綻びの予兆
山道に、金属がぶつかり合う音が響き渡った。
火花が散り、刃の軌跡だけが光を放つ。
透真は息を詰め、相手の懐に踏み込む。
刃と刃が噛み合い、鈍い衝撃が腕に走った。
相手は二人、どちらも体格が大きく、慣れた手つきで刀を振るってくる。
幽淵の兵達はその動きには迷いがなかった。
「千沙、後ろを頼む!」
「分かった!」
千沙は刀を構え、背後から迫るもう一人の兵を迎え撃つ。
その刃は鋭いが、彼女の目は恐れよりも決意で満ちていた。
小柄な体を活かし、身をひるがえして敵の懐に潜り込む。
相手の腕を払うと同時に、脇腹へ一閃。
呻き声とともに、敵の体がよろめいた。
「――っ!」
遥斗が槍を振るい、透真と千沙の間に割り込もうとした兵を一撃で弾き飛ばす。
地面に叩きつけられた兵が息を詰まらせ、土を巻き上げた。
「数が多い、包囲される前に減らすぞ!」
透真の声が鋭く響く。
彼は構え直し、相手の一瞬の隙を突いた。
踏み込み、下段からの切り上げ。
相手の剣を払い、体を軸に回転して首筋を狙う。
金属音が短く鳴り、次の瞬間、透真の刀が相手の防御を切り裂いた。
黒い装束の男が後ろに倒れ、地面を転がる。
血の匂いが風に混じった。
「あと二人!」
千沙の声に、透真が頷く。
その横で、遥斗は敵の剣を受け止めながら低く唸った。
「……くそ、若いが手練れだな。」
槍を横に払って距離を取り、再び突き出す。
相手の動きを見切り、肩口に一撃を叩き込む。
鉄の音と共に、相手が呻き声を上げて膝をついた。
「千沙、下がれ!」
透真が叫ぶ。
彼女は瞬時に身を翻し、敵の剣閃を紙一重で避けた。
透真の刀がその隙を狙い、斜めに走る。
最後の一人が喉を押さえて崩れ落ちた。
辺りに静寂が戻る。
荒い息の音だけが響く。
「……終わったな。」
透真が刀を軽く振り、血を払った。
千沙は肩で息をしながら、倒れた兵を見下ろす。
「この中に、長老を殺した者がいるのかしら。」
遥斗が槍を杖のように突き立て、低く呟いた。
「封言庫に忍び込むほどの力量ではない。他の道にいるかもしれん。」
透真は沈黙のまま空を見上げる。
その横顔は、冷たくもどこか悲しげだった。
同じ頃、別の山道。
恭弥と結芽は馬を並べて進んでいた。
「……里まで、あと少しね。」
結芽の声は静かだったが、どこか不安を含んでいた。
「そうだな。」
恭弥は手綱を軽く引き、彼女を横目で見る。
夜風が結芽の髪を揺らしていた。
「……さっきのこと、気にしてるか?」
「……うん。長老様のことも、茜のことも。」
結芽は唇を噛んだ。
「まるで、久遠の秩序が少しずつ崩れていくみたいで。」
恭弥は小さく息を吐き、言葉を選ぶように答えた。
「崩れかけてるからこそ、俺たちがいるんだろう。」
その声には、迷いのない強さがあった。
結芽は少しだけ顔を上げ、微笑を浮かべた。
「……相変わらずね。そういうところ、変わらない。」
「何がだ?」
「何でも一人で背負い込もうとするところ。」
結芽は小さく笑いながら、手綱を少し緩めた。
「子供の頃からそうだった。私が泣いても、あなたは絶対に泣かなかった。」
「泣いてもどうにもならなかったからな。」
「でも……そういうあなたが、私は好きよ。」
恭弥の手がわずかに止まる。
時間が静かに流れた。
しばし、馬の蹄の音だけが響く。
「結芽。」
「……なに?」
「俺たちは里に決められた許嫁だ。無理しなくていい。」
その言葉に、結芽の目が見開かれた。
「今、そんなこと言うなんて……。」
「今だから言うんだ。」
恭弥は前を向いたまま、わずかに笑う。
「自分の気持ちに素直になっていいんだ。」
結芽は目を伏せ、微かに震える声で答えた。
「……そんなの、ずるいわ。私は本当に恭弥のこと…」
恭弥が何か言おうとした、その瞬間。
前方の茂みがざわりと揺れた。
空気が変わる。
「……結芽、下がれ。」
恭弥の声が一気に鋭くなる。
次の瞬間、黒い影が木々の間から飛び出した。
風を切り裂く刃。
恭弥は反射的に刀を抜き、受け止める。
金属音が響く。
影の男が唸り声を上げて後退した。
その装束――幽淵の兵。
「なぜここに……。」
影の男が低く呟く。
敵は一人。だが、動きに迷いがない。
まるで時間を稼ぐように、里とは逆方向へ走り出した。
「待て!」
恭弥が追おうとする。
だが、後ろで馬を止めた結芽の顔が不安に揺れていた。
「恭弥、危ない! 一人で行く気なの!?」
「ここに一人しかいないってことは――他の道、あるいは里に、まだ敵が潜んでいる可能性が高い。」
恭弥は素早く状況を判断し、振り返った。
「ここは俺が追う。お前は天響を守れ。」
「でも――!」
「結芽!」
鋭い声が闇を裂く。
「お前が守らなきゃ、誰が守る!」
結芽は唇を震わせた。
彼の瞳は、戦場で鍛えられた者のそれ。
命を懸ける覚悟を湛えていた。
「……必ず、戻ってきて。」
恭弥はそれに答えることなく、馬を返した。
影のように夜の闇へと消えていく。
残された結芽は、その背中を見つめながら呟いた。
「……帰らなかったら許さないから。」
その声はかすかに震えていたが、
風が吹き抜けるたび、彼女の瞳は強さを取り戻していった。
久遠の運命が静かに揺らぎ始めていた。




