静寂に脈打つもの
天響の里に夜が訪れようとしていた。
薄青の霧が山肌を這い、灯籠の光が静かに揺れている。
祭殿の奥、長老の間には、ひとりの老翁が腰を下ろしていた。
長老・巌は、静かに焚かれた香の煙を見つめていたが、
青い光を帯びた小鳥が舞い込み、空気を震わせた瞬間、
その瞳がわずかに鋭くなった。
鳥が羽を広げ、翔綺の声が空気に溶ける。
『幽淵の者、天響へ向かう気配あり。四人のうち二人始末済み。警戒を。』
その言葉を聞き終えるや否や、巌は低く呟いた。
「……来おったか。」
すぐに控えていた側仕えが頭を下げる。
「長老、恭弥様をお呼びいたしますか?」
「うむ、急げ。綴る者として、あやつの目が必要だ。」
側仕えが走り去る。
やがて廊下の向こうから足音が近づき、ひとりの青年が現れた。
白衣に黒の帯を締め、背筋を伸ばした青年――天響の代理綴る者、恭弥である。
「お呼びとのこと、長老。」
「翔綺殿より使い獣が届いた。蒼篠にて、幽淵の者らしき一団を確認したとの報せじゃ。」
恭弥は小さく目を細め、顎に手を当てる。
「……蒼篠に、ですか。」
「うむ。天響へ向かっておる可能性が高いと。」
沈黙が落ちた。
火鉢の中の炭がぱち、と小さく爆ぜる。
恭弥は目を閉じ、思考を巡らせた。
「──篝火の件と、繋がりますね。」
「篝火?」
「はい。最近篝火の里へ幽淵侵入が多発していると聞きます。
ただ、その動きがあまりにも粗雑だった。罠を仕掛けるには露骨すぎるほどに。」
長老が静かに息を吸う。
「つまり……あれは陽動というわけか。」
「はい。篝火での混乱を利用し、蒼篠経由で“本命”を送り込むつもりだったのでしょう。
天響は、封印のされた詞鏡が一番多いです。狙うならここしかない。」
その言葉に、長老は頷き、すぐさま従者を呼びつけた。
「兵を集めよ。守りを倍にせよ。特に北側の山道だ。
それと、近隣の里と悠真へ援軍を要請せい。」
「はっ。」
側仕えたちが駆け出していく。
慌ただしい足音が石畳を渡り、遠くの太鼓の合図が鳴り響いた。
恭弥はその様子を見送り、深く息を吐く。
「……間に合えばいいが。」
長老が彼を見据えた。
「恭弥。おぬしは皆が動揺せぬよう、綴る者として皆を導け。」
「承知しました。……必ず守ります。」
そのときだった。
外から慌てた足音が響き、若い兵士が戸を開け放った。
「長老! 山の方から、異常な反応が!」
「異常?」
「多数の言霊が出現しています! 形は定まらず、暴れて……被害が!」
長老の表情が一瞬で変わる。
「言霊が……? なぜ今!」
恭弥がすぐに立ち上がった。
「報告を。」
「谷の中腹です。自然に発生したとは考えられない数か暴れ出したようで、発見しただけで十はあると。」
「……罠の可能性もあるな。」
恭弥は低く呟き、すぐに指示を出した。
「使い獣で綴る者達へ伝達しろ。私はすぐ現場へ行く。
ただし、天響の本殿の守りを減らすわけにはいかない。
従者の雫を残す。そちらの指揮を任せる。」
「承知しました。」
長老が声をかける。
「恭弥、行くのならば遥斗にも伝え、彼と力を合わせよ。」
「……はい。」
恭弥が踵を返した瞬間、廊下の向こうからひとりの男が現れた。
遙花の父──遥斗である。
「聞こえた。俺も行く。」
「遥斗さん……!」
「仮にも俺も前任の綴る者だ。多少は役立つ。この里が乱れれば、他の地にも影響が出る。」
恭弥は頷く。
「では、私と共に現場へ。雫は天響を頼む。」
雫が一歩前に出て頭を下げる。
「かしこまりました。里のことははお任せを。」
「それと──」
恭弥はふと振り返った。
「陽路の母、千沙を呼べ。彼女にはかつて遥花の従者として封印補助に当たってもらっていた。言霊の数が多い今回、彼女の力が必要だ。」
「了解しました!」
数刻後。
恭弥、遥斗、そして千沙は山道を駆けていた。
空は群青に染まり、谷の奥でうねるような声が響いている。
「……、ここか。」
刀を静かに抜く音がした。恭弥の銀白の髪が夜気に揺れ、細縁の眼鏡に月明かりが反射する。
無駄のない動き。呼吸も、気配も、すでに戦闘のそれだった。
「……言霊の気配は、十を超えるな。」
恭弥の低い声が夜を裂く。
遥斗は頷くと、槍の柄を軽く一度叩いた。
鋭い金属音が空気を震わせ、その音に反応するように、木立の影から“それ”らが姿を現す。
揺らめくような黒煙。人の形をとりながらも、輪郭が定まらない。
目だけが闇の中でぼうっと光り、呻くような声を上げる。
千沙が顔をしかめる。
「……これは、天響の言霊じゃない。誰かが意図的に封を破っている可能性が。」
「幽淵の者が?」
「断言はできませんが……何か異様に感じます。」
遥斗が槍を握りしめ、前方を見据える。
「……やはり狙いは天響の混乱か。」
山の斜面を登りきると、そこには光が乱れ渦巻く異様な光景が広がっていた。
十数体もの言霊が地表を這い、樹々を薙ぎ倒しながら暴れ回っている。
光は時折、形を持ったかと思えば崩れ、呻くような声をあげた。
恭弥が短く息を呑む。
「……これはひどい。」
遥斗が懐から封印札を取り出す。
「俺が右へ出る。恭弥は左を。」
「了解。」
遥斗は右へ踏み出す。
地を蹴った瞬間、彼の身体が風を切る。
槍の穂先が円を描くように旋回し、最前の言霊を裂いた。
黒煙が飛び散るが、倒れはしない。裂けた箇所から再び滲むように形を戻していく。
遥斗は槍を地に叩きつけ、手に持った詞鏡を向け、重い声で唱える。
「──“沈め、響きの影”!」
詞鏡が光を放ち、暴走する言霊の一部を飲み込んでいく。
だが、数が多すぎる。地鳴りのような唸りが、山を震わせた。
千沙が背で守りを展開し、恭弥の前へ出る。
「恭弥様、下がって!」
「いや、ここは私も封じる。」
彼は袖口から詞鏡を取り出し、指先で結ぶように動かした。
空気が震え、淡い光の鎖が現れる。
「“封ぜよ”」
鎖が音もなく広がり、言霊の群れを縛るように張り巡らされる。
しかし、暴走する別の言霊のひとつが爆ぜ、千沙の腕をかすめた。
「くっ……!」
「無理をするな!」
恭弥が駆け寄り、彼女の肩を支える。
「大丈夫……これくらい、昔を思い出すだけです。」
遥斗が封印を重ねながら叫んだ。
「恭弥、言霊同士が呼応してる!時間はかかるが、ひとつずつやらないと終わらない!」
「わかりました。」
恭弥が静かに告げ、足元の石を踏みしめた。
彼の刀が、夜気を切り裂くように音を立てる。淡く光を帯びた刃がひと閃。
動作は控えめなのに、空気が圧し潰されるように張り詰める。
その刃が通り過ぎた後、ひとつの言霊の輪郭が一瞬だけ乱れ、煙が裂けた。
と同時に、遥斗がその中心に立ち、槍を突き立てた。
槍が地を貫き、青い火花が弾ける。
「封ぜよ!」
激しい閃光。
一瞬、全ての音が消えた。
風も、声も、ただ光だけがあった。
やがて静寂が戻る。
荒れた山肌に、まだ白煙が漂っている。
千沙が膝をつき、安堵の息を漏らした。
「……封じましたね。」
「やっと一つだ。」
恭弥が顔を上げる。
「これだけの数だと、どれくらい時間がかかるか。」
夜風が、静かに三人の間を抜けていく。
多数の言霊が三人の前で、再び不穏に脈打っていた。




