殺さず、壊す
影風は後方へ跳躍して距離を取ると、睨み合っていた沙苑と兵士たちを一瞥し、静かに息を吐いた。
(ここを“奪う”のは無理だな。)
この考えは嘲りではなく、むしろ淡々とした諦観を含んでいた。
影風は言霊庫の厚い扉を見やりながら、心の奥に潜む別の熱を押し込む。
(詞鏡そのものを奪うのは三人の綴る者が見張りにつくこの里じゃ、なかなか突破は厳しい。
だったら――壊せばいい。混乱させりゃあ、それで十分だ。)
影風の胸の奥に、黒い闘志が再び燃える。
復讐。それは彼が歩くすべての理由だった。
尽くした久遠に切り捨てられる駒の存在として。
命の恩人である遥花を見捨てた恨みを背負った者として。
影風は沙苑らを見つめながら、うっすらと笑った。
(……俺は誰も殺さずここまで来た。)
共に乗り込んだ仲間たちは久遠の兵も長老も容赦なく殺してきた。
だが影風だけは、ただの一度も命を奪わなかった。
理由はただ一つ。
(遥花様。あなたは久遠の人達のことを想っている。だから、俺は人を殺めません。)
裏の部隊であった彼が“殺し”を避け続けてきた理由はそれだった。
真澄の凛空と対峙したとき、影風は即効性の毒を使わなかった。
遥花の願いが胸に残り続けていたからだ。
(仇を討つ。それでも、殺しはしねぇ……。俺ができるのは、“壊すこと”だけだ。)
その瞬間、影風は懐に手を入れて一枚の詞鏡を取り出した。
蒼篠のものではない。持ち込んだ幽淵の詞鏡。
。
沙苑たちの表情が一瞬にして強張る。
「……な、何をしているの……!」
影風は冷たく笑った。
「仕方ないから壊すんだよ。混乱さえ起きれば、俺の目的は果たされる。」
刀を抜くわけでもなく、ただ親指で詞鏡に触れ軽く、力を込めた。
ビリ……ッ。
破った瞬間空気が震えた。
沙苑の心臓が跳ねる。
「ま、待て……! それ以上その詞鏡を――」
影風は微笑んだ。
(遥花様は殺すことを望まない。だから、殺さずに壊すだけだ。盛大にな!)
そして、詞鏡を破り捨てた。
同時に、地鳴りのような重低音が大地を揺らす。
言霊庫の前の空間が、黒霧で満たされた。
「――ッ!? な、なんだこれは……!」
「ひ、引け! 前に出るな!」
蒼篠の兵も天響の兵も、思わず後ずさる。
黒紫の霧の中心で、巨大な影がゆらりと立ち上がった。
身体は小さな家ほどもある。
四肢は獣のように太く、頭部は角の折れた鬼のよう。
だが眼孔は空っぽで、内側から炎に似た光が揺れている。
咆哮とも呻きともつかぬ声が大気を振動させた。
ゴォォォォ……ッ!
誰かが恐怖に息を呑んだ。
沙苑でさえ、一歩、足が下がった。
影風は振り返らず、簡単に手をひらひらと振る。
「あとはこいつと遊んでな。俺はもう行く。」
それだけで、まるで風そのもののような速さで里の奥へと走り去る。
「ま、待て!! 」
沙苑が叫んだが、追うどころではなかった。
巨大な言霊が、今にも言霊庫を破壊しようと咆哮を上げながら近づいてくるのだ。
「防げ! 言霊庫を守るんだ!!」
蒼篠兵も天響兵も一斉に武器を構える。
だが言霊の気迫だけで空気が震え、槍を持つ手が痺れるほどだった。
沙苑は槍を構え直し、胸の痛みにも構わず踏み込んだ。
(……逃がした。でも、今は……今はこいつを止めなければ!翔綺様たちが来るまで……絶対に持ちこたえる!!)
巨大な影が吼え、爪のように尖った腕を振り上げた――。
その瞬間だった。
「伏せろ!!」
鋭い声が空間を裂いた。
同時に、連撃の風が吹き抜ける。
沙苑は思わず振り返った。
そこに立っていたのは、真澄の綴る者、透真。
その隣に、息を整えながら短剣を抜く男。
薙刀を背に負い、輪刃を指に掛けたままの翔綺。
そして、弓をつがえた結芽が木々の合間から飛び出す。
三人ともすでに息は荒く、衣は土と血に汚れている。
だが、その眼は鋭く、迷いがなかった。
「お、お三方……!」
沙苑の声に翔綺が短く頷く。
「……遅くなった。すぐ片づける。」
言霊は咆哮し、三人へ向けて突進した。
透真が刀を構え、地を蹴る。
翔綺は短剣を逆手に持ち替え、一気に間合いへ。
結芽は弓を引き絞り、震える数本の矢を指に挟んだ。
影風が残した巨大な災禍に三人の綴る者が対峙した。




