夜明けの布陣
結芽が最初に里へ戻った。馬を降りるとすぐ、門番に息を切らして報せを伝え、導かれるままに足を運ぶ。夜の霧がまだ地面に残る中、天響の大路を進むと、遠くに立ち並ぶ家々の窓明かりが不安げに揺れている。
伊吹の元へ辿り着くと、彼は祀る者たち、祈る者たちと兵士に混じって地図を広げ、刻々と変わる状況を整理していた。結芽が飛び込むように息を整えて伝える。
「伊吹、幽淵の者、一人と接触しました。恭弥が追跡中です。」
伊吹の表情が、固く引き締まる。結芽は心配から声が震え、指にもわずかに力がこもっていた。
伊吹はすぐに声を掛け、詳細を尋ねた。
結芽は見たままを淡々と、しかし正確に話す。
聞き終えた伊吹は、淡く光る眼を結芽に向けた。
「わかった。ひとまず恭弥に任せよう。」
やがて透真、遥斗、千沙が息を切らせて戻ってきた。傷や煤の匂いを纏い、顔には戦いの緊張が残る。
彼らは山の嶺での幽淵の兵士達との戦闘を手短に報告する。
伊吹は立ち上がり、兵からの報告や陽路と悠理からの使い獣便を並べる。
二人が追った痕跡には別働隊が各道に配置されていたことが分かる。伊吹は淡々とだが重く言った。
「敵は複数ルートで動いている。どの道にも敵がいた。封言庫の襲撃、長老の殺害、そして詞鏡の大量持ち出し。狙いは明白だ。天響の中枢を破壊し、混乱に乗じて外へ持ち出す――或いは内部から先に弱らせる算段だろう。」
遥斗が拳を握りしめる。
「茜は――我が娘だ。ここで待っているわけにはいかん。追う!」
遥斗の声に、一瞬周囲がざわつく。だが伊吹は冷静に制した。
「遥斗。あなたの気持ちはわかる。だが今は優先順位がある。茜を取り戻すことは最優先だが、もしここで無秩序に動けば、敵の思う壺だ。遥花たちと篝火の者たち――彼らには追跡と救出を任せよう。お前はここで統率を。千沙と頼めるか。」
千沙は短く頷いた。表情は硬いが決意ははっきりしている。
透真が地図の中心に指を置いた。
「まず動くのは、近隣だ。瑞穂は天響に近く、綴る者が不在だ。
敵は大量の言霊をそこで発生させ、綴る者を引き付け、その混乱でさらに内部を突く可能性が高い。
真澄と悠真が同じ状況だ。そこへ我らは向かう必要があるだろう。」
結芽が息を整え、地図に視線を落とす。
「もし瑞穂で大量の言霊が発生すれば、封じるために多くの綴る者が引き付けられます。そこを狙って別の里に手を伸ばされれば、各里の防衛は破綻します。」
伊吹は深く頷き、提案する。「よし。透真、結芽、俺でまず瑞穂へ向かう。そこで情勢次第で真澄、悠真へ分かれる。兵は先に分散させて援軍へ出す。遥斗、千沙はここに残り、天響の統率をとってくれ。城門と言霊庫周辺の守りは厳しく。全員、詞鏡の点検を続けろ。」
遥斗はしばらく黙り、やがて深く息を吐いた。
「わかった。私にできることをする。」
透真が静かに付け加えた。「敵とは篝火で衝突を起こすだろうが、その前に内部を破壊する可能性がある。必ず篝火から久遠の外へ出るだろうから、篝火の監視も同時に必要だ。兵は分かれて動け。だが情報は必ず伊吹へ集めてくれ。」
兵たちは動き始める。
使い獣が次々と飛び立ち、各里へ文を運ぶ。
朝靄の中で、短時間にして天響は作戦網を展開していった。
結芽は小さく息を吸い、伊吹と透真の顔を交互に見た。
二人の眼に揺らぎはない。だが、結芽の胸の奥に走る不安は消えない。
「気を引き締めて。瑞穂で何が起きるか分からない。」
透真が囁くように言う。
「はい。」結芽は答え、馬へと跨がった。
伊吹は短く祈るように唇を噛み、兵たちを見送る。
天響の空に、使い獣の羽音が点々と消えていった。山々を駆ける報せは、やがて各里の門前で緊張に変わるだろう。そして、まだ見えぬ敵の手は、じりじりと久遠の内側へ侵食し続ける。彼らが次に何を仕掛けるのか、誰にも分からない。だが確かなのは、今や久遠の命運は複数の手に委ねられ、時間との競争になっているということだった。




