宵隠れ
楓の指導での鍛錬をひとしきり終え、木陰で汗を拭う。
伊吹は相変わらず本を抱え、遥花と陽路はぐったりと腰を下ろしていた。
そのとき、遥花が意を決したように顔を上げた。
「……ねえ。どうして、私が記憶を失ってることや、瑞穂で言霊を封じたことを知ってたの?」
静寂が一瞬落ちる。
陽路も目を丸くし、伊吹に視線を送った。
答えたのは楓だった。
「――ここは武の里ですから。従者や戦士を育てるのはもちろんですが、その中には隠密や諜報に特化した者たちもおります。」
遥花が目を瞬く。
「隠密……?」
「はい。『宵隠れ(よいがくれ)』と呼ばれる集団です。彼らは影に生き、影から国を支える者たち。情報を探り、敵の動きを察知し、時には裏から手を回すことを任としています。」
伊吹がニヤリと笑い、口を挟んだ。
「つまり――君らが瑞穂で何をして、どう振る舞ったか。宵隠れの“見習いたち”が実践訓練として追っていたってわけだ。」
「見習いたち……?」
遥花の声には驚きとわずかなとまどいが混じっていた。
楓は慌てて両手を振る。
「もちろん、危害を加えるようなことは絶対にしません。訓練の一環として、ただ“見て”“報告する”だけです。だから、遥花様が襲われた禍ツ者の件や、記憶についても、瑞穂に送った宵隠れを通じて我らに伝わっていたのです。」
遥花はしばらく言葉を失った。
知らぬ間に自分たちが観察され、報告されていたという事実が、胸の奥にざらりとした感覚を残す。
しかし陽路が隣で静かに告げる。
「……それだけ久遠を守るために徹底されていたのか。」
伊吹は書物を閉じ、面倒くさそうに伸びをしながらも、珍しく真顔で言った。
「補足しておくとだな――宵隠れの存在を知るのは、この国でもごく一部。各里の長や要職にある者、それと綴る者とその従者くらいだ。
ま、安心しな。普段、宵隠れはお前たちを追ってるわけじゃない。常に見てるのは、禍ツ者や暴走した言霊の方だ。今回たまたま訓練で、お前たちが対象になった――そういうことさ。」
遥花は小さく頷いた。
観察されていた事実は、あまりいい気分ではなかった。けれど、国を守るために働く影の存在があると知ったことは、確かに心を強くさせるものだった。
それからの日々、遥花と陽路はひたすら修行を積んだ。
楓の厳しい指導、伊吹の飄々とした助言。
汗を流し、幾度も倒れ、それでも立ち上がる中で、確実に身体と心は鍛えられていった。
そしてある日。
「――修行の成果を確かめる時が来ました。」
楓の宣言に、訓練場に集まった見習いたちがざわめく。
悠真の里恒例の「武比べ」。
互いの力を試し合い、技を競う小さな大会だ。
遥花と陽路も、その名簿に並んでいた。
伊吹は木陰に腰を下ろし、涼しい顔で言う。
「さあ、見せてもらおうか。どれだけ“成長”したのかをね。」
楓がきびきびと仕切りを進め、次々に組み合わせが発表されていく。
遥花の胸は高鳴り、陽路の横顔は静かに引き締まっていた。
――修行の成果を、示す時が来た。




