行先は
瑞穂の里を出てから、伊吹は馬の腹を蹴り続けていた。
乾いた土が後方へ飛び散り、馬の息は荒くなっている。それでも速度を落とす気にはなれなかった。
(瑞穂の次に狙われるとしたら、真澄か……俺のいる悠真だ。)
胸の奥が重い。
従者の楓へはすでに使い獣を飛ばし、言霊庫と長老の守りを最優先に固めるよう指示を出してある。
それでも不安は消えない。
(敵が「言霊」を暴走させれば、守りなど意味をなさない。)
伊吹は唇を噛んだ。
怒りではない。焦燥もあるが、それ以上に。
(……悠真の皆をしっかり守らなければ。)
馬を走らせる中、伊吹は瑞穂の光景を思い出す。
倒れた見張り、荒らされた言霊庫、結芽の震える肩。
あの光景を、もう二度と繰り返したくなかった。
やがて道沿いの小さな村が見えてきた。
伊吹は一度速度を落とし、村の入口にある古びた柵を押して中に入った。
「すまない、水と乾燥肉、それから馬の餌を少し分けてほしい!」
声をかけると、年配の農夫が驚きつつも近寄ってくる。
「急ぎかい? 顔色がただ事じゃない。」
「至急、里へ戻らねばならない。敵が近い可能性がある。」
「そ、そうか……!」
理解した農夫はすぐに家へ走り、保存食の包みを持って戻ってきた。
礼を言い、袋を受け取ったその時――。
ピュウ――。
鋭い風切り音が、肩口をかすめた。
伊吹は本能で剣の柄に手を伸ばした。
だが次の瞬間、小さな鳥が目の前の柵に軽やかに舞い降りた。
「……使い獣?」
鳥の足には細い紐で封書が結ばれていた。
見慣れた字体。
(遥花か。)
胸の奥へ熱が走った。
急ぎ封を切ると、茜を連れた兵を見失ったので、次へ向かう場所を指示してほしい旨が書いてあった。
悠真の守りは楓と兵が固めている。
真澄は透真が急行中。
(茜を連れた兵は、おそらく幽淵へ帰還を目指している。となると)
――篝火の里へ直接向かってほしい。
その一文を記し、使い獣の足へ封書をくくり頭を軽く撫でる。
「……任せたぞ。あとから必ず向かう。」
次の瞬間、伊吹は馬へ飛び乗り、強く手綱を引いた。
馬は土煙を上げながら、南へ向けて駆け出した。
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その頃。
「……見失いましたね。」
肩で息をしながら、奏多が呟いた。
細い木々の間を抜ける獣道。
さきほどまで確かに感じていた敵の気配は、霧のように消えていた。
だが、悠理はわずかも動揺していなかった。
「気にするな。今は先へ進むほうが早い。」
言うと、懐から紙を取り出し、素早く筆を走らせた。
その表情は冷静でありながら、どこか刺すような集中を帯びている。
「……これを。」
悠理が腕を上げると、木陰から黒い使い獣が舞い降りた。
慣れた手つきで封書を結ぶと、まるで空気に溶けるように飛び去っていく。
二人は日が沈むより早く悠真の里へ到達した。
門をくぐると、見張りの兵士たちが驚きから安堵へと表情を変える。
「綴る者様、よくぞご無事で……!」
駆け寄ってきた楓が深々と頭を下げた。
「状況を教えてくれ。」
悠理の声は低いが、焦りがわずかに滲んでいた。
楓は頷き、言霊庫の方を一瞥する。
「守りはすでに強化しております。見張りも倍に。
今のところ、敵襲の気配はありません。」
「そうか……よかった。」
悠理は胸の奥に溜まっていた息を静かに吐いた。
だが油断はできない。
(瑞穂の件もある。あいつがここを狙ってもおかしくない……。)
悠理は視線を巡らし、里全体の緊張を確かめた。
それは、嵐の前の静けさに似ていた。
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その頃。
悠真の里から北へ離れた山沿いの林道を、潜むように移動している者がいた。
烏丸――。
息を潜め、木々の影に紛れながら、じっと里の方角を見据えている。
「……厄介な。」
低く呟いた。
悠真の里の外周には、普段にはない数の松明が灯され、見張りも二倍へ増えている。
警戒の結界まで張られている。
(まるで、俺の来訪を知っていたかのような……。)
唇の端が嫌悪で歪む。
背にある傷がまだ疼いていた。
影風と違い、烏丸の負った傷は浅いとはいえ、動きにわずかな制限が残る。
この状態で正面から突っ込めば、確実に討たれる。
影風のように潜入はできなくもないが――。
(悠真は武の里。兵の質が違う。)
たとえ綴る者不在でも、奥へ侵入する前に感づかれる可能性が高い。
烏丸は短く息を吐き、木に背を預けた。
「……仕方ない。」
茜を篝火に運ぶ兵はすでに進んでいる。
影風も真澄へ向かっている。
ならば、自分が悠真に固執する必要はない。
(華灯……ここより守りは甘いだろう。綴る者もここから離れづらい。詞鏡を奪うには丁度いい。)
烏丸は即座に方向を転じる。
迷いはない。
ただ影のように、夜の道を滑り進んでいった。
その姿は、まるで闇そのものが動き出したかのようだった。




