心を閉ざした冷徹公爵閣下は、行き遅れ令嬢を手放さない
カラン、と乾いた音がして、メリア・フィラーズ子爵令嬢は持っていた羽根ペンを取り落とした。インクがまだ新しい羊皮紙に、無慈悲な黒い染みを作る。
「……また、やってしまいましたわ」
小さなため息と共に、彼女は染みを指でそっとなぞる。彼女の部屋は、王都の片隅にある古びた子爵家の屋敷の一室。北向きの窓からは満足な光も入らず、日中でも薄暗い。この屋敷の財政状況を如実に表すような部屋だった。
メリアは、フィラーズ子爵家の三女である。上に二人の姉がいたが、どちらも貧しい家計を助けるため、とうの昔にそこそこの貴族や裕福な商人のもとへ嫁いでいった。彼女たちほどの美貌に恵まれなかったメリアは、この家に残り、細々と家計簿の管理や内職を手伝う日々を送っている。
(わたくしは、お姉様たちのように美しくもない。社交界に出るためのドレスもない。このまま、ここで静かに年老いていくだけ)
(でも、それでいいのです。綺羅びやかな世界に気後れすることも、「行き遅れ」と揶揄されることもない)
それが彼女の諦観であり、平穏でもあった。
彼女には、ささやかな秘密がある。物心ついた時から、他人の強い感情が流れ込んでくるのだ。怒り、悲しみ、喜び。それらが色や音、あるいは直接的な感覚として彼女を襲う。
【共感】。
そう呼ばれる稀なスキルであると知ったのは、王宮の書庫で偶然見つけた古い書物のおかげだった。彼女のスキルは微弱だ。相手が激しく感情を昂らせた時にしか発動しないし、具体的な思考までは読み取れない。だが、それだけでも彼女には十分な苦痛だった。
(だから、わたくしは人が多いところが苦手……)
特に貴族たちの集う夜会などは地獄だ。嫉妬、焦燥、欲望。そうした剥き出しの感情が渦巻く場所に、彼女は耐えられない。貧しさゆえに社交界デビューが遅れていることは、むしろ彼女にとって幸運ですらあった。
そんなある日。フィラーズ子爵家に、王宮からの使者が訪れた。古びた玄関先で、立派な印章の押された封蝋書簡を広げた父の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「メリアに……? 王宮魔導師団、筆頭魔導師様から、だと?」
父の震える声に、メリアは心臓が跳ねるのを感じた。魔導師団。それは、この国の防衛と発展を担うエリート中のエリート集団。その筆頭魔導師といえば、この国で知らぬ者のない人物。
ゼイン・アルフォード公爵。
若くして公爵位を継ぎ、その冷徹さと完璧な仕事ぶりから「氷の公爵」と畏怖される、現国王の右腕ともいえる人物だ。
「なぜ、あのような雲上の方が、わたくしを……?」
書簡の内容は、にわかには信じがたいものだった。
『メリア・フィラーズ嬢に、特殊な魔力適性ありと判明。よって、明日より王宮魔導師団、公爵閣下直属の「魔導補助官」として出仕することを命ず』
「魔力適性……? わたくしに、そのようなものが?」
メリアの【共感】は、魔力とは異質の精神系スキルだ。魔力など、感じたこともない。
「しかし、メリア。お前は昔から、異様に計算が速かっただろう」
父の言葉に、メリアははっとする。確かに、彼女は数字に強かった。どれほど複雑な計算でも、頭の中に瞬時に答えが出せた。家計簿の管理も、彼女が引き継いでから赤字が劇的に改善したのだ。
「どうやら……お前のその計算能力が、【魔力演算】処理の適性として認められたらしい。王宮の魔力観測所が、稀に発するお前の魔力波動を感知したとか……」
【魔力演算】。
それは、魔導師が放つ魔法の術式を構築する際、その膨大な計算処理を代行する、極めて稀な補助スキル。魔導師本人の負担を激減させ、より高度で複雑な魔法の行使を可能にする、戦略レベルの才能だった。
(わたくしが、そんな……)
だが、王宮からの命令は絶対だ。メリアは、着古した一番ましなワンピースに袖を通し、翌日、震える足で王宮の門をくぐった。
*
王宮の魔導師団棟は、それ自体が巨大な魔力で守られた要塞のようだった。案内されたのは、その最上階、分厚い黒曜石の扉で守られた一室。
「公爵閣下の執務室だ。これより中へ」
案内役の騎士は、それだけ言うと足早に立ち去った。まるで、恐ろしい獣の檻に生贄を差し出すかのように。
メリアは深呼吸を一つ。意を決して、重い扉をノックした。
「……入れ」
低く、温度を感じさせない声が響く。メリアがおそるおそる扉を開けると、そこは広大な空間だった。天井まで届く書架、整然と並べられた実験器具、そして、部屋の中央にある巨大な執務机。
その机の向こうに、男が座っていた。
(……きれいな、人)
それが、メリアの最初の感想だった。窓から差し込む光を反射する、プラチナブロンドの髪。磨かれた大理石のような白い肌。そして、あらゆる感情を拒絶するかのような、氷青色の瞳。
ゼイン・アルフォード公爵。
彼はメリアを一瞥しただけで、すぐに視線を卓上の書類に戻した。まるで道端の石ころでも見るかのように、何の興味も示さない。その視線に含まれた絶対零度の無関心に、メリアの背筋が凍った。
「メリア・フィラーズ子爵令嬢ですわ。本日より、魔導補助官としてお仕えするよう、命じられました」
声が震える。情けないほどに。
「……そうか」
ゼインの返事はそれだけだった。「よろしく」も「期待している」もない。彼は羽根ペンを走らせながら、淡々と続けた。
「私の仕事は、見ての通り膨大だ。お前に任せるのは、これら機密文書の分類と、私が指示する魔導書の基礎演算処理だ」
彼は、机の隅に山と積まれた羊皮紙の束を指し示す。
「私の許可なく、この部屋から一歩も出てはならない。私語は厳禁。食事はここでとれ。トイレは隣の小部屋を使え。お前の能力が私の基準に達しないと判断した場合、即刻、実家ごと王都から追放する」
「……っ!」
追放。その言葉の重みに、リリアリナは息を呑んだ。
(この方は、本気だ……)
彼女の【共感】が、何の感情も拾わない。それは、彼がメリアに対して何の感情も抱いていないか、あるいは、完璧に感情を制御しているかのどちらかだった。
「返事は」
「は、はい! 承知いたしました!」
「……声が大きい。静かにやれ」
冷たく言い放ち、ゼインは再び沈黙した。
メリアの地獄のような日々が始まった。彼女に与えられたのは、執務室の隅にある小さな机。そこから一歩も動くことは許されず、ただひたすらに書類の山と格闘する。
ゼインは、メリアが存在しないかのように振る舞った。彼がメリアに話しかけるのは、指示を出す時だけ。それも、必要最低限の単語のみ。
「これを、明日の夜明けまでに」
「演算ミスだ。やり直せ」
「遅い」
メリアは泣きそうになるのを必死で堪えた。彼女の【魔力演算】は、確かに強力だった。ゼインが要求する複雑な術式の基礎計算も、彼女にかかれば瞬時に答えが出る。
(わたくし、やれているはず……なのに……)
だが、彼から労いの言葉一つない。それどころか、彼の要求は日増しにエスカレートしていった。
周囲の魔導師たちも、メリアに同情的だった。
「公爵閣下は、ご自分と同じレベルを他人に求めるからな。だが、あの人の要求に応えられる人間など、この国にはいやしないさ」
「また新しい補助官か。……気の毒に。せいぜい、一週間持てば良い方だ」
事実、メリアの前にいた補助官たちは、皆、一月も持たずに精神を病んで辞めていったという。
しかし、メリアは他の者たちと一点だけ違っていた。彼女には【共感】があった。
最初は、ゼインの完璧な無表情に、彼女のスキルは何も反応しなかった。彼はまるで、精巧な氷の人形。感情というものが欠落しているかのようだった。
(この方は、本当に何も感じていらっしゃらないの……?)
そう思い始めた、ある日の午後。
来客があった。隣国の特使だ。メリアは衝立の向こうに隠れるよう命じられ、息を殺していた。
特使は、無理難題をふっかけてきた。国境付近の鉱山利権の譲渡。さもなければ、軍事的な圧力をかけると。
ゼインは、表情一つ変えずに応対していた。理路整然と、相手の要求の不当性を説き、冷静に反論していた。
だが、その時。
(……痛い)
メリアの頭に、キーンと響くような痛みが走った。それは、彼女が【共感】で他人の強い感情に触れた時の感覚。
(公爵閣下……?)
メリアは、衝立の隙間から恐る恐るゼインを見た。彼は、先ほどと何一つ変わらない、氷のような無表情で特使と向き合っている。
しかし、メリアに流れ込んでくる感覚は違った。それは、マグマのように煮えたぎる、激しい怒り。そして、その怒りを必死で抑え込もうとする、鋼のような意志。
(この方は……怒っていらっしゃる……!)
特使の無礼な要求に、この国を想う為政者として、激しく憤慨している。だが、それを微塵も表に出さず、完璧なポーカーフェイスの仮面の下で、一人で戦っている。
特使が不満げに退室した後も、ゼインはしばらく動かなかった。メリアは、彼から発せられる怒りの余波に当てられて、身動きが取れない。
(すごい……。これほどの激情を、あんな風に完璧に隠し通せるなんて)
それは、常人には不可能なほどの自己制御。彼が「氷の公爵」と呼ばれる所以を、メリアは垣間見た気がした。
やがて、ゼインが重々しく息を吐く気配がした。彼が感じていた激情が、すうっと引いていく。
「……いつまで隠れている」
「ひゃっ!?」
メリアは、小さな悲鳴を上げて衝立の後ろから飛び出した。
「も、申し訳ありません!」
「仕事に戻れ」
ゼインは、すでにいつもの彼に戻っていた。先ほどの激情など、まるで幻だったかのように。
(違う。幻なんかじゃない)
メリアは、自分の机に戻りながら思った。
(あの方は、何も感じない氷の人形なんかじゃない。誰よりも熱い激情を、誰にも見せないように、たった一人で背負っていらっしゃるんだ)
その日から、メリアのゼインに対する見方が少し変わった。
彼は相変わらず冷徹だった。要求は厳しく、言葉は少ない。メリアは毎日、彼の執務室という名の氷の檻で、能力の限界まで酷使された。
だが、彼女の【共感】は、時折、彼の「無表情」の裏側を捉えるようになった。
政敵からの陰湿な嫌がらせの報告書を読んでいる時。
(……深い、疲労。諦めにも似た苛立ち)
国王からの無理な要求(おそらく、彼の理想に反するもの)を記した親書を握りしめている時。
(……苦悩。そして、強い忠誠心ゆえの葛藤)
そして、深夜。一人、執務室で窓の外の月を見上げている時。
(……寂しさ? ううん、もっと深い……孤独。世界に、たった一人取り残されたような……)
彼は、あまりにも多くのものを背負いすぎていた。公爵という地位、王国最強の魔導師という名声、国王の右腕という重責。それらすべてを、弱冠二十代半ばの彼が、たった一人で支えていた。
(誰にも、弱音も吐けずに)
メリアは、知らず知らずのうちに、彼から目が離せなくなっていた。
もちろん、彼がメリアに優しくなることなど、万に一つもなかった。彼女はあくまで「便利な道具」。【魔力演算】の能力を買われて配置された、部品の一つに過ぎない。
(わかってる。わたくしが、あの方のためにできることなんて何もない)
そう自分に言い聞かせる毎日だった。
*
季節が変わり、冷たい雨が王宮の石畳を叩くようになった、ある夜のこと。
その日、王宮では大規模な夜会が開かれていた。執務室の窓からも、遠く本宮から漏れる光と、微かな音楽が届いていた。
もちろん、ゼインは夜会など欠席だった。彼にとって、そんなものは時間の無駄でしかない。メリアもまた、彼に付き合って山のような書類と格闘していた。
時計の針が、とうに深夜を回る。
メリアは、凝り固まった肩を回した。(さすがに、疲れたわ……)
ふと、ゼインの方を見ると、彼はぴくりとも動かずに机に向かっていた。
(集中力が、まるで途切れない。本当に、人間なのかしら……)
そう思った、瞬間。
ピキリ、と。何かが軋むような音が、メリアの頭に響いた。
(え……?)
それは、今まで感じたことのない、鋭い感覚。
ゼインだった。
彼は、姿勢こそ崩していないものの、片手でこめかみを強く押さえていた。
(あ……)
メリアの【共感】が、かつてないほど強烈なシグナルを捉えた。
(痛い、痛い、痛い……!)
それは、純粋な「痛み」。まるで、頭を内側から万力で締め上げられるような、激しい頭痛。
(公爵閣下……!)
彼は、これほどの激痛に耐えながら、平然と仕事を続けていたのだ。メリアがここに来てから、すでに数刻。ずっと、この状態だったというのか。
(どうしよう……! 誰か、侍医を……!)
だが、メリアは動けなかった。「私語厳禁」。余計なことをすれば、追放。その恐怖が、彼女の足を縫い付ける。
(でも、でも……! このままでは、あの方が……!)
ゼインの無表情が、メリアにはもはや、苦痛に歪む悲痛な仮面のように見えた。
(わたくしは……どうしたら……)
メリアは、自分の無力さに唇を噛んだ。できることなど、何もない。自分はただの補助官。貧しい下級貴族の娘。
(……あ)
その時、彼女は思い出した。
実家にいた頃、疲れて頭痛を訴える父に、母がよく淹れていたハーブティーのことを。
(確か、カモミルと……鎮静効果のあるバレリア。それと、ほんの少しの蜂蜜)
幸い、彼女の小さな机の引き出しには、眠気覚ましのために持ち込んでいた、実家製のハーブが少しだけ残っていた。
(……クビに、なるかもしれない)
自分が追放されたら、すぐに噂が出回るだろう。家族全員が路頭に迷う。
恐怖で足がすくむ。
(でも……!)
メリアは、目の前の男を見た。
氷の仮面の下で、たった一人、壮絶な痛みに耐えている彼を。
(……放っておけない)
気づいた時、メリアは立ち上がっていた。
執務室の隅にある水場へ向かい、震える手でティーポットにお湯を注ぐ。
(どうか、効いて……!)
ハーブの優しい香りが、緊張した空気にふわりと漂った。
彼女は、小さな盆にティーカップを乗せ、ゼインの机へと歩み寄る。一歩、また一歩と近づくたびに、彼から発せられる痛みの波動が、メリアの肌を刺す。
(お願い。怒らないで……)
ゼインは、まだ気づかない。彼は目を閉じ、深く集中することで、痛みを魔力で無理やり抑え込もうとしているようだった。
メリアは、そっと、彼の机の端にティーカップを置いた。
カチャリ、と。小さな音が、静寂な部屋に響く。
その音で、ゼインの目がカッと開かれた。
氷青色の瞳が、メリアを射抜く。
「……何をしている」
地を這うような、低い声。それは、いつもの冷徹な響きではなく、怒りと……警戒の色を、微かに含んでいた。
「も、申し訳ありません! その……」
「許可なく、持ち場を離れるなと命じたはずだ。それが、お前の返事か」
「ち、違います! あの、お疲れのように、見受けられましたから……!」
メリアは、必死で言葉を紡ぐ。
「頭痛に、効くかもしれません。母が、よく……その、カモミルと、バレリアを……」
ゼインの視線が、ティーカップに注がれた。湯気と共に、優しい香りが立ち上っている。
彼の眉が、ほんのわずかに、本当に、コンマ数ミリだけ動いた。
(……バレリア?)
それは、彼の記憶の奥底にある香り。
幼い頃、厳格な公爵家の中で唯一、彼に優しくしてくれた乳母が、彼が熱を出した夜に、いつもこっそり淹れてくれたハーブティーの香り。
(なぜ、こいつが……この香りを……)
「……下がれ」
ゼインの声は、まだ冷たい。だが、メリアが感じ取った彼の内面は、激しい「動揺」に揺れていた。
「はい! 失礼いたしました!」
メリアは、慌てて自分の机に戻り、再び書類の山に向き直る。心臓が、今にも飛び出しそうだった。
(……怒鳴られ、なかった。追放、とも言われなかった)
背後で、ゼインがティーカップを手に取る気配がした。
(飲んで……くれるかしら……)
メリアは、祈るような気持ちで、ペンを握りしめた。
*
ゼイン・アルフォードは、混乱していた。
彼は、長年、この偏頭痛に悩まされてきた。強大な魔力を制御し、膨大な政務をこなし続ける代償。それは、彼だけの秘密だった。誰にも、この弱みを見せたことはない。
(あの女……なぜ、わかった?)
彼が今、激痛の只中にいることを。そして、このハーブティーが、その痛みに最も効果があることを。
(偶然か……?)
だが、それにしては、タイミングが良すぎる。
彼は、ティーカップを恐る恐る口元へ運んだ。温かい蒸気が、彼の強張った顔を包む。
一口、飲む。
(……!)
懐かしい、優しい味が、喉を滑り落ちていく。
同時に、あれほど彼を苛んでいた、頭の内側からの痛みが……すうっ、と和らいでいくのを感じた。
(なんだ……これは……)
まるで、張り詰めていた琴の緒が、緩められたかのような。
氷で覆われた心の奥底に、小さな陽だまりが差し込んだような、不思議な感覚。
ゼインは、思わず、執務室の隅で小さくなっている女を見た。
メリア・フィラーズ。
貧しい子爵家の、何の取り柄もなさそうな娘。ただ、【魔力演算】の能力だけを評価されて、ここに「配置」された道具。
(道具、だったはずだ)
だが、今、彼の手の中にあるこの温かい液体は、まぎれもなく、その「道具」が、彼のために用意したものだった。
ゼインは、もう一口、ハーブティーを飲んだ。
痛みが引くと同時に、激しい疲労感が彼を襲う。彼は、この数日間、まともに眠っていなかった。
(……少し、休むか)
彼がそう思うこと自体、ここ数年、なかったことだった。
彼は、メリアに聞こえないように、小さく息を吐く。
「……」
メリアは、背後の気配が和らいだのを感じていた。
彼から発せられていた、針のように鋭い痛みの波動が、穏やかな静けさに変わっている。
(……飲んで、くださったんだ)
安堵で、全身の力が抜けそうになる。
(よかった……)
その夜。
氷の公爵の執務室で、初めて、二人の間に無言ではない、穏やかな沈黙が流れた。
メリアは、まだ知らない。
この一杯のハーブティーが、彼女自身の運命と、そして、氷の公爵ゼイン・アルフォードの心を、どれほど大きく変えていくことになるのかを。
彼女がもたらした「例外」は、ゼインの完璧に制御された日常に、確実に、小さな波紋を広げ始めていた。
(この女は……一体、何者だ?)
ゼインは、空になったティーカップを見つめながら、数年ぶりに「他者」に対する強い興味を覚えている自分自身に、気づいていた。
*
あの一杯のハーブティーの夜から、メリア・フィラーズを取り巻く環境は、表面的には何も変わらなかった。
相変わらず、彼女は王宮魔導師団棟の最上階、あの静寂な執務室に閉じ込められ、膨大な量の書類と術式計算に追われていた。
そして、彼女の主であるゼイン・アルフォード公爵も、相変わらず「氷の公爵」のままだった。
彼の言葉は短く、表情は凍りついたように動かず、要求は日増しに厳しくなっていく。
だが、メリアだけが知っていた。
ほんのわずかな、しかし決定的な「変化」が、二人の間に起きていることを。
「メリア」
ある日、ゼインが初めて、彼女を「おい」や「貴様」ではなく、名前で呼んだ。メリアは驚きのあまり、計算中の羊皮紙にインクを垂らしそうになる。
「……その、第九階層の魔力防御術式。昨夜、お前が基礎演算を終えたものだ」
「は、はい! 何か、不備がございましたでしょうか……!」
メリアは、即座にクビを覚悟して青ざめた。あの術式は、彼女が今までに扱った中で最も複雑怪奇なものだったのだ。
「不備はない」
ゼインは、淡々と告げた。
「……ない、どころか、完璧すぎた。私が想定していたルートよりも、三つも効率的な演算解を導き出していた」
「え……?」
「お前の【魔力演算】が、私の魔力と異様に親和性が高いことはわかっていた。だが、これは……」
ゼインは、そこで言葉を切り、氷青色の瞳でじっとメリアを見た。その視線は、もはや「道具」を見るものではなかった。「未知の生物」を観察するような、あるいは、「解読不能な魔導書」を前にした時のような、強い探究心と……ほんのわずかな「困惑」を含んでいた。
(あ……)
メリアの【共感】が、彼の内面を拾う。
(……驚いて、いらっしゃる? わたくしの能力に? そして……少しだけ、喜んで……?)
「……お前の能力は、危険だ」
「ひっ!?」
「私の術式の中核に、あまりにも深く干渉しすぎる。私が構築する魔法の『意図』まで、お前は読み取っているのではないか?」
(その通りだわ……)
メリアは、内心で頷く。彼女の【魔力演算】は、ただ計算が速いだけではなかった。ゼインが魔法を構築しようとする時、その根底にある「こうしたい」という意志、その術式が持つ「性質」を、彼女は直感的に理解できてしまうのだ。
だから、ゼインが「敵を排除する」ための術式を組めば、彼女は「最も効率的に無力化する」計算を。
ゼインが「王都を守る」ための結界を組めば、彼女は「最も強固で持続する」計算を。
無意識のうちに、最適解を弾き出してしまう。
「……申し訳、ありません。わたくし、でしゃばったことを……」
「謝罪は不要だ」
ゼインは、ふいと顔をそむけた。
「……効率が上がるのは、良いことだ。続けろ」
(え?)
「ただし」
彼は、再びメリアを睨みつける。
「お前のその能力は、私以外の魔導師の前では、決して使うな。……いいな?」
それは、命令だった。だが、メリアには、その命令に込められた別の響きが聞こえた。
(……この力を、わたくしを、守ってくださってる……?)
彼の感情は、相変わらず冷たい氷の壁の奥深くに隠されている。だが、【共感】を持つメリアには、その氷の壁に、小さな亀裂が入り始めているのがわかった。
その日から、二人の関係は「主と補助官」でありながら、どこか「共犯者」のような空気を帯び始めた。
ゼインは、メリアにしか扱えない、彼の魔法の根幹に関わる演算処理を、次々と任せるようになった。それは、王国の防衛に関わる最高機密。もしメリアが裏切れば、ゼインは失脚するどころか、国が傾きかねないほどの重要任務だった。
(この方は、わたくしを信頼してくださっている……?)
メリアは、その重圧に身がすくむ思いだったが、同時に、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
貧しい子爵家の、誰にも期待されていなかった三女。
そんな自分が、あの孤高の「氷の公爵」にとって、唯一無二の「必要な存在」になりつつある。その事実が、彼女に未知の勇気を与えた。
彼女は、ハーブティーを淹れる頻度を増やした。
ゼインがこめかみを押さえる仕草を見せるより先に、そっと、鎮静効果のあるブレンドティーを彼の机に置く。
最初は無言で受け取っていたゼインも、やがて、
「……次は、もう少しミンテを強くしろ」
「……この前の、カモミルの配合は悪くなかった」
などと、ぶっきらぼうながらも感想を口にするようになった。
メリアが、小さな失敗(書類の順番を間違える、など)をした時も、以前のような「追放」という言葉は聞かれなくなった。
「……愚鈍」
ため息と共に、彼はそう吐き捨てる。
「なぜ、ここでこの分類を選ぶ。お前の思考回路は、時折、常人の理解を超えるな」
(それって、褒めてるのかしら、貶してるのかしら……)
メリアが困惑していると、彼の感情が流れ込んでくる。
(……苛立ち。でも、それはわたくしに対してじゃなく、わたくしに『どう説明すれば伝わるか』で悩んでる……?)
彼は、メリアを解雇するのではなく、教育しようと、彼なりに努力しているらしかった。
その不器用な変化が、メリアにはたまらなく愛おしく感じられていた。
*
しかし、平穏な日々は長くは続かない。
ゼイン・アルフォード公爵の魔力が、この数ヶ月で飛躍的に向上したこと。そして、その影に「有能すぎる魔導補助官」がいるらしいという噂は、彼の政敵たちの耳にも届いていた。
「あの氷の公爵が、ただの補助官を、片腕のように信頼しているだと?」
「なんでも、その女の演算がなければ、公爵閣下の術は完成しないとか」
「……フィラーズ子爵家の、メリアとかいう娘らしい」
その日、メリアはゼインの命で、王宮の地下大書庫へ、古い文献を取りに行くことになった。
普段、彼女が執務室から出ることは決して許されない。だが、その文献は、現在ゼインが取り組んでいる国家レベルの術式に必要なもので、かつ、機密性が高すぎて、彼とメリア以外には触れさせるわけにいかなかったのだ。
「……十分、警戒しろ」
送り出すゼインの声は、常にも増して低く、硬かった。
「このペンダントを身につけていけ。有事の際は、魔力を込めろ。すぐにわかる」
手渡されたのは、小さな氷青色の魔石がついたペンダントだった。彼自身の魔力が、かすかに感じられる。
(わたくしを、心配して……?)
メリアの胸が、きゅん、と鳴った。
地下大書庫は、カビと古い紙の匂いが充満する、薄暗い迷宮だった。メリアは、渡された地図を頼りに、目的の書架へと急ぐ。
(あったわ。これね……)
彼女が、分厚い革表紙の魔導書に手を伸ばした、その時。
「……君が、メリア・フィラーズ嬢かね?」
背後から、ぬるりとした声がした。
メリアが驚いて振り向くと、そこには、中年の貴族が二人、不気味な笑みを浮かべて立っていた。
「……どなたですの?」
「我々は、君の才能を高く評価している者だよ、メリア嬢」
男の一人、マルロー侯爵は、ゼインの政敵の筆頭だった。
「あの冷血漢のもとで、道具のように扱われるのは、もうやめたまえ。我々のところへ来れば、君の家族には、一生遊んで暮らせるだけの富を与えよう。君自身も、手厚く遇することを約束する」
「……お断りしますわ」
メリアは、毅然として答えた。
「わたくしは、ゼイン様の補助官です」
「ほう。あの氷の男に、ずいぶんと入れ込んでいるようだ」
マルロー侯爵は、嫌な笑みを深めた。
「だが……残念だったな。今の質問は戯れに過ぎないのだよ。君がどう答えようと、結果は同じだ」
「どういう、意味ですの……?」
「君には、ここで消えてもらう」
侯爵が手を振ると、書架の陰から、黒装束の男たちが現れた。
「公爵の翼をもげば、さすがの彼も失脚するだろう。君のその稀有な才能は、我々で独占させてもらうよ」
(……罠!)
メリアは、咄嗟に胸元のペンダントを握りしめた。だが、黒装束の男たちが放った【沈黙】の魔法が、彼女の魔力発動を阻む。
「無駄だ。ここは、我々の結界の中。助けは呼べんよ」
絶望が、メリアの心を覆う。
(ゼイン様……!)
彼女が、男たちに腕を掴まれ、引きずられようとした、その瞬間。
――――ドガアァァァァンッ!!
地下大書庫の分厚い壁が、凄まじい轟音と共に、内側から爆散した。
粉塵と、魔力の嵐。
「な、なんだと!?」
「結界が……破られた!?」
マルロー侯爵たちが狼狽する中、壁の向こうから、ゆっくりと人影が現れる。
「……貴様ら、下衆が」
地獄の底から響くような、低い声。
舞い上がる粉塵の中で、二つの氷青色の光が、ギラリと輝いた。
「ゼイン……アルフォード……! なぜだ、なぜ結界が……!?」
「私の魔力が込められたペンダントを、甘く見るな」
ゼインは、メリアを掴んでいた男たちを、氷のような視線で射抜いた。
「その汚れた手を、離せ」
「う、うわあああっ!」
ゼインが指先を動かすと同時。男たちの腕が、瞬時に凍りついた。
「私のものに、何をしている」
その声は、メリアが知っている、いつもの冷静な彼のものではなかった。それは、自らのテリトリーを侵された、荒ぶる獣の咆哮。
メリアの【共感】が、彼の感情を捉え、彼女自身も恐怖で身がすくむ。
(……怒り。憎悪。そして……!)
それは、メリアを失うことへの、激しい「恐怖」と「焦燥」。
彼女が今まで感じたことのない、ゼインの剥き出しの激情だった。
「ひ、退け! 囲め!」
マルロー侯爵が叫ぶ。黒装束たちが、一斉にゼインに襲いかかった。
「……愚か者が」
ゼインは、メリアの方を一瞬だけ見た。
(演算しろ、メリア)
言葉はなかった。だが、彼の視線が、彼の魔力が、メリアにそう命じた。
メリアの頭脳が、彼の意志に応えて、瞬時に起動する。
(敵は、八人! 魔力属性は、闇と土!)
(ゼイン様の魔力は、氷!)
(最適解は、広範囲、瞬間凍結! 【絶対零度】の派生術式!)
メリアの演算が、ゼインの魔力とリンクする。
ゼインの魔力が、メリアの演算処理によって、ありえない速度で増幅され、術式へと再構築されていく。
「……消えろ」
ゼインが、冷ややかに手をかざす。
次の瞬間。マルロー侯爵も、黒装束の男たちも、その場にいた全ての敵が、床から天井までを貫く巨大な氷の柱の中に、封じ込められていた。
「……」
静寂が戻る。
残ったのは、荒い息を繰り返すゼインと、その場にへたり込むメリアだけだった。
ゼインは、ゆっくりとメリアに歩み寄った。
その顔には、まだ激情の残滓が浮かんでいる。
「……なぜ、すぐにペンダントを使わなかった」
厳しい声だった。
「も、申し訳……ありませ……【沈黙】を、かけられて……」
「言い訳だ」
ゼインは、彼女の目の前で膝をつき、その両肩を、痛いほど強く掴んだ。
「私が、どれほど……!」
彼は、そこで言葉を詰まらせた。
氷の公爵が、初めて見せる狼狽。
(あ……)
メリアの【共感】が、彼の制御を失った感情を、ダイレクトに受け止めた。
(……怖い。怖かった。君が、いなくなるのが)
(間に合わなかったら、どうしようかと)
(私を、一人にしないでくれ)
それは、悲痛なほどの「懇願」だった。
彼が、公爵という地位と魔導師という矜持の下に、ずっと隠し続けてきた、彼の本当の「弱さ」と「孤独」。
(……ああ。この方は)
メリアの瞳から、涙が溢れた。
(この方は、ずっと、一人で戦ってきたんだ)
(わたくしが、わたくしだけが、この方の孤独を、知ってしまった)
「……泣くな」
ゼインが、ぎこちない手つきで、彼女の涙を拭おうとする。その指先が、かすかに震えていた。
「ゼイン様……」
メリアは、震える彼の手に、自分の手を重ねた。
「わたくしは、ここにいますわ」
「……」
「もう、どこにも行きません。あなたの、お側にいます」
ゼインは、目を見開いた。氷青色の瞳が、激しく揺れている。
「……メリア」
彼が、絞り出すように彼女の名を呼ぶ。
「お前は、本当に厄介な女だ」
「はい……存じております」
「私の計算を、私の計画を……私の人生を、すべて狂わせる」
(……わかってる。わかってるわ、あなたのその戸惑いも、全部)
メリアが【共感】で感じ取ったのは、彼からの、不器用で、だが燃えるように熱い執着だった。
「それでも、わたくしは、あなたの側にいます」
メリアは、勇気を振り絞って、彼を見つめ返した。
ゼインは、深く、長い溜息をついた。それは、まるで、長年まとっていた重い氷の鎧を、脱ぎ捨てるかのような溜息だった。
「……ならば、責任を取れ」
「え?」
「お前が、私を狂わせたんだ。メリア・フィラーズ」
彼は、メリアの手を強く握りしめたまま、立ち上がらせた。
「お前は、もはや私の『補助官』ではない」
「……では、わたくしは、追放、ですの……?」
「………………愚か者」
ゼインは暫し固まったあと、初めて、呆れたように笑った。それは、氷が溶ける、春の陽光のような、かすかな笑みだった。
「お前は、私の『唯一』だ」
彼は、メリアの手を、自分の胸、鼓動を打つ心臓の場所へと導いた。
「私のこの痛みも、孤独も……この心臓すらも、お前なしでは制御できない。……お前が、私の陽だまりだ」
メリアの【共感】に、穏やかで、深く、絶対的な「愛情」が流れ込んできた。
*
それから、数ヶ月後。
王宮魔導師団の執務室は、相変わらず静かで、多忙だった。
だが、決定的に違うことが二つあった。
一つ。
執務室の窓辺には、陽光を浴びて生き生きと育つ、ハーブの鉢植えがずらりと並べられていること。それは、ゼインがメリアのために、王宮の庭師に命じて作らせた、小さな空中庭園だった。
二つ。
「氷の公爵」の机には、常に、湯気の立つハーブティーが置かれていること。そして、それを淹れるのは、公爵閣下の婚約者となった、メリア・フィラーズ、その人だった。
「ゼイン様。少し、お休みになってはいかがですの? 顔色が優れませんわ」
メリアが、新しいハーブティーを彼の机に置く。
「……ああ」
ゼインは、書類から目を上げ、彼女の差し出すカップを受け取った。そして、そのまま、彼女の手を掴んで離さない。
「メリア」
「はい?」
「……お前の淹れた茶は、相変わらず、私の魔力を乱す」
「あら。それは、お口に合いませんでしたかしら?」
メリアが、わざと首を傾げる。
「いや」
ゼインは、彼女の手を自分のこめかみに当てさせた。
(……落ち着く)
言葉にはしない。だが、メリアには彼の心の声が聞こえていた。
「……今日の夜会、本当に出なければならないのか?」
ゼインが、心底面倒そうに呟く。
「お前と、ここのハーブの手入れをしている方が、よほど有意義だ」
「まあ、ゼイン様。公爵閣下が、そのようなことをおっしゃってはいけませんわ」
メリアは、くすくすと笑う。
(あんなに夜会嫌いだったのに。わたくしを婚約者としてお披露目するために、自ら夜会を開くなんて)
彼の不器用な愛情表現を、メリアは【共感】で、すべて受け止めていた。
「メリア」
「はい、ゼイン様」
「……愛している」
氷青色の瞳が、今は、陽だまりの色を映して、どこまでも優しく細められていた。
(わたくしも、ですわ)
メリアは、言葉には出さず、ただ、彼の手に自分の手を、そっと重ね返すのだった。
了




