旅路の始まり
儀を終え、遥花は控えの間へ戻る。父と母、茜、そして陽路の両親が彼女を待っていた。
母は扇を目にして、柔らかな笑みを浮かべる。
「美しいわね……。まるで、遥花の声がそのまま形になったみたい。」
父も静かに頷いた。
「神が授けるものは、その者の詞脈と心に最も響くものだ。……誇れ、遥花。」
「はい。」遥花は胸を張り、扇を両手で掲げた。
すると陽路の母が目を細める。
「あなたが手にしたその扇なら、舞うように言霊を操れるでしょう。……ああ、懐かしいわ。かつて共に旅をした日のことを思い出す。」
父や遥花に仕えていた頃の記憶を語るその声には、誇らしさと慈しみがあった。
陽路の父も大きくうなずく。
「俺たちの代から続いてきた縁だ。遥花様を守る務めは、今度は陽路に託された。胸を張っていけ。」
陽路は背筋を伸ばし、力強く答えた。
「はい。必ずや、命に代えてもお守りします。」
その晩は久しぶりに家族ぐるみで膳を囲んだ。
母が煮物をよそい、父が盃を差し出す。茜も隣で、はにかみながら姉に食事を勧める。
何気ないやりとりが、どこか名残惜しく胸に沁みた。
遥花は笑みを浮かべながらも、心の奥底で――
(本当に、また戻ってこれるのかな……)
と、ひそかに思わずにはいられなかった。
出発を前に、遥花と陽路は長老の屋敷へ呼ばれていた。広間の中央には、久遠の地図を描いた大きな詞鏡が据えられている。
長老が静かに口を開いた。
「さて……これから巡る七つの里。その最初の行き先を、決めねばならぬ。」
視線が遥花へと注がれる。彼女は息を呑み、そっと陽路に目を向けた。
陽路が一歩進み出る。
「私が語る者として旅をした折、いくつかの里に滞在いたしました。遥花様が最初に訪れるなら――。」
陽路は詞鏡に触れ、光の筋で里を示していく。
「天響の里を出て最も近い瑞穂の里。豊かな大地と水に恵まれ、祈る者たちの歌が絶えぬ場所です。」
遥花は目を閉じ、胸の奥に湧き上がる感覚に耳を澄ませた。
「……瑞穂の里へ行ってみたい。豊かな地で、人々の営みを見て……思い出したい。」
長老は深く頷いた。
「よかろう。瑞穂の里へ向かうと伝えよう。」
すると、広間の奥から一羽の白い鷹が現れた。翼には淡く光る文様が浮かび、使い獣であることが一目でわかる。
長老はその首に小さな巻紙を結びつけ、掌で軽く撫でる。
「これが瑞穂の里の長へと告げに行く。お前たちが到着するころには、迎えの用意が整っていよう。」
鷹は鋭く鳴き、翼を大きく広げると、光の尾を引きながら空へと舞い上がっていった。
遥花はその姿を見上げ、胸の奥で小さく拳を握る。
(私が決めた道……ここから、始まるんだ。)
翌朝。天響の里の門前に、長老や家族たち、見送りに集まった人々が立ち並んでいた。
晴れ渡る空の下、遥花は鉄扇を腰に差し、旅装束に身を包んで立っている。
長老が一歩進み出て告げた。
「久遠の綴る者、遥花。これより他の里を巡り、言霊を繋ぐ務めを果たすのだ。……お前の歩みが、道を照らすであろう。」
遥花は深く頭を垂れた。
「はい。必ず……」
陽路も隣に立ち、きっぱりと告げる。
「遥花様の従者として、この身を捧げます。」
家族へと振り返ると、母が両手を合わせ、父は小さく頷き、茜は唇を噛みしめながらも「いってらっしゃい」と声を張った。
その姿を胸に刻み、遥花は里をあとにする。
こうして、久遠を巡る旅路が始まった。




