揺らぐ信
「……っ、ここは……?」
遥花は息を呑み、立ち止まった。
涼の姿はそのままだ。
けれど彼の背後から黒い人影が現れた。
長い黒髪が波のように揺れ、闇を纏う衣が静かに靡いている。
涼のすぐ後ろで、その男は穏やかな笑みを浮かべていた。
遥花は思わず一歩引いた。
心臓が強く打つ。
ただの幻ではない。確かな存在感。
この空間の中心に、男がいる。
「……あなたは、誰?」
遥花の声はかすかに震えていた。
男はゆっくりと手を挙げ、敵意がないことを示すように、静かに微笑んだ。
「お約束通り来てくださってありがとうございます。」
その声は低く、穏やかで、どこか悲しみを含んでいた。
「私は、今の名を“影風”と申します。」
「影風……?」
遥花が警戒を解かずに問い返すと、男は歩を進める。
一歩ごとに、彼の姿がよりはっきりと輪郭を持っていく。
黒い衣の下に、淡い灰の鎧のようなものが見えた。
そして、その腰には何かを封じたような護符が幾重にも巻かれている。
「どうしても、遥花様と二人きりでお話したく……少々、強引な方法を取ってしまいました。申し訳ありません。」
頭を下げる仕草は丁寧で、どこか誠実にすら見える。
だが、遥花の警戒心は緩まなかった。
「……どういう意味? あなたがこの空間を作ったの?」
影風は静かに頷く。
「ええ。外の世界には影響を与えておりません。あなたと私、そして……あの子だけが、この中にいます。」
涼は依然として木の根元で座っていた。
目を閉じているが、苦しそうな様子はない。
眠っているようにも見えた。
「安心してください。彼には傷一つつけておりません。
ただ――人質という形を取らねば、あなたは来てくださらなかったでしょう?」
影風の言葉に、遥花は奥歯を噛み締めた。
その通りだった。
けれど、そんなやり方をしてまで自分に何の用があるというのか。
「……何を話したいの。」
男は、ふっと表情を和らげた。
その瞳は深い夜の色をしていて、どこか哀しげだった。
「遥花様、久遠の者を信じすぎてはいけません。」
その声には、低く冷えた響きがあった。
暗闇の中、影風と名乗った男が静かに一歩、近づく。
「……なぜ? みんないい人たちよ。記憶のない私にも親切にしてくれて、受け入れてくれている。」
遥花は警戒しながらも、疑念を抑えきれずに問い返した。
影風はしばし黙し、やがて細く息を吐いた。
「その問いに答えるためには、少々昔話に付き合っていただかなければなりません。」
彼はゆっくりと目を閉じ、記憶の底から言葉を掬うように語り出した。
「私はかつて、久遠の宵隠れに所属しておりました。
主な任務は、情報収集と暗殺。
しかも我らの存在はごく一部にしか知られてはならぬ。ヘマをすれば、自害か、あるいは殺害。
そんな世界で生きてまいりました。」
闇の中、影風の指が微かに震えた。
その影が地面に揺らめく。
「ところがある日、とうとう私はヘマをしたのです。
密偵として潜り込んでいた先で、身元が露見しました。命からがら逃げる途中、追手は執念深く、逃げ場もない。
殺される、そう覚悟した時、あなたが現れたのです。」
「私が……?」
影風は頷いた。
「ええ。遥花様は、その場に偶然居合わせた。
本来の宵隠れの掟に従えば、情報漏洩を防ぐために、見捨てるか、先に斬るのが常。
ですが、あなたは違った。
私を庇い、追手に立ち向かい、そして共にその場を制した。」
彼の声はどこか懐かしさを帯びていた。
「あなたは私を久遠へ連れ戻し、報告書には“任務中に同行者を救助した”と記した。
その時、私は誓ったのです。この命は、あなたのために使うと。」
暗闇が少し揺れ、冷たい風が通り抜けた。
影風はそのまま続けた。
「そして運命のあの日。
あなたが“神隠しにあった”と聞いた時、私は絶望しました。
全力で探しましたし、あらゆる情報を集めました。
ですが。久遠の長老共は、たった一週間で捜索を打ち切ったのです。」
遥花の目が見開かれる。
「え……」
「彼らは“これもまた運命”と口を揃えた。
あなたの父上をはじめ、多くの者が反対しましたが、結局、何事もなかったように日常に戻っていった。
私は……そんな久遠に絶望した。
そして、あなたを探すための情報を得ようと、久遠を去ったのです。」
静寂が落ちた。
遥花は何も言えなかった。
信じていた場所、優しさに包まれていたはずの久遠が、そんな冷酷な決断を下していたなど、考えたこともなかった。
影風は、淡い光の中で微かに目を細める。
「遥花様が戻られたと知った時、私は安堵しました。ですが……今の久遠の者たちは、綴る者の力が戻った、記憶もない、これ幸いと――あなたを“利用する”ことしか考えておりません。」
「……そんな。」
遥花の声は震えていた。
影風は静かに首を振る。
「どうか、真実を見誤らないでください。久遠は、あなたが思っているほど、清らかな場所ではないのです。」
遥花は息を呑み、ただ呆然とその場に立ち尽くした。
胸の奥で何かがきしむように軋み、これまで信じてきた温かな記憶が、ひとつ、またひとつと音を立てて崩れていった――。
影風はエピソード5の「黒い影②」に出ていた」人物です。




