久遠
陽路に導かれて、遥花は里の奥へと足を運んだ。そこには大きな屋敷ではなく、落ち着いた木造の住まいがあった。庭には竹やぶが揺れ、控えめに咲く花が小さな彩りを添えている。
「こちらが、私の家です。……どうぞ、お入りください。」
扉を開けると、穏やかな香木の香りが漂った。必要以上に飾られていないが、手入れの行き届いた空間。遥花は思わず足を止め、辺りを見回す。
「……お邪魔します。」
陽路は客間へ案内すると、火鉢に湯をかけながら、静かに言った。
「ここでしばらくお過ごしください。遥花様にとって、ご実家はまだ……思い出せないことが多すぎて、かえって心を乱すかもしれません。」
遥花は膝に手を置き、かすかに頷いた。
「……そうかもしれません。見知らぬ場所のようで、でも心のどこかで懐かしい気もして……どうすればいいのか、わからなくなってしまうのです。」
陽路はしばし彼女を見つめ、それから言葉を選ぶように口を開いた。
「では、この久遠の国のことを、少しずつお話ししましょう。遥花様に思い出していただく助けになるかもしれません。」
遥花は目を瞬かせた。
「……久遠。それが、この国の名前なのですね。」
「はい。この世界には七つの国があります。私たちが暮らす久遠を始め、遼原、幽淵、蒼瀾、外世、常世、そして玄界――それぞれが異なる文化や思想を持ち、言霊の扱いも違います。」
遥花は瞬きをし、言葉を飲み込むように聞いていた。
陽路は、続ける。
「そして久遠の中にも、七つの里があります。ここ天響の里を筆頭に、瑞穂の里、蒼篠の里、悠真の里、真澄の里、篝火の里、華灯の里。それぞれが役割を担い、言霊と共に国を支えています。ここ――天響の里は言霊を綴り、祀り、祈る務めのすべての中心です。言わば国の心臓のような地でしょう。」
「心臓……」遥花は小さくつぶやく。
陽路は頷き、続けた。
「……遥花様。貴女が担ってきた“綴る者”という役目は、この世界の根幹に関わるものです。
言霊――それはかつて人々に語られ、信じられ、力を持った言葉や物語。ですが、忘れられたり使われなくなったりすれば、その力は歪み、時に災いとなって現れます。」
遥花は眉をひそめた。「災いに……?」
「はい。嵐や地震、病すらも、暴走した言霊がもたらすものとされています。
その力を鎮め、あるべき形に戻すために用いられるのが――詞鏡。
特別に綴られた紙に、綴る者だけが言霊を封じることができるのです。」
陽路の眼差しは真剣で、遥花は思わず背筋を伸ばした。
「……そして、祀る者は封じられた言霊を保管し、祈る者は言霊が忘れられぬよう祈りを送り、語る者は人々に物語を語り継ぐ。
すべては言霊を守り、この世界の均衡を保つため……。」
「……とても、大きな営みなのですね。」
陽路は静かに彼女の目を見た。
「はい。遥花様は、久遠にいる十人の綴る者のひとりでした。今は思い出せなくとも……その力は、必ず貴女の中にあります。」
遥花の胸の奥で、言葉にならない鼓動が響いた。記憶はなくても――その響きだけは、確かに自分のものだと感じられた。




