祭りの影
「……少し寄っていくか?」
悠理は普段と変わらぬ穏やかな調子で言う。
遥花は目を丸くする。
「えっ、いいの?」
「明日が本番だろう。気を張りすぎていては、舞も乱れる。」
押しつけがましくなく、けれど拒めない優しさを含んだ誘い方。遥花が頷くと、彼は人混みの中でも自然と歩調を合わせてくれる。
金魚すくいや団子の香り、浴衣姿の人々──祭りのにぎわいが、稽古の疲れを溶かしていくようだった。
最初は落ち着いて周囲を眺めていた悠理だったが、ふと射的の屋台を見つけると「懐かしいな」と子どものような笑みを見せた。遥花が驚いている間に、気まぐれに銃を構え、見事に景品を撃ち抜いてみせる。
「ほら。」
手渡されたのは小さな鈴。
悠理の意外な一面に、遥花は思わず笑みをこぼした。
「ありがとう!せっかくだから、鉄扇につけるね。」
「あぁ。……他にも何か欲しいものがあれば言え。」
「え? じゃあ……」遥花は並んでいる品を見て、「あの櫛、かわいいなって。」
「……よし。」
短く返した悠理の声はいつも通り淡々としているのに、不思議と頼もしさがある。
遥花が見守る中、悠理が射的の台に立ち、銃を構えた。的を見据える横顔は真剣そのものだ。
——けれど、撃つ直前にふと人の波が押し寄せて、遥花の身体がよろめいた。
「——っ」
倒れかけた瞬間、強い手に引き寄せられる。
気づけば、悠理の腕の中。
至近距離で視線が交わり、遥花の鼓動は大きく跳ね上がった。
「気をつけろ。」
短い言葉。でも、その奥の熱が伝わってくる気がした。
そのときだった。
賑わう祭りの空気を裂くように、鋭い気配が走る。
灯りが一瞬揺らぎ、ざわめきが悲鳴へと変わる。
屋台の奥から黒い靄のようなものが吹き出していた。
人々の怯えや混乱に呼応するように、靄は形を持ち、唸り声を上げる。
「……言霊の暴走か。」
悠理の低い声が響いた瞬間、場の空気が一変した。
黒い靄がうねり、形を変えて暴れ出す。人々の恐怖の声を聴き、影はさらに膨れ上がっていく。
言霊の暴走に呼応するように、周囲の灯火が揺れ、祭りの笛太鼓の音が悲鳴にかき消されていった。
遥花が息を呑んだ瞬間、悠理はすでに一歩前へ出ていた。
悠理は揺らぐ影の巨体に向かい、背に携えた黒檀の弓を構える。
その動作は静かで、だが圧倒的な力を伴っていた。
深く息を吸い込み、詞脈を矢にまとわせる。
透明だった矢が、淡い蒼光に包まれ、言霊の中心に浮かぶ「詞」を照らした。
「——静まれ。」
放たれた矢は、夜気を裂き、光の筋となって暴走する言霊を射抜く。
言霊が苦しげにうめき、影が揺らぎ始めた。
悠理は矢を放ったままの姿勢から、素早く詞鏡を取り出す。
それは蒼白にきらめき、言霊の光を吸い込むように揺らめいた。
悠理は片手を広げ、掌に詞脈を集中させていく。
掌に刻まれるように光の文様が浮かび、やがてそれは封印の印を象った。
「――詞よ、還れ。」
指先がしなやかに動き、古き封印の所作を結んでいく。
矢で弱められた言霊が吸い寄せられるように詞鏡へと引き込まれ、苦悶の声をあげる。
悠理は最後に詞鏡を言霊へ向け、鋭く言葉を放った。
「――封ぜよ!」
瞬間、詞鏡が強烈な光を放ち、言霊の影は吸い込まれるように消滅した。
広場には静寂が訪れ、ただ祭りの灯籠の光だけが揺れている。
遥花はただ見つめるしかなかった。
力強くも美しいその封印の一部始終を、胸に焼き付けながら。
悠理は詞鏡を懐に収め、淡々とした声で呟いた。
「……久遠の詞ではない。」
その言葉は、ただ遥花にだけ届くように小さく。
しかし確かに、新たな不安を残す響きを持っていた。




