密かな動き
朝の光が、障子越しにやわらかく差し込んでいた。
遥花はまぶしさに目を細め、ゆっくりと身体を起こす。
昨夜の疲れが完全に抜けたわけではないが、心の奥の重しが少しだけ軽くなっていた。
机の上には、透真が用意した茶が湯気を立てていた。
香ばしい薬草の香りが、静かな朝の空気に溶けていく。
ふと、部屋の隅に視線を向けると、悠理の羽織が置かれていた。
どうやら夜通し見張っていたらしい。
遥花はそっと唇を結ぶ。
あの夜の言葉「俺はいつでも遥花の味方だ」が胸の奥で何度も反響していた。
それが温かくもあり、少しだけ怖くもあった。
外から、里の人々の声が聞こえる。
普段と変わらぬ日常の音。
それがどこか遠く感じられた。
あの影風の存在が、現実から切り離せない影のように頭の片隅に残っている。
「……また、会うのかな。」
自分でも聞き取れないほどの小さな声でつぶやく。
答える者はいない。
だが頭の中で、あの時の影風との場面がふっと浮かんで消えた。
場面は変わり、同じ朝。
悠理は里の見回りから戻り、浄霊の間の外で透真と再び顔を合わせていた。
「先程、様子を見に行ったのですが、遥花はもう少しで動けるようになりますよ。だいぶ顔色も良くなりました。」
「そうか。」
悠理は短く返すが、その声音にはどこか安堵が混じっていた。
透真はその様子を静かに見守る。
「……まだ、気にしているんですね。昨日のこと。」
「……遥花は、何かを隠している。」
悠理は小さく息を吐く。
「ただ、それを無理に聞き出すのは違う気がしてな。」
透真は微笑みながら首を振る。
「それでいいんです。まだ遥花は記憶も戻っていないのです。きっと、自然に溶け出す時が来る。」
悠理は一瞬だけ透真を見る。
その穏やかな瞳の奥に、深い信頼があった。
「……お前は、本当に何でも見透かすな。」
「長く人を見ていると、分かるんですよ。」
透真はそう言って、朝の光を仰いだ。
「それに、あなたもまた“誰かに見守られる側”なんですから。」
悠理は苦笑し、視線を逸らした。
一方その頃――。
天響の里に近い山の奥、湿った岩肌の洞窟。
その奥深く、微かな灯がゆらめいている。
影風と烏丸、そしてぞくぞくと幽淵の者が集まっていた。
烏丸が火打石を鳴らしながらぼやく。
「……にしても、あの言霊、封じられたのか。」
「悠理が封じた。」
影風が低く答える。
「やはり外に行くだけあって実力者だな。」
集まってきた一人が口を開いた。
「その男も自由に動かれると厄介だな。対策を考えるべきだ。
女の方も何か考えるか?」
「いや。」
影風の声がわずかに震える。
「……彼女は久遠に洗脳されているだけだ。」
烏丸が怪訝な顔を向ける。
「洗脳?」
影風は答えず、ただ静かに立ち上がった。
洞窟の奥へ進むと、そこには複数の詞鏡が闇の中で淡く光っている。
ひとつひとつが、封じられた言霊。
「……間もなく、“封”が揺らぐ。」
影風の声が、薄暗い空間に落ちていく。
「次は、こちらが動く番だ。」
烏丸はニヤリと笑い、懐から黒い羽を取り出した。
それが光に反射して、一瞬だけ銀のように輝く。
「いいぜ。じゃあ始めようか。」
洞窟の炎がぼうっと揺れ、三つの影が重なり合って消えていった。




