潜入者と来訪者
幾筋もの小川を渡り、深い森の合間を抜けた先、
青みを帯びた木々が静かに揺れる空間がふいに開ける。
そこが、蒼篠の里だった。
森に抱かれるように広がる集落は、以前と変わらず澄んだ空気に満ちている。
竹の葉のような青色を帯びた木々は、風を受けるたびに細やかな音を奏で、
まるで森そのものが静かに呼吸しているようだった。
だが、かつて感じた柔らかさは影を潜めていた。
里の中央を貫く石畳の上には、鍛冶で打たれた武具が整然と置かれ、
家々の軒先には大小の防具棚が並び、
かすかな金属の匂いが常に風に乗って漂っている。
鍛冶場からは鉄を打つ乾いた音が響き続けていた。
リズムこそ穏やかだが、その一音一音には、
「備えている」
という明確な意志が宿っている。
里人たちは皆、胸当てや腕当てなどの軽装を身につけ、
普段は手にしない武器を腰に差していた。
弓を弦で確かめる者。
槍の穂先を磨く者。
刀身の刃こぼれを丹念に研ぐ者。
静謐な森に包まれた里でありながら、
その空気は張り詰め、
風の音すら鋭く聞こえるほどだった。
「……蒼篠の里が、ここまで緊張しているなんて。」
かつて訪れた者であれば、そう呟かずにはいられないだろう。
自然の清らかさは変わらない。
青葉の揺れる音も、澄んだ空気もそのままだ。
だが、里全体が“何かを迎え撃つ”ために呼吸を整えている。
まるで巨大な弓が、今まさに引き絞られた瞬間のように――。
そんな静かな緊迫のただ中、
綴る者・翔綺は言霊庫の前に立ち、
従者・沙苑がその背後で警戒の視線を巡らせていた。
蒼篠の里は今、
森の静けさと、剣の覚悟が同じ呼吸をしている場所となっていた。
言霊庫の内部――。
厚い木扉を閉めた静寂の中、
蒼篠の綴る者・翔綺は姿勢よく座していた。
いつものいたずらっ子の雰囲気と違い、今は凛とした空気を纏っている。
その隣で控えるのは従者の沙苑。
柔らかい物腰だが、目は鋭く、油断の色はない。
「翔綺様。里の外周も見回りを強化したようです。」
「ならば良い。敵はもう近くまで来てるだろうからな。」
沙苑が眉を寄せる。
「本当に、来ると思われますか?」
「思う、ではなく“来る”。
真澄を攻め、詞鏡を奪ったなら……蒼篠が標的になるのは道理だ。」
翔綺の指先が詞鏡に触れる。
「我らの言霊庫を破らせるわけにはいかない。」
翔綺の目に、炎のゆらぎのような光が宿る。
「ここは、守る。」
その声は静かだが確かな重みを持っていた。
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その頃――。
森の陰に溶けるような黒い影が、蒼篠の外周に辿り着いていた。
影風。
山を渡る風が葉を鳴らし、小枝が揺れた。
しかし、影風が踏む地面は一つも音を立てない。
「……ここが蒼篠。森の中の小さな里、か。」
森と竹林に隠れるように佇む集落を遠目に眺め、口元を歪める。
(自然に寄り添って生きてる……か。真澄とはまた違う厄介さだな。)
真澄は浄化の里。
蒼篠は鍛冶と自然の里。
どちらも言霊を扱うには絶好の地。
外周から里を見渡していた影風は息を潜めた。
里の見張りの間隔、巡回の周期、武具の傾き、視線の方向――
それらを一つひとつ読み取り、影風は小さく鼻で笑う。
(正面からは無理だな。さて……どう潜るか。)
その時、補給用の木箱を運ぶ若い里人が一人、裏道へ入っていくのが見えた。
同じくもう一人が少し遅れて合流しようとしている。
(……あれだな。)
影風はすぐには動かない。
二人の足並み、会話の癖、警戒の薄さ、それを一分以上観察し、
位置取りを慎重に計った。
そして――。
若者の片方が足を滑らせ、少し離れて箱を取りに戻った瞬間、
影風はその背後に滑り込んだ。
首を絞めるのではない。
短刀も使わない。
口を塞ぎ、片腕で体重を奪うように背負い、
そのまま静かに地面に倒す。
力を入れすぎれば骨が鳴り、弱ければ抵抗される。
ほんの一瞬の判断。
気絶だ。殺してはいない。
影風は青年の防具を外すと、それを素早く身につけ、髪を束ねる位置まで合わせる。
汗の匂いを手でなじませ、装束の皺も青年に寄せていく。
(これでいい。真正面から堂々と歩くより、
“そこにいたはずの青年の自然な動き”で通る方が違和感がない)
影風は青年の歩幅、癖を真似しながら外周へ戻る。
巡回の者に軽く頭を下げ、視線を合わせないように通り抜けた。
一瞬、見張りが眉をひそめた。
だが影風は青年がいつもしている癖――
「顎に触れてから小さく鼻で息をする」
を再現する。
見張りは納得したように視線を戻した。
(よし……)
影風の唇がわずかに吊り上がる。
(透真。お前が来る頃には……俺はもう、里の中だ)
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森を抜ける風が変わった。
湿り気を帯びる森の匂いから、鉄と火の混ざり合う匂いへ。
透真は歩みを止め、前方を凝視した。
結芽が小声で囁く。
「……空気が違う。前に来たとき、こんな感じじゃなかった。」
透真も静かに息を吐く。
「敵はもう近くまで来ているかもしれないから、完全に備えているな。」
竹林がさらりと揺れる。
青い葉が光を反射し、揺れる影が二人の足元を覆う。
やがて視界が開け、蒼篠の門が現れた。
槍を構えた門番が、すぐ反応した。
「止まれ! 名を――」
その声が途中で変わる。
「……まさか。
透真様! 結芽様! 真澄からこちらへ?」
透真がうなずくと、門番は一気に緊張をほどき、深く頭を下げた。
里の奥では、里人たちのざわめきが広がりはじめている。
結芽の視線は自然と奥へ向く。
だがその奥、青葉の影に紛れるように、ゆっくりと歩く“里人”が一人。
兜を深くかぶり、腰の武具に手を添えながら、
周囲を観察しているその姿は、透真の視界にはまだ映らない。
蒼篠の里は、静かに、しかし確実に嵐の中心へ向かって動き始めていた。




