帰還②
天響の里の奥、静かな通りに佇む一軒の家。その戸口の前で、遥花は足を止めた。胸の奥がざわめき、戸を開けるのが恐ろしいような、不思議な感覚に捕らわれる。
陽路がそっと声をかける。
「……ここが、遥花様のお家です。ご家族が、お待ちでしょう。」
遥花は小さく息を吐き、頷いて戸を開いた。
中から現れたのは、年を重ねても背筋の伸びた母と、穏やかな眼差しを湛えた父だった。母は遥花の姿を見た瞬間、手を口に当て、次の瞬間には駆け寄って抱きしめる。
「……遥花……本当に、遥花なの……!」
その声は震えていた。
父も目を潤ませながら頷く。
「夢ではないのだな……ようやく、帰ってきてくれたのだな。」
遥花は抱きしめられながらも、どう返せばいいか分からず、かすかに首を振った。
「……ごめんなさい。思い出せなくて……」
母は一瞬驚いたが、すぐにその背を撫でる。
「いいのよ。生きて帰ってきてくれた。それだけで……。」
その場の空気が落ち着いたころ、陽路が一歩進み出た。
「――恐れながら、少しお時間をいただけますか。お伝えせねばならぬことがございます。」
両親は神妙に頷き、囲炉裏端に移って腰を下ろす。陽路は正座し、淡々と、しかし確かな口調で話し始めた。
「本日、里の外で遥花様と再会いたしました。ですがその折、禍ツ者どもが不意に現れ、襲撃を仕掛けてきました。狙いは……遥花様そのものだったのか、それとも別の意図かは定かではありません。ですが、確かに言えるのは――この里にまで禍ツ者の手が迫っているということです。」
母が険しい表情を浮かべる。
「……遥花を、狙って……?」
「はい」
陽路は深く頷く。
「しかも、遥花様は長き異界での暮らしのためか、記憶を失っておられます。綴る者としての務めも、里のことも……ほとんど覚えてはおられません。」
父の眉が動き、苦渋の吐息が漏れる。
「……過酷な旅路を強いられたのだろうな。」
母は遥花の手を包み込み、揺れる瞳で陽路を見た。
「……記憶を失ったままでは、この子も心細いでしょう。陽路、貴方が傍についてくれているのなら……少しは安心できます。」
陽路は姿勢を正し、静かに言葉を返す。
「私はただの従者にすぎません。けれど、どのような状況であろうと――遥花様を守るのは私の務めです。例え今、綴る者として歩むことを思い出されていなくても……その傍に在りたい。それが、私の願いでもあります。」
遥花は驚きに目を見開いた。
(……私の傍に在りたい……?)
胸の奥が熱を帯び、言葉にならない思いが広がっていく。
父がその様子を見守りながら、深く息を吐いた。
「……陽路の言葉、ありがたく受け取ろう。だが、禍ツ者が里近くにまで迫った以上、私たちだけでは抱えきれぬ問題だ。長老方と協議を重ねる必要があるだろう。」
母も小さく頷き、遥花の肩を抱き寄せた。
「遥花、きっと大丈夫。貴女には、支えてくれる人がいるのだから」
そのとき、襖を開ける音が響いた。
現れたのは、少し年下の娘――茜だった。白衣に身を包み、真っ直ぐな眼差しで姉を見つめる。
「……お姉様。」
遥花は思わず立ち上がったが、どう声をかければいいか分からず、視線を逸らす。記憶がなく、妹の顔を覚えていない自分が、どう向き合えばよいのか――。
そんな遥花の戸惑いを察したのか、茜は静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ。……お話の内容を少し聞いてしまいました。記憶を失っている、それでも、こうしてまたお会いできただけで、私は嬉しいです。」
茜は一瞬言いよどみ、それから勇気を振り絞ったように陽路へ向き直る。
「ですが……この家で過ごすのは、今のお姉様には負担が大きいのではないでしょうか。記憶がない中で、家族として接しようとすれば……かえって混乱することもあるはずです。」
母が心配そうに茜を見た。
「茜……?」
「だから、しばらくは陽路のお宅でお世話になるほうがよいと思うのです。従者である陽路なら……お姉様を安心させることができるでしょうから。」
言葉は柔らかいが、その胸の奥に複雑な感情が渦巻いていることは、陽路にも伝わってきた。
――尊敬する姉が帰ってきた喜びと同時に、無意識の恐れ。
遥花は茜を見つめ、震える声で言った。
「……ありがとう。優しいのね。」
茜は小さく首を振り、淡く笑った。
「優しいのではありません。ただ……お姉様にとって一番よい形を考えただけです。」