刃に祈る夜
嵐のように暴れ狂う言霊は、湖畔の空気そのものを震わせていた。
水柱が立ち、砂利が巻き上がり、木々の影が揺れる。
透真は凛空を抱えながら、荒れ狂う自然の奔流を睨む。
(くそっ……! どうすれば——!)
言霊は形を持たない。
だが、風と水と光が混ざり合い、ひとつの巨大な“意思”を持った何かのように迫ってくる。
凛空の呼吸は細く、熱は高いのに顔色は白い。
腕をかすめた短剣の傷は小さいが、皮膚がうっすらと黒ずんでいた。
毒は、じわじわと心臓へ向かって広がっている。
(このままじゃ……間に合わない……!)
透真は奥歯を噛み締め、凛空を抱き上げたまま荒れ狂う空気を裂くように走った。
少しでも離れた場所へ。
せめてこの暴走から一時でも避けたかった。
だが。
シュッ……!
空を切り裂くように、透明の“刃”が一閃した。
風そのものが攻撃となって飛んでくる。
透真は反射的に身をひねり、凛空を庇う。
(狙いが……凛空!?)
逃げるたびに言霊が追ってくる。
その軌跡は明らかに、弱った凛空の“命”を狙っていた。
戦いでは、弱りゆく生命は“標的”として最も狙われやすい。
(このまま抱えて逃げ回ったって……キリがない!)
だが、ここで下ろせば、次の瞬間に風の刃が凛空を切り刻むだろう。
「……くそっ……!」
視界が揺れた。
焦りで、胸がざらつくように痛む。
その時だった。
「透真!!」
女の声が、烈風を突き破った。
透真は振り返った。
湖へ続く斜面を、必死に駆け降りるひとつの光。
その正体を見た瞬間、胸が一気に軽くなった。
「結芽……!?」
結芽の顔が驚愕と不安で染まり、ゼエゼエと肩を上下させながら駆け寄ってくる。
その姿を見た透真は、生きた心地が戻るのを感じた。
助かった。やっと手が届く希望が来た。
「透真っ……何が……!」
「結芽!!」
透真は声を荒げた。
それは怒りでも焦りでもない。
必死に耐えていた緊張が、形を変えて溢れ出た声だった。
「凛空が毒にやられた。毒が回るのが速い!」
結芽の目が一瞬見開かれる。
「——ッ!」
「巫女のところへ連れて行ってくれ! すぐだ!
頼む!」
透真は結芽の肩を強く掴む。
その手が震えていた。
「この言霊は……私が食い止める!」
結芽は迷わなかった。
一瞬、湖、言霊、そして凛空の顔色を見ただけで、頷いた。
「任せて。絶対に……絶対に助ける!」
結芽の背に凛空を預ける。
凛空の身体は熱く、だが顔色は死人のように白かった。
結芽は迷いなく凛空を背負う。
(頼む……!)
透真は結芽の後ろ姿を一瞬だけ見つめた。
そして振り返る。
荒れ狂う言霊が、大地そのものを剥ぎ取るように迫ってきていた。
「さあ……こっちはこっちで相手をしてやる……!」
透真は刀を抜いた。
白銀の刃が夜の光を受け、深い光を返す。
風が吠えた。
言霊の形は定まらない。
だが、風と水の粒子が一つの奔流となって、まるで巨大な生き物のように形を取る。
暴走した言霊。
透真は地を踏みしめた。
凛空の重みが腕から離れたことで、全身に凛とした集中が戻ってくる。
(ここで封じる……!)
風の刃が襲いかかる。
砂利が吹き上がり、木の皮が削られる。
湖面は渦を巻き、空気は唸る。
透真は前へ一歩踏み込む。
ザッ!
音もなく、透真の姿が跳ねるように動いた。
風の刃が右から迫る。
だが透真は、消えた。
ほんの一瞬、地面との接触を断ち、風の流れの“上”へ跳んだ。
くるり、と空中で回転しながら、刀が弧を描く。
——風を断ち切る。
刃が振り下ろされると同時に、風の奔流が二つに割れ、後ろの木々へと向かって駆け抜けた。
木の幹がバキバキと裂ける音が響いた。
(まずは一撃……!)
だが、終わりではない。
言霊はすぐに形を作り直し、今度は水柱を噴き上げて襲いかかってきた。
湖面が爆ぜ、巨大な水の蛇のような渦が透真へ向かって伸びる。
透真は後退せず、逆へ踏み出した。
水柱が落ちる前に——
ザンッ!!
横一文字の斬撃が、空気を震わせた。
刃は水流を切り裂き、飛沫が爆ぜ、光の粒となって夜空へ散る。
(斬れる……! 形はなくとも“霊”である以上、刀は通る!)
透真の動きは研ぎ澄まされていた。
凛空を守るために研いできた剣技が、今まさに全て解き放たれる。
言霊が怒り狂ったように風を巻き上げる。
湖の水面から複数の渦が生まれ、一斉に透真へ向かって突進する。
「まとめて来い……!」
透真は重心を低くし、姿勢を地に吸いつけた。
次の瞬間、刃が光の弧を描く。
斬り伏せる。
風が二つ、三つ、四つと切り裂かれ、
水の渦が破られ、霧散し、光となって消えていく。
しかし、言霊は止まらない。
怒りゆえか、恐怖ゆえか、暴走の勢いはさらに増していく。
(くっ……! 封印しない限り終わらない……!)
透真は呼吸を整え、一歩、二歩と後ろに大きく跳んだ。
腰の袋から、詞鏡を取り出す。
「……聞け。言霊よ。」
透真の声は風を裂いた。
「汝は暴れ、荒れ狂う理由はもはやない。」
言霊が雄叫びのような風を放つ。
だが透真は動じない。
大地を踏み込み、全身を使って斬り上げると同時に、封印札の紋様が光を帯びた。
光の線が空中へ描かれ、風の塊を裂き、その中心へ突き刺さる。
言霊が震えた。
風が逆巻き、水柱が崩れ、暴れ狂う力が一瞬にして収縮していく。
透真は刀に込める力をさらに強める。
「封ぜよ!」
光が走る。
暴走した言霊の全体が、光の亀裂を通して吸い込まれるように消えていく。
最後の風が吹き抜け、
それきり——湖畔は静寂を取り戻した。
透真は深く息を吐いた。
「……ふう……」
汗がひと筋、頬を伝う。
だが休んではいられない。
結芽と凛空はまだ、巫女のもとへ向かっている途中だ。
(間に合ってくれ……!)
透真はすぐに走り出した。
夜風が背中を押す。
湖畔に残るのは、静けさと、破れた詞鏡の破片だけだった。




