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和風異世界物語~綴り歌~  作者: ここば


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失われた詞鏡

「樹、今のうちに長老のもとへ報告を頼む。」


伊吹の低く張った声が響く。

天響を包む空気は、不安に満ちていた。

風がざわめき、里の者たちの胸に重く圧し掛かっている。


「承知しました。」


短く頷いた樹は、すぐさま駆け出した。

石畳を踏みしめる音が、妙に響く。

長老の屋敷へと続く回廊は、どこか冷たく、静かだった。


途中、ふと目に入った脇道の扉。

そこは、厳重に保管された言霊たちを封じる倉庫の入口。

普通の者は存在すら知らない、選ばれし者のみが足を踏み入れる場所。


扉の前に、茜が立っていた。


「……茜殿?」


一瞬、息を飲む。

何かを袖の中に隠すような仕草に見える。

その表情は、いつもの穏やかさとは違う。

まるで、心ここにあらずといった風だった。


「……どうかされましたか?」


問いかけようとした瞬間、茜はこちらに気づかず通り過ぎていった。

彼女を追いかけるか悩んだが、今は時間がない。

樹は胸のざらつきを押し込め、足を早めた。


やがて、長老の部屋の前へ辿り着く。

襖の前に立ち、深く息を吸い込む。


「失礼します。樹です。報告がございます。」


……返事がない。

普段ならすぐに聞こえる、穏やかな声が、ない。

胸の奥がざわめく。


「長老? お加減でも――」


その時だった。

ドンッ!

部屋の中から、何か大きなものが倒れる音。


「っ!?」


反射的に襖を開ける。

鼻を突く鉄の匂い。

視界に飛び込んできたのは、血の海に倒れる長老の姿だった。


「……長老っ!!」


駆け寄ろうとした瞬間、何かが動いた。

奥の影が、わずかに揺れる。


その瞬間、目が合った。


血飛沫を浴びた黒装束。

その瞳だけが、異様に静かで、冷たい。


「貴様……っ!」


叫ぶ間もなく、相手は身を翻し、窓から外へと跳び出した。

木枠が軋み、夜風が一気に吹き込む。


樹は長老の元に駆け寄る。

震える手でその身体を抱き上げたが、返る声はない。


長老の唇が、微かに動いた。

何かを言おうとしている。

耳を近づけると、血で滲んだ声が、かすかに響いた。


「……“生きて……いた”……」


その言葉を最後に、長老の瞼が静かに閉じた。


血の匂いが、部屋に濃く漂う。

樹は蒼ざめた顔で、息を荒げながら廊下に叫んだ。


「誰か!伊吹様を呼んでくれっ……!誰かー!伊吹殿を!」


その声に、近くで警備をしていた者反応した。

やがて遠くから足音が駆け寄ってくる。伊吹が息を切らして現れた。

血相を変えて叫んでいる樹の声にただならぬものを感じ、すぐに襖を開ける。


「どうした、樹!」


「長老が……! 部屋で、血だらけで……倒れて……! それに、曲者が逃げていきました。私、入った瞬間に目が合って……!」


樹の声は震えていた。樹が抱えている長老を見て、伊吹の表情が一瞬で険しくなる。

長老の部屋はこの本殿の最奥、誰も易々とは近づけないはずだ。

内部にまで敵が入り込んだというのか。


「内部に……幽淵の者が?」


伊吹の低い声が、まるで刃のように張り詰める。

その場の空気が一変し、周囲の者たちが息を呑む。

久遠の内部。最も聖域とされるこの地にまで、手が及んだのか。


「樹、見たものをすべて話せ。どんな些細なことでもいい。何でもだ。」


促され、樹は一度唇を噛んでから言った。

「気のせいかもしれませんが……長老の元へ行く途中で、茜殿を見かけました。……あの、封言庫の前で。」


その名が出た瞬間、伊吹の目が大きく見開かれた。

「封言庫に、茜が?」


あそこは、選ばれたごく一部の者しか存在を知らない。

樹が見間違えるはずもない。茜がそこにいた、それは偶然では済まされない。


「……まさか。」


伊吹は立ち上がるや否や、封言庫へ向かって走り出した。

廊下を駆け抜ける足音が石壁に反響する。


「なぜ開いている!」

伊吹の声が響く。

扉の前には封印の印があったはずだ。だが今は、その護符が引き裂かれ、散らばっている。

扉を押し開けると、冷たい空気が流れ出た。


封言庫の中に入ると、長老直属の見張りの二人が気を失い倒れていた。

少し進むと、無数の詞鏡が並ぶはずの棚があった。

だがそこにあるべきものが、ない。

いくつかの棚はもぬけの殻。

持ち運びそこねたであろう詞鏡が、床に散らばっていた。


伊吹はその場に膝をつき、奥歯を噛みしめる。

「……やられた。くそっ!」


声が震えた。

巨大な言霊を封じた詞鏡が数十を超える数、跡形もなく消えている。


茜。


脳裏に浮かぶその名を振り払うように、伊吹は立ち上がった。

封言庫を出て、祀る者たちの部屋へ駆ける。


扉を開け放つと、数人の祀る者たちが驚いて顔を上げた。

伊吹の目は緊張と焦燥に満ちていた。


「茜はどこだ。誰か、茜を見た者はいないか!」


ざわめきが走る。だが誰も答えない。

一人が恐る恐る言った。

「夕刻までは祈祷殿に……ですが、その後の所在は……」


「行方が分からない、と?」


全員が黙り込む。

伊吹は唇を噛みしめ、拳を握りしめた。

「……裏切りか、あるいは操られたか。どちらにせよ、ただ事ではない。」


彼はすぐに決断した。

使いの者を呼びつけ、次々と指示を飛ばす。


「お前は天響の門へ走れ。茜が外へ出ていないか確認しろ。どんな手を使っても構わん、確かめろ。

他の者は山の綴る者たちへ使い獣を飛ばせ。長老の死と茜の件、封言庫の襲撃を簡潔に伝えろ。」


指示を受けた者たちが動き出す。

使い獣が鳴き声を上げ、光の尾を残して飛び立っていく。

それを見送りながら、伊吹は低く呟いた。


「……久遠から外へ抜ける道は一つ。篝火を経る以外にない。篝火の長へ伝えろ。

『外へ出すな。誰一人として』と。」


天響が襲撃された今、この中の誰が敵で、誰が味方かすら分からない。

裏切りの影は、もうすぐそこまで迫っていた。


伊吹は、胸の奥で微かに震える気配を感じた。

封じられていたものが、呼吸を始めている。

それは、里の空気そのものをわずかに震わせるような、得体の知れないざわめきだった。


「封じが解けた言霊がいる!」


伊吹は振り返り、祀る者たちに鋭く命じた。

「今夜は誰も眠るな。詞鏡の点検を全員で行え。何が起きても、驚くな。」


彼の瞳に宿るのは、怒りでも恐怖でもない。

ただ一つの決意——「久遠を守る」その意思だけだった。


そして、封言庫の奥。

静まり返った闇の中、誰もいないはずの棚の陰で、ひとつの詞鏡がひび割れ、淡く光を放った。

それは、まるで外へ出ようとするかのように震えていた。


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