湖畔に砕けた詞鏡
真澄の里へ到着する直前、透真は馬を降りるより早く駆け出していた。
目指すはただひとつ、言霊庫。
里は沈黙に包まれ、いつも通りの静けさに見える。
だがその静穏は、逆に胸に冷たいものを落とした。
(……嫌な空気だ。)
言霊庫の前に差し掛かったとき、透真は息を呑んだ。
数名の見張りが前庭に倒れている。
「おい!」
駆け寄り、脈を確かめる。
息はある。意識はないが、致命傷もない。
(よかった……。いや、よくはないが、死んでいないだけましだ。)
急いで扉へ向かい、重い扉を押し開けた。
中は…荒れていた。
棚の前に詞鏡が散乱し、床には粉々になった破片まで落ちている。
"必要なものを選んで奪った" のではない。
"とにかく掴めるだけ掴んだ"。
そんな乱暴で、しかし躊躇いのない荒らし方だった。
怒りが喉までせり上がるが、すぐに別の思考が追い付いた。
(この散らかし方……長居はしていないな。)
そのとき。
「……透真様……!」
外で倒れていた見張りの一人が、呻きながら上体を起こした。
透真はすぐに駆け寄る。
「しゃべれるか。何があった?」
「……敵……あいつは……凛空殿と交戦中……湖の方へ……。
言霊庫から離す……ため……きっと……」
その言葉に透真の瞳が鋭く光る。
(凛空が……一人で影風と!?)
「もうしゃべるな。休んでいろ!」
透真は走り出した。
目指すは、真澄の象徴、曇りなき湖。
もし凛空が影風に一対一で当たっているのなら、急がなければならない。
相手は只者ではない。
久遠での詞鏡奪取、長老殺害。
こちらが後手になってしまうほど力がある。
湖へ近づくほどに、空気は張り詰めていった。
風が鋭い。木々がざわつく。
そして――。
湖畔に出た瞬間、目の前に広がる光景に、透真は言葉を失った。
二つの影が激しくぶつかり合っていた。
ひとつは黒。
影をまとったような動きで、手にした短剣を閃かせる影風。
ひとつは白。
月光のような二振りの刀を操る凛空。
二人は湖面近くの浅瀬を挟んで高速で動き、水しぶきと光の軌跡が夜気の中に何本も線を描いていた。
息を呑む間もなく、体は戦況に視線を奪われた。
影風の動きは蜘蛛のように粘り、蛇のように滑り、
まるで先の先を読むかのように凛空の刃を避ける。
対する凛空は、二刀を一体化させた流れるような剣筋で、
影風の暗器を弾き、攻撃のタイミングを与えない。
水音、刃鳴り、呼吸。
すべてが一つの戦いの音として重なっていた。
加勢のため、二人に近づくべく移動する。
(互角……いや、わずかに凛空が押しているか?)
そう思った。
だが、違和感もあった。
(相手の攻撃が少なすぎる。)
凛空の剣圧は強い。
それを受け流すだけでも相当な技量が必要だが、相手はそれをやってのけている。
(倒す気がない……時間稼ぎか?)
透真がたどり着いたその瞬間、凛空が一歩深く踏み込んだ。
渾身の一撃の兆し。
水飛沫を上げて刀が振り抜かれ――。
同時に、影風の短剣が音もなく凛空の腕をかすめた。
ほんの小さな切り傷。
だが。
「——っ!」
凛空の身体が一瞬揺れた。
透真は嫌な予感に駆られ、叫んでいた。
「凛空、下がれ!」
しかし遅かった。
心臓の鼓動が、凛空の胸を内側から叩きつけるように跳ねた。
どくん。
次の瞬間、凛空の膝が崩れた。
敵の口元が吊り上がる。
「いい動きだったよ、坊主。でも——慌てたな。」
凛空が倒れ込む寸前、透真は全力で駆け寄って受け止めた。
腕の中の凛空は、肌が異様に白く、呼吸も浅い。
(まずい……!このままだと……!)
透真は顔を上げ、相手を睨みつけた。
「何をした!!」
眼前に立つ男の顔にも名前にも覚えはない。
(幽淵の兵でも、こいつは異質……。
この戦い方、影に溶けるような動き……暗殺系の“闇部隊”か?)
透真の背に冷たい汗が流れる。
影風は懐から詞鏡を取り出し、
わざと見せつけるように透真に向けて掲げた。
「ほれ、あんたのところの宝だろ?
返してやるよ――こうやってな。」
ビリッ。
指の力が加わり、詞鏡が破られた。
次の瞬間、湖畔全体が震えた。
空気が逆巻き、湖面が荒れ狂う。
(言霊の……暴走!?)
影風は暴風の中でも余裕の笑みを浮かべ、手をひらひらと振った。
「おっと、急がねぇとその坊主、毒か暴走した言霊に殺られるぜ?
どうする、透真様ぁ?」
(……なぜ私の名前を……?)
影風の笑みは、まるで「知っている」者のもの。
しかし透真の記憶のどこを探しても、この男はいない。
(やっぱり……幽淵の特殊部隊。
情報網の広さからして、私のことを調べていた……?)
疑念が胸を掴むが、思考を続ける暇はない。
「じゃあな、綴る者。生きてたら、 また会うかもなぁ。」
言い捨て、影風の姿は闇に溶けるように消えた。
追う暇などない。
追いたくても、凛空の呼吸が浅く、顔色はさらに悪化している。
そして、破れた詞鏡から解き放たれた言霊が、嵐のように周囲を蹂躙し始めた。
透真は、「敵の正体」よりも「どう守るか」を先に選ばなければならなかった。
凛空を抱え、荒れ狂う言霊を前にして。
言霊の咆哮が湖畔に響く。
空気が震え、水柱が立つ。
暴走した言霊は、形を持たぬ自然の奔流となって襲いかかってくる。
透真は凛空を抱き締めながら、立ち尽くすしかなかった。
(里へ連れていく……?だめだ、言霊まで連れて行ったら、真澄が——!)
でも、ここで治療を施せる者はいない。
巫女の手が必要なのは明らか。
しかし……。
(この暴れ方……!このままじゃ俺たちごと呑まれる!)
迫る嵐のような言霊の気配。
凛空の呼吸はさらに細く、冷たくなっていく。
透真は必死に周囲を見回した。
湖の波が荒れ、風が叫び、木々が揺れ、影が何十も揺れ動いて――。
どうする!?
凛空を抱えたまま逃げるのか?
言霊を鎮めるのか?
それとも……。
決断の一瞬が迫っていた。
透真は凛空の身体を強く抱きしめる。
そして——。
「……くそっ……!」
言葉にならない声が喉から漏れた。
夜の湖畔に、暴走した言霊が迫り来る。
次の瞬間に選ぶ一手が、凛空の、生死を分ける。
透真は――。




