舞の稽古①
薄紅の灯りがゆらぐ稽古場。床板は磨き込まれ、吊られた小さな風鈴が、外の風にかすかに鳴った。
正面に立つ燈子が、扇を二つ、ぱちんと軽やかに開く。
「まずは芸としての舞からだよ、遥花。華灯は“魅せる”里。呼吸、姿勢、視線、そして“間”。これができてから、攻めと守りに生かせる。順番を違えちゃダメ。」
「はい。」遥花は鉄扇を胸の前で抱え、背筋を伸ばす。
脇に控える燈子の妹の玲奈が、丁寧に言葉を添える。
「遥花様、最初は扇を胸の高さ。肘は落とさず、手首は張りすぎず。摺り足で一歩、二歩……“間”は拍のあいだに置いてくださいませ。」
拍子木が一度だけ鳴り、笛の音がふっと立つ。
燈子は右の扇を半円で描き、視線を滑らせる。“見せるための線”が空間に引かれ、次の一拍で身体がそこへ吸い込まれるように進む。
「目で扇を追わせるの。観る者の呼吸を、あなたの呼吸へ引き込むつもりで。」
遥花も真似て扇を開く。最初の一歩はぎこちない。二歩目で扇がわずかに揺れ、三歩目で視線と手の軌跡が噛み合った。
「……こう、かな。」
「ええ、とてもよいです。」玲奈の声が微笑む。
「次は“留め”を。止まるために止まるのではなく、止めるために息をひとつ置く。詞脈もその拍に寄り添います。」
見守っていた悠理が、わずかに頷いた。
ふと、燈子が視線を悠理へ向けた。
「……悠理。あなたも少しやってみなさい。」
「……本当にやるのか?」
眉をわずかにひそめた悠理の声は低いが、逆らう気配はない。
「綴る者なら、覚えておいて損はないわ。」
燈子の言葉に、悠理は小さく息を吐いて前に出る。
動きをなぞるように腕を広げ、足を運ぶ。
その所作はぎこちなくも正確で、無駄のない体捌きがどこか武に通じるようだった。
舞というより、刀を構える予備動作に近い。
遥花は横目でそれを見て、思わず小さく笑みを漏らす。
「悠理、案外似合ってるかも。」
「……からかっているのか?」
淡々と返しながらも、耳の先がほんのり赤いことに彼女は気づいた。
結局、悠理は数回だけ舞の型をなぞり、「もう十分だろう」と言って袖を直した。
だがその短い時間が、遥花にとっては妙に鮮やかに記憶に刻まれていた。
一通りの型を重ねたのち、燈子が扇をすっと下ろす。
「よし、今日はここまで——と言いたいところだけど、少しだけ技を見せようか。」
燈子は同じ所作をもう一度なぞり、今度は足の角度を半足だけ変える。
扇の弧がわずかに低く、肩線の裏へ吸い込み、腰がほどける。美しいまま、しかし別物の鋭さが宿る。
「さっきの“霞返し”。芸としてはここで見せ場を作る。……でも足を半足開いて、扇を一寸下げると、刃も腕も“流れる”。受け流しながら入る形になるのさ。ね、悠理。」
「理に適う。」悠理は短く返す。
「だが今は少し早そうだな。応用は最後に少しでいい。」
「了解了解。遥花、最後に一度だけ通してみよう。」
拍子木。
遥花は扇を開く。摺り足の音は床に吸われ、袖と扇が描く白い軌跡が、灯の赤と重なる。
二拍目、ふっと胸の奥で何かが合う。詞脈の流れが拍と重なり、息がするりと通った。
三拍目の“留め”で扇が静かに閉じ、場の空気が一瞬だけ凪ぐ。
「……今の、すごく気持ちいい。」
「それそれ。」燈子が満足げに指を鳴らす。「その“気持ちいい”が合図。詞脈が拍に馴染んだ証拠だよ。明日は午前にいまの基礎を固めて、午後にちょっとだけ護りの流れへ繋げよう。」
玲奈が深く一礼する。
「本日のお稽古はここまでに。遥花様、とても良い筋でいらっしゃいます。」
「——よくやった。」
悠理は一言、短く言った。その目は優しく遥花に向けられた。
燈子が扇をくるりと回し、にっと笑う。
「華灯は“魅せる”里。まずは観客の心を掴む舞、その次に敵の手首を掴む舞。段取り、ね。」
灯りが少しずつ濃くなり、稽古場に涼しい風が抜けた。
遥花は掌の温度と拍の余韻を確かめるように、静かに扇を閉じた。




