三道の乱
影風は蒼篠の里の裏路地に身を溶け込ませるように潜み、掌に収めた詞鏡を静かに見下ろしていた。
ここまでで分かった。
言霊庫には常に綴る者の誰かが張り付いてやがる。
正面から狙うのは無謀。その隙を作るしかねぇ。
そのために影風が選んだ場所は三つ。
一つは、里の外れにある清水の湧き出る祓所。
二つ目は、森の奥にひっそりと構えられた鍛冶場。
三つ目は、蒼篠の中心部にある橋のたもと。
どれも言霊が発生すれば、綴る者が絶対に駆けつけざるを得ない“要所”だった。
「さぁ……踊ってもらおうか、綴る者の連中に。」
まず一つ目、封じが揺らいだ詞鏡を浄化する場所である祓所へ。
影風は詞鏡を破った瞬間、空気が震え、黒紫のもやが水面に広がった。
祓所に黒紫のもやが立ち上った瞬間、冷たい風が一帯をなぎ払った。
澄んでいたはずの水面が黒く濁り、静かだった湧き水からは低い唸り声のようなうねりが響き出す。
その音を聞くや、蒼篠の里の見張り台から警鐘が鳴り響いた。
「言霊の発生……!? 一カ所じゃねぇ、三つ……三つ同時だ!」
里全体がざわめきに包まれた。
結芽は祓所へ向かう途中、すでに肌が粟立つのを感じていた。
“言霊が暴れている”
その感覚は綴る者として身に染みついている。
清水の澄んだ音も、鳥の声も消え、祓所はまるで別の世界のように静まり返っていた。
黒紫の靄は水面から腕のように伸び、ときおり石畳を叩きつける。
結芽は背から弓を引き抜き、矢をつがえる。
「こんな……早く封じないと、水源が全部汚されちゃう……!」
言霊の影が水面から立ち上がるように形を成す。
人型でも獣型でもない、濁った“塊”。
矢で貫けるのか一瞬迷ったが、迷いを振り払うように脚を踏み込んだ。
スッ――
矢が放たれ、靄の中心へ突き刺さる。
音はない。
けれど黒紫の塊は一瞬だけ崩れ、形を変えた。
その隙に、結芽は二本目、三本目と連続で射る。
影の塊はうねりながら後退し、祓所の周囲に撒かれた札の境界線を越えようとする。
「行かせない……っ!」
足場の悪い水際を走り、結芽は影との距離を詰める。
飛びかかってくる靄を身を低くしてかわし、矢の代わりに腰の短刀を抜いた。
切っ先を影に突き立てると、影は苦悶するように揺らぎ、祓所全体に衝撃が走った。
まだだ。
結芽は最後の矢をつがえ、深く息を吸った。
詞鏡を向け叫ぶ。
「――封ぜよ。」
靄は詞鏡に吸い込まれ霧が晴れるように一気に消えた。
祓所に再び清水の流れる音が戻る。
結芽は肩で息をしながら、揺れる水面を見つめた。
(あと二カ所……透真、翔綺……早く収まって……!)
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鍛冶場は蒼篠でもっとも火の気が強く、武具が常に並ぶ場所だ。
その火が今は黒紫の風に煽られ、火花が散り、鍛冶場全体が不気味な光を帯びて揺れている。
翔綺は短剣を逆手に握り、鍛冶場へ踏み込んだ。
焔を吸った影が、鉄を噛むような音でうねる。
炉の奥から、歪んだ鉄塊のような影が現れた。
「鍛冶場に手を出すとは……考えてるな。」
影が翔綺の足元へ伸びる。
翔綺は一歩踏み込み、薙刀に持ち替え横へ薙いだ。
ギィンッ!
金属のような衝撃音がし、影が粉を散らすように裂けた。
しかしすぐに再形成され、二体、三体へと増えていく。
「増えるのか……!」
翔綺は薙刀を床へ突き立て、腰から輪刃を取り出す。
小さな輪刃は光を反射し、鋭い円弧を描いて影へと飛ぶ。
輪刃が影を薙ぎ、薙刀が影を斬り裂き、短剣が首元へ突き刺さるような勢いで振るわれる。
しかし影には感覚がない。
切り裂かれても、形を失っても、ただただこちらを襲い続ける。
「しつこい……!」
影が炉の火を吸い込み、巨大な焔の塊となって翔綺に迫る。
翔綺は薙刀で受け止め、火花が一気に散った。
熱気で肌が焼ける。
後退すれば鍛冶場が完全に喰われる。
ここで止めるしかない。
翔綺は全身の力を込めて影を押し返し、輪刃で軌道を作り、最後に短剣を握り直した。
短剣が影の核を貫いた瞬間、鍛冶場を覆っていた黒紫の光が一気に吹き飛んだ。
「今だ、封ぜよ。」
詞鏡を向けられると、暴走した言霊の火の粉が静かに落ち、炉の焔が元の色を取り戻す。
翔綺は額の汗を拭い、息を整えた。
(言霊庫へ戻らなければ!)
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蒼篠の中心部である橋のたもとは、昔から言霊の流れが交差する場所だった。
清水が流れ、風が渡り、人々が往来し、祭事の舞台にもなる。
そこに黒紫の影が溢れたと報告を受け透真は駆けた。
橋に近づくほどに、景色の色が変わっていく。
風の匂いが鉄の味を帯び、空気がざわめきのように震える。
(“狙って”発生させたな)
橋の袂に辿り着いた瞬間、透真は息を呑んだ。
水面から無数の黒い“爪”のような影が伸び、橋脚を掴み、軋ませている。
水鳥たちは飛び去り、流れは止まったように濁り、橋の下は底なしの闇に変わりつつあった。
「ここを落とす気か……!」
橋は蒼篠の主要な移動路であり、避難経路でもある。
崩れば里は分断され、混乱は必至、まさに最も厄介な地点を突かれた。
透真は刀を抜いた。
鞘走りの音が響くと同時に、影が一斉に蠢く。
「来い。」
影が水柱のように跳ね上がり、刃を持つかのような先端で襲いかかった。
透真は斬り払う。斬撃の軌跡が白く残り、影は霧散していく。
だが、切っても切っても湧き上がる。
(無限に補充されるな)
橋の中央が軋み、危険な音がした。
影の一部が橋脚を完全に包み込み、破壊を進めている。
「させるか──!」
透真は橋に駆け上がり、連撃を叩き込んだ。
刀が走るたびに影が四散するが、すぐに再形成され、橋を攻撃し続ける。
風が逆巻く。
川の流れが逆流するように持ち上がり、影の塊が透真の全身を飲み込もうと迫る。
(まともに受ければ吹き飛ばされる……っ)
一瞬の判断。
足元を蹴り、影の奔流へ踏み込む。
濁流の中心に突っ込み、自らの体を軸にして刀を回転させた。
水飛沫と影が渦を巻き、空気が裂けた。
影の核の一部が露出した瞬間
「終わりだ。封ぜよ!」
透真の詞鏡が光を放ち、影を一気に吸い込んだ。
川の濁りが引いていく。空気が清涼さを取り戻す。
橋脚に触れ、透真は崩落の心配がないか確認し、深く息を吐いた。
(結芽も翔綺も……無事でいてくれ)
透真は言霊庫へ走り出した。




