灯のように
まぶたの裏に残る光が消える。
遥花が目を覚ますと、そこは宿の一室だった。布団の感触が、まだ現実を掴み切れない身体を優しく包む。
隣には悠理が座っており、心配そうに覗き込んでいた。
「……大丈夫か?」
声をかけられ、遥花はかすかにうなずいた。
少し首を傾けただけで、体が重い。あの出来事が夢ではないと知る。
奏多が「薬師を呼んでくる」と言い残し、部屋を出ていく。
まもなく現れた薬師によると、心身ともに強い疲労が溜まっているため、しばらく休養が必要だということだった。
簡単な話ならできると告げられ、悠理と奏多、それに透真が集まった。
何があったのかと問われ、遥花はしばらく言葉を探してから、小さく口を開く。
「……涼くんを見つけて、近づいたら……言霊に飲み込まれたの。それだけ。」
影風のことは、言えなかった。
言葉にすれば何かが崩れてしまう気がして、唇はそれ以上動かなかった。
療養を優先しようということで、皆が部屋を出ていく。
その背に向かって、遥花は「悠理」と呼び止めた。
「これ……早く清めた方がいいよね。」
彼女は、外から来た言霊を封じた詞鏡を差し出した。
悠理は黙って受け取り、しばらくその鏡を見つめていた。
「……何があったか、言いたくなければそれでいい。
だが俺は、いつでも遥花の味方だ。」
その言葉に、遥花はハッと顔を上げた。
悠理の瞳は、真っ直ぐだった。
言葉を返そうとしたが、喉が詰まって声にならない。
悠理は静かに微笑み、部屋を出ていった。
廊下を歩きながら、小さく呟く。
「……陽路になら、話したんだろうな。」
その声は、遥花の耳には届かなかった。
宿の外では虫の音がかすかに響いていた。
悠理は、遥花から預かった詞鏡を懐にしまい、静かに廊下を渡る。
彼の手には、華灯の里で封じた一つと、篝火の里で三人が封じた三つの詞鏡、そして遥花と涼を閉じ込められたあの言霊の詞鏡が集まっていた。
向かった先は、言霊の社の奥、「浄霊の間」。
そこはこの里でも限られた者しか立ち入れぬ清めの場で、清水が絶えず流れる石床の中央に、円環状の文様が刻まれている。
その文様には古より続く「詞封」の印が連なり、清めの儀を行うことで、言霊の穢れを浄化し、封印を安定させる役割を持っていた。
中にはすでに透真が待っていた。
彼は淡い光を放つ霊灯を手に、穏やかに微笑む。
「お疲れ様、準備はいいですか?」
「あぁ。」
悠理は懐から数枚の詞鏡を取り出す。
透真はその中の一枚を手に取り、光に透かして覗き込んだ。
「外の言葉は、天響の詞鏡にはどうしても封じが甘くなります。天響の詞鏡は天響の言葉に合わせて作られているので。」
そう呟くと、透真は静かに詞鏡を祭壇の中央に置き、両手を合わせた。
床に刻まれた文様が淡く光を帯び、清水の流れが波紋のように広がっていく。
彼の口から、古の詠がこぼれた。
澄んだ声が響く。
「帰るべきは声の原。
迷いの霧よ、風に還れ。
言の葉、清めの調べとなれ——。」
詠が終わると同時に、詞鏡に霧のような光が立ち昇り、透真の指先で光の粒となって消えていった。
それはまるで、夜空に瞬く星が流れ落ちるようだった。
清めを終えた透真は、静かに息を吐き、祭壇から離れる。
「……やっぱり外の詞鏡は不安定でしたね。
ですが、これで大分封じが強くなったと思います。
あとは遥花の体調がよくなるだけですね。」
悠理は黙ったまま、祭壇に残る詞鏡を見つめていた。
その横顔を見て、透真は柔らかく微笑む。
「悠理、あなたも少し休みなさい。
遥花のことを気にしているのは分かります。
ですが……あなたもあの子も、似た者同士ですね。」
「……似た者?」
「人の痛みに敏い。
誰かのために動くが、自分の傷を癒やすことを忘れてしまう。
だからこそ互いに支え合える、そういう関係に自然となるんでしょうね。」
悠理は目を伏せ、微かに唇を動かした。
透真の声には、温もりと包容力があった。
彼の言葉は咎めではなく、ただそっと寄り添うように響く。
「……俺は、支えになれているのだろうか。」
透真は答えず、ただ穏やかに微笑んだ。
その笑みが、何よりの答えだった。
清めの間の灯が、二人の影を柔らかく照らしていた。




