封じの扇、斬り結ぶ刃
北の防壁へ駆けつけると、夜気を裂くような轟音が耳を打った。
漆黒の霧が渦を巻き、石畳がひび割れている。
言霊――形なき力が暴走していた。
「遥花、任せたぞ!」
煌志の短い指示に、遥花は迷わず頷いた。
陽路は敵兵の抑えに回り、悠理は別の言霊を追う。
この一体は自分が封じる。それだけを胸に刻む。
腰の鉄扇を抜き、足を滑らせて前へ。
霧が生き物のように膨れ上がり、鋭い突風を巻き起こした。
視界が白むが、動じない。
稽古で幾度も繰り返した呼吸を刻み、重心を低く落とす。
突然、影が鋭い槍のように突き出された。
遥花は反射的に横へ跳び、着地と同時に鉄扇を横薙ぎ。
金属の骨が空気を裂き、霧の一部を切り裂く。
切先から冷気が逆流するが、体勢は崩さない。
「はっ!」
素早く扇を閉じ、柄で突きを放つ。
空間が確かに震え、霧がたじろぐ。
その隙を逃さず、一歩踏み込む。
靴底が石を削り、体はまっすぐ突き進む。
扇を再び開き、斜めに斬り上げた。
銀の骨がわずかに光り、霧の中心を切り裂く。
黒い欠片が四散した。
しかしすぐに、霧が再び収束する。
遥花は表情を変えず後退し、懐から白い詞鏡を取り出した。
薄紙が夜風に揺れる。
これが終わりではない。ここからが本番だ。
息を整え、地を踏みしめる。
指先に力を込めると、紙がわずかに脈動した。
胸の奥で、教わった手順が自然に蘇る。
封印の言葉を、淡々と、しかし確かに口にする。
「詞脈、集え――」
空気が震えた。
周囲の霧がざわりと動き、目には見えぬ糸が紙に吸い寄せられていく。
逃れようと霧が突進するが、遥花は一歩も退かない。
鉄扇を床へ突き立て、盾のように前へ。
刃に沿って風が走り、霧の軌道を逸らす。
「封ぜよ!」
最後の印を結ぶ。
詞鏡が淡い蒼光を放ち、霧の奔流を一気に吸い込んだ。
ひときわ強い衝撃が走り、髪が風に踊る。
そして、静寂。
紙面には黒い亀裂のような文様が一瞬浮かび、やがて詞鏡へおさまった。
遥花は鉄扇を収め、深く息を吐く。
肩はほとんど揺れていない。
日々の修行で鍛えた体が、動揺を許さない。
「ふう、封印完了。」
自らへの報告のように小さく告げる。
夜風が吹き抜け、遠くで他の戦いの音がまだ続いている。
だがこの一角は、確かに鎮まった。
遥花は封じた詞鏡を懐に収め、再び仲間たちのもとへ走った。
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火線が走る。
篝火の明かりが激しく揺れ、黒煙の向こうで刃がぶつかり合った。
夜の静けさなど、とうに消え失せている。
篝火の里の防壁の前では、兵たちが泥に足を取られながら必死に剣を振るっていた。
「押し込まれるな! 間を詰めろ!」
陽路の声が響く。
返すように、奏多が一人の敵兵を薙ぎ払った。
金属の軋み。血の匂い。すぐ横を、倒れた味方の槍が転がる。
敵の眼には理性よりも憎悪が宿っていた。
「篝火の犬どもを潰せ!」という怒号が夜を切り裂き、火花が散るたびに土埃が舞い上がる。
「数が多いな……!」
「くそ、キリがねぇ!」
奏多が刃を返し、短く言い放つ。
二人は互いの呼吸を読むように動く。
奏多が正面の敵を押さえ、陽路がその死角から踏み込む。
刀がぶつかり、火花が弾ける。
敵の剣筋を受け流し、陽路は肘で押し込みながら刃を返した。
金属音のあと、乾いた悲鳴。血が地に落ちる。
だが休む暇はない。
敵兵が三人、横合いから襲いかかってくる。
「右、任せろ!」
奏多が滑り込み、低く構えた。
刀が唸り、斜めに一閃。
刃が相手の鎧を割り、火花と共に血飛沫が散った。
陽路はその隙を突き、正面の敵に打ちかかる。
刃を振るうたび、腕が痺れる。
息が荒く、肺が焼けるようだった。
それでも足を止めない――後ろには守る里がある。
「陽路、背中!」
「分かってる!」
互いの声だけが頼りだった。
敵もまた生身の人間、斬れば呻き、倒れ、血を流す。
戦場には、熱と痛み、そして迷いの匂いが混じっていた。
その中で、陽路は確かに感じていた。
刃の震え。手の中で軋む鋼の異変。
――やけに、響く。
敵の剣を受け止めた瞬間、金属が軋み、白い線が刀身を走った。
「まずい……!」
陽路は咄嗟に刀を振り抜き、敵の腹を裂いたが――次の瞬間。
カン、と高く澄んだ音が夜に響いた。
刀が折れた。
折れ口が赤く光り、破片が飛び散る。
陽路の手には、半ばだけの刀身が残った。
「陽路!」
奏多が駆け寄り、敵の突きを受け流して蹴り飛ばす。
血と土煙が二人の間に舞った。
「平気か!」
「……ああ、まだやれる!」
陽路は短くなった刀を逆手に構える。
足元に転がる敵の槍を蹴り払い、もう一歩踏み込む。
刃が閃き、肩口を貫いた。
重い肉の感触が伝わり、敵が崩れ落ちる。
その瞬間、兵たちの叫びが上がった。
「押し返したぞ!」
「敵が退いていく!」
夜風が吹き抜け、焦げた匂いが薄れていく。
陽路は肩で息をしながら、折れた刀を見下ろした。
刃の根元には、戦いの名残のように黒い血が乾いていた。
「……限界だったか。」
「いや、よく保ったさ。」
奏多が小さく笑い、刀を納める。
二人の視線の先で、篝火が再び燃え上がった。
この夜を越えても、まだ戦いは続くだろう――そう、互いに悟っていた。




