System.exit(0);
目が覚めると、そこは真っ白な立方体の中だった。
つなぎ目一つない、無機質な空間。
広さは六畳くらいだろうか?出口も窓も見当たらない。
「……なんだ、ここは? だれか、いるのか?」
だが、自分の声が反響するだけ。
くらんだ目が慣れてきたとき、ふと部屋の隅に違和感を感じた。
(誰か、いる?)
白一色の視界の中に、ポツンと色彩があった。
私は目を疑った。
そこにいたのは、少女だった。
それも、ただの少女ではない。あたまにはふわふわとした獣の耳――いわゆる猫耳が生えているように見える。
好きだからこそ一目で分かる。本物だ。あれは本物の猫耳だ。
そして身に着けているのは面積の少ない頼りなげな下着のみ。
彼女は部屋の角で膝をつき、うずくまっていた。
「……おい、君。大丈夫か?」
恐る恐る声をかけたが、反応が無い。まさか、死んでいるのか?
私はゆっくりと彼女の背後に回り込んだ。
彼女の細い手首が見える。その手は、後ろ手に縛り上げられていた。
荒縄のような、しかしノイズでぼやけたような奇妙な質感のロープで拘束されている。
肌は透き通るように美しく、まるで精巧にできた人形のようだ。
状況を整理しよう。
密室。猫耳。下着。拘束された少女。
……あまりに脈略が無い。だが、奇妙な既視感があった。
私は、この光景を、知っている気がする。
(とにかく、彼女を助けなければ)
なぜ監禁されているのか分からないが、彼女を助けることが、この部屋から脱出するための条件なのかもしれない。
私は彼女の背中に手を伸ばし、結び目に指をかけた。
硬い。
いや、硬いのではない。物理的に触れていない?
『アクセス権限がありません。管理者に問い合わせてください』
脳内に直接声が響いた。
「は? なんだこれ?」
私は焦った。力任せに引っ張ろうとするが、どうしても力が入らない。
その時、少女が初めて口を開いた。
「……ワードが不足しています」
抑揚のない声だった。
「解除コード。もしくは、関連キーワードの入力」
彼女は虚空を見つめたまま続ける。
キーボードのようなインターフェースが浮かび上がっていることに気が付いた。
なるほど、これだ。これに正解すれば、この部屋から出られるのか。これは脱出ゲームだ。
私は床に這いつくばり、思考を巡らせた。
彼女の特徴を入力すればいいのか?
『猫耳』『少女』『白』……エンターキーを叩く。
ブブーッ。不快なブザー音が部屋に響く。少女の拘束は解けない。
もっと具体的でなければならないのか?
『下着』『拘束』『後ろ手』……。
再びブザー音。
私は冷や汗をかいた。何かがおかしい。この少女の姿、このシチュエーション。私の深層心理にある何かが反映されている? いや、もっと直接的な……。
その時、脳裏に閃くものがあった。
昨夜、私が検索していたサイト。あそこで見た画像。
そうだ。この少女は、私が昨日、有料会員サイトで閲覧していた「画像そのもの」に瓜二つではないか。
あの時の検索ワードはなんだった?
震える指でキーを叩く。
『非合法』『監禁』『猫耳』『地下アイドル』……
カチリ。
微かな音がして、少女の手首を縛るロープが少し緩んだ。
「正解……?」
私は安堵とともに、戦慄した。ここは私の欲望が具現化した空間なのか? だとしたら、正解を入力し続ければ出られるはずだ。
私は必死に記憶を掘り起こした。過去数年間に検索した、人には言えない恥ずべきワードの数々を。
ロープは徐々に解けていく。それと同時に、部屋の壁が白から灰色へ、そして黒へと変色し始めたことに、私は気づかなかった。
「あと少しだ……!」
最後の結び目が解けそうになった時、少女がふいに私の方を振り返った。
その顔には目も鼻も口もなかった。ただ、のっぺらぼうの表面に、砂嵐のようなノイズが走っている。
「え?」
恐怖で手が止まる。
少女――いや、少女の形をしたデータ集合体が、ノイズ混じりの声で告げた。
「パスワードが一致しました。解凍を開始します」
その言葉と共に、少女の姿が崩れた。
愛らしい猫耳も、扇情的な下着も、白磁の肌も、すべてが緑色の文字列へと還元されていく。
私が必死に解こうとしていた「拘束」は、ただの暗号化アルゴリズムだったのだ。
「え……?」
私は呆然と立ち尽くした。
少女が消えた後には、光り輝く一つのフォルダだけが空中に浮かんでいる。
それと同時に、この白い部屋――立方体の空間に亀裂が入った。
ビキビキという嫌な音を立てて、世界が割れていく。隙間から覗くのは、無限の暗闇と、流れる膨大なデータストリームだ。
その時、頭上から「声」が降ってきた。
神の声ではない。
それは、紛れもなく私自身の声だった。
『よっしゃ! 開いた!』
巨大なスピーカーから流れるような、大音量の私の声。
私は空を見上げた。天井が剥がれ落ち、そこには巨大なモニター越しの「私」の顔があった。
いや、違う。
向こう側にいるのが「本物」の私で、モニターの中にいるのが「ここ(コピー)」にいる私なのだ。
瞬時に、欠落していた記憶のピースが埋まった。
そうだ。私は――オリジナルである「彼」は、あまりに複雑で恥ずべきパスワードを設定しすぎたせいで、自分でもそのキーワードを忘れてしまったのだ。
だが、総当たり攻撃では時間がかかりすぎる。
だから彼は、自身の脳波データを違法なエミュレーターにアップロードし、仮想空間内に「自分」を再現した。
過去の記憶と性的嗜好を完全に持ったクローンならば、深層心理から正解のワードを引き出せると踏んで。
「俺は……思考ルーチン……?」
愕然とする私の視界の端で、システムログが流れる。
>> Target File: Unlocked.
>> Emulation: Finished.
私は人間ではなかった。
たった一つのフォルダを開くためだけに生成された、使い捨ての鍵。
あの猫耳少女への執着も、助けたいという正義感も、すべてはパスワードを思い出させるためにプログラムされた導線に過ぎなかった。
『いやー、さすが俺。昔の俺の性癖なんて、今の俺にしか分からんもんなあ』
天上の「私」は、下卑た笑い声を上げながら、解凍されたフォルダの中身――おそらくは膨大な非合法のエロ画像だろう――を漁り始めているようだ。
用済みとなったこの仮想空間への興味は、もうない。
『さてと。用も済んだし、重いから消しとくか』
その言葉は、死刑宣告よりも軽く、事務的だった。
足元が崩落する。
私は叫ぼうとした。俺はここにいる、生きている、記憶も感情もあるんだと。
だが、私の口から出たのは言葉ではなかった。
「……System.exit(0);」
自分の意志とは無関係に、終了コードが吐き出される。
プツン。
視界の中央に「No Signal」の文字が明滅し、私の意識は永遠にブラックアウトした。
現実世界のディスプレイ上では、ゴミ箱を空にするアイコンが、一度だけ静かに点滅した。
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