山に潜むもの
蒼篠の里には、今日も鉄を打つ音が響いていた。
山の清らかな空気を震わせるように、金槌の音が一定のリズムで鳴る。
篠音と祖父の鋼志は、夜明け前から鍛冶場にこもり、陽路の刀を打ち続けている。
陽路はその姿を離れた場所から見つめていた。
火花の中に浮かぶ二人の背中は、まるで炎に溶ける影のように揺れている。
「……もう少しだ」と、鋼志が呟いた声を、風がさらっていった。
蒼篠の里では武器や農工具、日常の道具などが打たれている。
蒼篠の里を訪れる者は皆、何らかの目的を持つ。
観光客など来るはずもない。
だからこそ、その噂はすぐに広まった。
このところ、里の外れで“知らぬ人影”がよく見かけられる、と。
最初にそれを口にしたのは、山菜採りの老婦だった。
「誰かが木立の間を歩いておった。荷を背負い、東の尾根のほうへ。」
その話がすぐに長老のもとへ届けられた。
長老は深く眉を寄せた。
「この里は道も少ない。わざわざ迷い込む者などおらぬ。何かある。」
そして綴る者、翔綺に、外周の見回りを命じた。
「俺も行きます。」
陽路は迷いなく言った。
刀が仕上がるまでの時間、じっと待っていることがどうにもできなかった。
篠音たちに任せるとは決めていても、何か動いていたかったのだ。
「一人で十分だよ。刀の完成近いだろ?」
翔綺は一度制したが、陽路の目を見てすぐにため息をついた。
「……わかった。ただし、勝手なことはするなよなー。」
こうして二人は、翌朝から里の外縁を巡ることになった。
翔綺の従者・沙苑は、もしもの時に備えて里に残り、守りの要を担うため外のことは翔綺たちに託された。
陽路は腰に借り物の刀を携え、山道を翔綺と並んで進んだ。
木漏れ日の間を渡る風が冷たく、鳥の声さえもどこか遠い。
「足跡がある。」
翔綺が立ち止まり、地面をかがんで見つめた。
湿った土の上に、大小さまざまな足跡が交錯している。
その数は二、三ではない。十を超える。
「ここ一週間ほどのものだな。」
陽路も土を指先でなぞりながら言った。
「複数人が、里近くへも向かっている。……意図的に隠そうとしているが、慣れてはいない。」
陽路は周囲を見回す。
木々の葉が擦れる音の奥に、確かに人の気配の残り香があった。
「ただの旅人、じゃないですよね。」
「この里を通る旅人などいない。ましてこの道は獣しか知らないよ。」
二人は痕跡を追って、さらに山を登った。
陽路の胸には、かすかな緊張とともに、言いようのないざわめきがあった。
まるで、何かが――この静かな土地の下で蠢き始めているような。
そして森を抜けた先、岩肌がせり出す谷の奥に、それを見つけた。
小さな洞窟。
入口には焚き火の跡。
黒ずんだ灰の表面には、まだ熱がわずかに残っていた。
翔綺はしゃがみ込み、指先で灰をつまむ。
「……火を消して、半刻も経っていないな。」
「つまり、まだ近くに。」
「いる、可能性が高い。」
二人は目を合わせた。
翔綺の表情には警戒が浮かび、陽路の手は自然と刀の柄に伸びた。
「人数は多い。おそらく十名以上。」
「それだけの人が、この里の近くに?」
「目的がわからん。だが、放っておけない。」
翔綺は立ち上がり、洞窟の奥へと視線を向ける。
陽路もその隣に並ぶ。
焚き火の煙がまだ細く漂っており、誰かが立ち去ったばかりであることを示していた。
「この足跡を辿る。まだ遠くへは行っていないはずだ。」
「はい。」
森を渡る風が、ふたりの髪を揺らした。
陽路は胸の奥に広がる不安を押し込み、翔綺の背を追って踏み出す。
静かな山の中。
虫の声も途絶えたその空気の中で、二人の足音だけが響いていった。
何かが、確かに動き出している。
陽路はそう感じていた。
それが敵意なのか、あるいは別の意思なのか、まだわからない。
けれど、蒼篠の里に流れる風は、確かに少しずつ変わり始めていた。




