです」
「は?」
俺は思わず聞き返した。
「今さら何言ってんだ。これで人生変わるんだぞ?」
「分かってます」
彼女は、困ったように笑った。
「私、本当は……」
少し間があって、彼女は言った。
「浮気を“知りたい”わけじゃなかったんです」
「ほう?」
「決めない理由が、欲しかっただけ」
俺は黙った。
「疑ってる間は、まだ何も決めなくていいでしょう?」
「証拠を見たら、別れるか、許すか……どっちか選ばなきゃいけない」
彼女は肩をすくめる。
「どっちも、怖くて」
「つまり」
俺は軽く口笛を吹いた。
「現実を直視する猶予期間が欲しかった、と」
「……はい」
正直だ。
そして、かなり人間らしい。
俺は封筒を引っ込めた。
「なら、こいつは没収だ」
「え?」
「証拠は突きつけるもんじゃない。
使う覚悟ができたときに出すもんだ」
彼女は驚いた顔をして、
それから、ふっと力を抜いた。
「……ありがとうございます」
立ち上がる彼女に、俺は言った。
「決めるのはあんたのタイミングでいい」
「誰かに背中押されてする決断は、たいてい後悔する」
彼女は少しだけ笑った。
「そうですね。……もう少し、考えます」
ドアが閉まる。
俺は机の引き出しに封筒を放り込み、椅子に深く座った。
夜の街は相変わらずだ。
裏切りも、欲望も、言い訳も、山ほど転がってる。
それでも。
証拠より大事なものを、
人はちゃんと持ってる。
……ま、そういう依頼だけは、
嫌いじゃない。




