葛藤
陽路の家に身を寄せることになってから数日。
遥花は朝の光に包まれる小さな居間で、茜から差し入れられた衣を畳んでいた。
柔らかな布地に触れる指先は確かに温かいはずなのに、心の奥にはどこか空白が残っている。
――私は、本当にここで生きていたのだろうか。
ふと漏れた思考を振り払うように、遥花は外の音に耳を澄ませた。
庭では陽路が剣を振るい、風を裂く音が規則正しく響いている。
彼は訓練を終えると、汗を拭いながら家に戻ってきた。
「遥花様、母上が朝餉の用意をしてくれました。……一緒にどうですか?」
柔らかな声に促され、遥花は食卓につく。
焼き立ての粟餅と温かな汁物――どれも素朴だが、どこか懐かしさを感じさせた。
その日の午後、陽路に案内され、遥花は天響の里の広場へと足を踏み入れた。
白壁の家々が並び、澄んだ水が石畳の小川を流れる。広場の中心では大樹が影を落とし、里人たちが彼らを待ち受けていた。
「――遥花様!」
「ご無事で戻られたのですね……!」
ざわめきとともに、人々の顔が一斉に輝きに満ちる。
両手を合わせる者、深々と頭を下げる者。幼い子どもたちでさえ、憧れの眼差しを向けて駆け寄ってくる。
「おかえりなさいませ!」
「遥花様、またこの里をお守りください……!」
その声に包まれ、遥花の胸は温かく締めつけられる。
――でも、私は何も覚えていない。
自分はこの人たちの期待に応える資格があるのだろうか。
子どもたちが無邪気に手を伸ばす。遥花はぎこちない笑顔を浮かべ、その小さな掌に触れた。だが笑顔の裏で、心は沈んでいく。
「私なんかが、この場所に立っていていいの……?」
かつての記憶を持たない自分、そして――あの世界で普通の学生だった自分。どちらが本当の自分なのか。戻れる日が来るのか。それとも、このまま「綴る者」として生きていくのか。答えはどこにも見えなかった。
「――皆の者」
陽路が一歩前に出て、里人たちへ声を張った。
「遥花様は長き旅を終え、ようやくお戻りになられたばかり。どうか、今は静かにお休みいただきたい。」
その声音は凛として、広場の空気を鎮める力を持っていた。
里人たちは互いに目を見交わし、名残惜しそうにしながらも一礼し、散っていく。
静けさが戻ると、遥花は小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい、陽路。皆、あんなに喜んでくれたのに、私……。」
言葉は喉でつかえ、涙に変わりそうになる。
陽路はそっと横に並び、穏やかな声で応えた。
「謝ることなどございません。遥花様がここにいてくださる――ただそれだけで、里の者にとっては救いなのです」
夜、遥花は縁側に腰を下ろし、庭に落ちる月の光を見つめていた。
どこか懐かしいようで、けれどやはり見知らぬ光景。虫の声、木々の匂い――すべてが現実感を伴って迫ってくる。
陽路や茜、両親が語る「遥花」という存在は、確かにこの地で尊ばれた綴る者だった。
だが自分の中にあるのは――制服を着て、友達と笑い合い、試験や部活に追われる“普通の学生”としての日々。
その記憶は鮮明すぎて、幻とは思えない。
(あの世界に帰れるのかな……。もし帰れないのだとしたら……私は、どこに生きていけばいいの?)
胸の奥に広がる不安は、言葉にできないほど大きい。
記憶を失った綴る者として、人々の期待を一身に受ける自分。
けれど自分は“遥花”であって、“遥花”ではない。
ふと、部屋の奥から陽路の気配がした。
彼は何も言わずに隣に腰を下ろし、静かに空を見上げる。
「……遥花様は、戻りたいですか? あちらの世界へ。」
唐突な問いに、遥花の心が揺れる。
「……わからない。でも、あっちには私の毎日があった。家族も、友達も……夢も。ここにいると、それが全部遠ざかっていくみたいで、怖いの。」
陽路はしばし黙し、やがて穏やかに言った。
「どちらの遥花様も、本当の貴女です。記憶が戻ろうと戻るまいと……私は、ここでの貴女を守ります。」
その言葉に、遥花は胸が少しだけ温かくなるのを感じた。
しかし同時に、自分が背負わされているものの重さに、逃げ場のない現実を突きつけられるのだった。




