真澄の里
風がやわらかく頬を撫でた。
朝の霧が晴れ始めた山道を、遥花、悠理、奏多の三人は並んで歩いていた。
蒼篠の里を離れてから、もう半刻ほどが経つ。
道の両脇では、秋草の穂がゆるやかに揺れている。
「……こうして歩くの、久しぶりだね。」
遥花が微笑むと、悠理が小さく頷いた。
「静かでよい道だな。息が整う。」
その隣で、奏多が肩の荷を直しながら苦笑した。
「俺は、筋肉痛がまだ治ってなくて辛いです。」
「……奏多。」
悠理がふと彼を見た。
「従者として、初めて“言霊”を相手にしたんだったな。どうだった?」
奏多は一瞬黙り、少し遠くを見つめた。
昨日の夜の焦げ跡や、翔綺が振るった数々の武器の軌跡が脳裏に蘇る。
「……怖かったです。」
声は低く、静かだった。
「相手が人なら、動きに意志が見える。けど言霊は違う。理屈が通じねぇ。予測できない方向から、いきなり襲ってくる。」
「それでも守り切ったんだろ?」
悠理が少し笑うと、奏多は苦笑いで首を振った。
「いや、正直ギリギリでした。翔綺様が戻ってこなかったら、多分鍛冶場ごと吹っ飛ばされてました。」
彼の口元に、ほんの少し憧れのような色が混ざる。
「……あいつ、ホントすごいです。武器を三つも使い分けて、あの速さで。しかも封印の詞鏡まで同時に扱って。
あんなの、見てるだけで息が詰まりますよ。」
悠理は頷きながら、思い出すように空を見上げた。
「翔綺は小さい頃から槍、薙刀、弓、短剣……どれも一通り扱ってる。
武器を変えるたびに、戦い方そのものを組み替える。あれは久遠の中でも稀な才能だ。」
遥花が感心したように目を丸くする。
「そんなに? 普段は甘えん坊なのに。」
「……そう、そこだ。」
悠理が深くため息をつく。
「実力は本物だが、女好きなのが玉に瑕だ。
“女性を優遇する”って自分で言ってたからな。」
「えぇ……」
遥花と奏多の声がぴったり重なった。
「けどまぁ、ああいう軽さがなきゃ、あの力は保てないのかもしれない。」
悠理が続けた。
「翔綺は俺達に引けを取らない立派な“綴る者”だ。」
「“綴る者”といえば……真澄の里の方はどんな方?」
遥花が尋ねると、悠理は頷いた。
「真澄の綴る者は、優しい青年だ。名を透真という。
争いを嫌って、どんな言霊にも“苦しかったね”って言葉をかける。
“純粋”って言葉が一番似合う人だと思う。」
「へぇ……そんな人もいるんですね。」
奏多が腕を組む。
風が三人の間を抜けた。
その先で、湖面のように静かな光がちらりと揺れる。
遥花が顔を上げた。
「……見えてきた。あれが、真澄の里だね。」
白い霧の向こうに、鏡のように澄んだ湖が広がっていた。
朝の陽が差し込み、水面がまるで生きているようにきらめく。
「“祈りの鏡”……」悠理がつぶやく。
「ここが、言霊を浄める里――真澄。」
遥花は小さく息を吸い、胸に抱えた詞鏡を見つめた。
その光は、湖の反射のように静かに揺れていた。
里に足を踏み入れてしばらく歩くと、ひときわ澄んだ鐘の音が響いた。
清らかな水の流れる音が、どこからか重なって聞こえてくる。
そのとき――。
「わっ……!」
小さな影が、遥花の腰あたりにぶつかった。
見下ろすと、五つか六つほどの男の子が、尻もちをついて目を丸くしている。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて立ち上がる男の子に、遥花はしゃがみこんで微笑んだ。
「ううん、大丈夫。怪我してない?」
少年は首を横に振ったが、服の裾は泥で汚れている。
彼女が手を貸して立たせたそのとき
「涼! どこなの!」
里の奥から、若い女性の声が響いた。
振り返ると、髪を後ろでまとめた母親らしき人が、こちらへ駆け寄ってくる。
「お母さん!」
少年が声を上げ、嬉しそうに駆けていった。
母親は胸を押さえながら息をつき、三人に深々と頭を下げた。
「この子がご迷惑を……本当にすみません。ありがとうございます。」
「いえ、無事でよかったです。」
遥花が微笑むと、母親は安堵したように微笑み返した。
「旅の方々ですね。どちらへ行かれますか?」
悠理が頷く。
「長老殿の家はどちらでしょうか?」
「ここから、最初の道を左へ行き…」
母親は道の先を指し示してくれた。
教え通り進んでいく。
湖を囲むように広がる里の建物は、すべて白木と青瓦で造られ、まるで水の一部のように静謐だった。
奏多が小声で呟く。
「……雰囲気、蒼篠とは全然違いますね。」
遥花が頷く。
「うん、ここは全てが澄んでる感じがする。」
遥花は胸の詞鏡をそっと撫でながら、湖の方を見た。
遠くの水面には、淡く光を纏った影がひとつ――
鏡の縁を歩くように、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「……あの人、もしかして――」
悠理も視線を向け、静かに言った。
「真澄の綴る者――透真だ。」




