陽路の回想② 篝火の従者
篝火の里に足を踏み入れた瞬間、陽路は懐かしさと緊張を同時に覚えた。
久遠への入り口であるこの地は、語る者として何度か訪れたことがある。だが今回は、ただの客人ではなく、己を鍛えるために来たのだ。
夜空を背景に、無数の篝火がゆらめく。
灯りの熱に混じって漂うのは、鉄と血の匂い。防波堤のように最前線を支えるこの里では、日々小競り合いが絶えないことを物語っていた。
陽路はまず、長老の屋敷を訪れた。
深い皺を刻んだ長老は、彼を見て目を細め、静かに頷く。
「……よく来たな、陽路殿。話はすでに聞いておる。」
「聞いて……?」と首を傾げる陽路に、長老はゆるやかに笑みを浮かべた。
「悠理様から使い獣が届いておった。おぬしをこの里で鍛えてほしいとな。
言葉は簡素であったが……あやつらしい気遣いよ。」
その瞬間、陽路の胸にじんと熱が広がった。
自分のことを案じ、準備を整えてくれていた——そう思うと、自然と背筋が伸びる。
「……感謝します。ぜひ、鍛えていただきたい。」
深く頭を下げた陽路に、長老はゆっくりと手を振った。
「では、紹介しよう。この里の綴る者の従者を。これからしばし、共に鍛錬を積むことになるだろう。」
襖がすっと開き、ひとりの影が差し込む。
焔の明かりに照らされて現れたのは、鋭い眼差しと、鍛え抜かれた気配を纏う人物だった。
入ってきた青年は、細い影のように軽く礼をした。短く整えた黒髪、切れ長の目。視線は揺れない。
「篝火の綴る者の従者、朔人。本日よりあなたの鍛錬を預かる。」
名乗りも、言葉も、無駄がない。
陽路が姿勢を正すより先に、朔人の視線が彼の装備を速く往復した。肩紐、鞘口、靴底、指の豆——一瞬で全てを測るように。
「結論から。装備は締めが甘い。肩紐、二穴詰めろ。鞘口は半指分、浅い。靴底、右が減っている。走れば捲れる。」
淡々と告げると、腰の小袋から細い革紐を一つ抜き、陽路に放った。
「締め直せ。三息で。」
陽路は母の言葉——“敵に追われているつもりで進め”——を思い出し、息を詰めて動く。三息。朔人が頷く。
「悪くない。次。」
外に出ると、風が焔の匂いを運んだ。門から里路へ、朔人は指先で素早く合図を切る。
電柱ほどの松に括られた鈴糸が、風にほとんど鳴らず揺れた。
「いまから門まで。二十息で往復。途中、目印符を三つ拾え。敵に追われているつもりで。」
陽路が駆け出すと、朔人は同じ速度で並走せず、角で消えた。次の角を抜けると、すでに先で待っている。
——進路の“最短”を読む者の動きだった。
戻ると、朔人は短く告げる。
「判断は速い。だが、視線が高い。足で負ける。」
そこへ長老の声が落ちる。
「朔人。煌志様は?」
「前線。翌朝には戻る。戻り次第、判断を仰ぐ。」
朔人は陽路へ向き直った。
「俺の役目は、お前を綴る者様の間合いに連れていくことだ。——進むぞ。」
短い言葉のあとに残るのは、焔の熱と、張り詰めた静けさだけだった。




