道中①
瑞穂の里は、天響の里から馬で三日の道のり。遥花と陽路は山道を抜け、川沿いの道を進んでいた。
澄んだ風が吹き抜け、揺れる草の匂いに遥花は思わず足を止める。
「……懐かしい匂いがする。けど、どうしてなのかは分からない……」
陽路は馬の手綱を握り直しながら、柔らかく微笑んだ。
「遥花様の詞脈が覚えているのでしょう。身体に刻まれた感覚は、記憶よりも深く残るものです。」
その言葉に、遥花は胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
やがて、小さな川を渡る木橋に差し掛かる。水音に耳を澄ませていた遥花は、ふと足を滑らせそうになった。
「きゃっ!」
とっさに陽路が腕を伸ばし、彼女の手首をしっかりと掴む。
「……危ないですよ。ちゃんと前を見て歩いてください。」
遥花は頬を染めてうなずく。
「ごめん、ありがとう。」
「恐れ入ります。お怪我がなくて本当に――」
「ねえ、陽路。ひとつ、お願いがあるの。」
「……お願い、ですか?」
「その……敬語、やめてくれない? 私、記憶をなくしているから……“綴る者”なんて呼ばれても、どうしても他人事みたいで。なのに敬語で話されると、なんだか申し訳なくなるの。」
陽路は一瞬言葉を失い、表情を固くする。
「そ、それは……滅相もありません! 身分が違いすぎます。従者が敬語を崩すなど……。」
「でも……。私だって、いきなり“綴る者様”なんて呼ばれて、どう振る舞えばいいかわからないの。ねえ、二人きりの時だけでもいいから。そうしてくれたら……少し安心できる気がするの。」
陽路は困ったように視線を逸らし、ぐっと拳を握る。
陽路「……っ、しかし……」
遥花「お願い。陽路……。」
“陽路”と名を呼ぶ声がかすかに震え、必死さが滲んでいた。
しばし沈黙のあと、陽路は観念したように小さく息を吐く。
陽路「……わかりました。二人きりの時に限って、承知いたします。これは“綴る者様の命”として、受け入れますから。」
そう言いながらも、口元にはわずかに苦笑が浮かんでいた。
「――ほんとに、仕方ない人だな。」
遥花の顔がぱっと明るくなる。
遥花「ありがとう! 」
陽路「(……かわいすぎるんだよ)」
心の中でそう呟いたが、口には出さなかった。
旅を続ける中、陽路は道端に咲く草花や、森に潜む獣の鳴き声を遥花に教えてくれた。
「これは瑞草といって、瑞穂の里では薬にも歌にも使われる。」
「ほら、あの鳥の声。瑞穂の祈る者たちは、あの鳴き声を吉兆としてるんだよ。」
遥花は耳を傾けながら、少しずつこの世界が「知らない場所」から「自分が歩む場所」へと変わっていくのを感じていた。
その夜、焚き火を囲みながら二人は夕食をとった。
遥花が草鞋を脱いで足をさすっていると、陽路が湯を温め、布を渡す。
「慣れない道だから、無理だけはするなよ。」
炎に照らされた横顔は真剣で、けれどどこか優しい。
遥花は言葉を返せず、ただ静かに布を受け取った。
(……なんだろう、この安心感。陽路と一緒なら、きっと大丈夫って思える……)
遠く、瑞穂の里を示す鳥の声が夜空に響いていた。




