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午後のひと時は濃厚バタープリンで




──~~~~♪


「届いて〜♪Ah〜〜…♪」


歌いながら部屋で作業する私───桐谷那都美(きりや なつみ)は、絶賛引越しのダンボールに囲まれていた。


仕事の人事異動により一人暮らしをすることになった私は、越してきたばかりの部屋で荷解き作業をしていた。昨日は組み立て式のベッドを完成させることしかできなかったため、ダンボールの山にはほとんど手を付けられていなかった。新しく買った戸棚の配送もまだなので、とりあえず今日のところはダンボールの荷解き作業をすることにしたのだ。

昨日の疲れもあってか、少し寝過ごしてしまったが、なんとか午前中のうちにリビングの簡単な掃除と日用品が入っていたダンボールの荷解きは終わった。昨日買ったスーパーのお惣菜パンとサラダを朝ご飯も兼ねた昼ご飯にして、午後からはその他のダンボールを開けていく。


「~~~♪貴方の〜その〜♪」


テレビも何も無い静かな部屋でこの作業をすると気が狂いそうになるので、スマホで好きな音楽を掛けつつ、時折歌いながら作業に集中する。

実家暮らしが長いと、何かしらの音が常に聞こえてくるのが当たり前だったので、静かな空間に一人いるのは少しだけ何かが物足りないのだ。

別に寂しい訳ではない。一人で出かけたりするのは好きだし、出張で一人ビジネスホテルに泊まるのも楽しかった。ただ、無音なのは少し苦手だった。ちゃんと見ている訳ではないにしてもテレビを付けていなかったり、音楽がないと落ち着かない。


(仕事は明日まで休みだけど…終わるかな…。)


家から持ってきたハンガーラック付きのチェストに、()りすぐりの服たちを入れていく。

まだ一度しか袖を通していない服や、お気に入りのスカート、部屋着用のゆるいワンピースに、Tシャツ下着靴下エトセトラ。古くなった服は一部実家に置いてきた。こうすることで、実家に帰省した時に着替えを持っていかないで済むのだ。

それから、仕事用の綺麗めな服は皺にならないようにハンガーラックへ。丈の長いワンピースや上着はチェスト横のハンガーラックでは高さが足りないのでクローゼットに仕舞っていく。


(そういや冬物は持ってきてないから、いつかまた実家(うち)から持ってこないとなぁ。)


引越しと言えど、一度に実家から運び出すことはしなかった。仕舞う場所を考えなくてはならないし、引越し業者に頼むダンボールの数も減らしたかった。

タオル類も新しく買うつもりで最低限しか持ってきてないし、ストッキングに至っては消耗品だと思っているので、明日あたり商業ビルに他の必要品と一緒に買い出ししてこようと思っている。


そして服の整頓がある程度終わったところで次は本類。これは家にあるものをほぼ全て持ってきた。こういった物は重いので引越し業者にお願いするのが1番だ。

お気に入りの漫画全巻に、流行りの漫画がいくつか、それから好きな作者の小説シリーズに、友達から勧められて買った読みかけの本。何も入っていないカラーボックスに入れていく。こういうのはぎっちりと詰めるのも良いが、少し空間に余裕を持たせて空いたスペースに小物を置くのも良い。その辺のレイアウトは色々と揃ってきたらやるつもりだ。とりあえず今は上からどんどん詰めていく。


そうしているうちに少し喉が渇いてきたのに気が付いて、キリのいいところで作業を中断する。


(うーん、少し休憩するかぁ…。)


残るダンボールは半分もない。そもそも一人暮らしなので荷物の量はたかが知れている。

この辺で少しのんびりしても問題はないだろう。


(お茶でも入れようかな。)


持ってきたお気に入りのマグカップを午前中にダンボールから救出していたので、今日は温かい飲み物も飲むことができる。家から持ってきた保存食の入ったダンボールから、小箱を出す。

紙のパッケージから取り出すのは爽やかな柑橘の香りのティーバッグ。友達から貰ったちょっと良いブランドの紅茶である。パッケージを開けた瞬間からアールグレイ特有のすっきりとした香りがする。これだけで何だか少し優雅な気分になる。


そうしてマグカップにティーバッグを入れた後で気付いたのだが、重要な問題があった。


(…あっ、お湯どうしよう!)


すっかり忘れていたのだが、ここにはケトルなどという便利な物はない。実家にあるものは家族が使っているため持ってこれる訳もなく、家電系は電子レンジと冷蔵庫、洗濯機は新しく買った物を昨日の荷物搬入と一緒のタイミング設置したのだ。あとのものは、無くても何とかなるものばかりなので、追々買って増やしていくという前提で用意していなかった。


(あ〜…これは早急に買わねば…。)


確かに無くても何とかはなるが、あって便利であることに越したことはない。

とりあえず今日のところはケトル以外でお湯を用意しなくては。しかし調理器具も後で買い揃えるつもりだったため、鍋などもない。


(いや、温めるだけなら電子レンジでいける!)


そう、我が家には安心と信頼の万能家電である電子レンジ様がいるのだ。これがあれば、とりあえずはケトルも鍋も、炊飯器だって無くても何とかなってしまう。


今しがた入れたばかりのティーバッグを取り出して、マグカップに直接水道水を注ぐ。

紅茶を淹れるには水道水が良いと言う。日本の水道から出てくる水はミネラル類が少なめの軟水なので紅茶が美味しく抽出されるそうだ。素人にはどの程度のミネラル量なら良いかは判断できないので、下手にミネラルウォーターで淹れるよりは水道水で淹れた方が確実だ。

それをそのまま電子レンジへと入れ、ボタンを押す。


(600wで…、2分か?いや、3分?1分だと沸騰しないだろうし……。いいや、とりあえず3分で。沸騰したら取り出そう。)


電子レンジでお湯を沸かしたことなどないので、どのくらいで設定すればいいかは分からないが、まあただの水だし適当でも問題ないだろう、とズボラな性格がスタートボタンを押した。


行き場のないティーバッグを片手でプラプラと弄びながら、明日のことを考える。

駅の横にある商業ビルで、優先的に必要そうなものの買い出しをする予定だ。今必要な物といえば、食料の他にストッキングにタオル、食器、調理器具、ケトルに炊飯器、掃除機、それからソファにクッション………。


(いやいや、明日買える物だけにしろ。)


実家にいた時とは違って自家用車というものがない今は、買い物に行くとしから徒歩か自転車だ。公共交通機関を使ったとしても荷物の運搬という点においては徒歩と変わらない。つまり、明日買える物には大きさと重さの限度があるということ。食器や小さい調理器具などならいいが、それ以外は無理だ。

家電と大きめの調理器具、家具については引き続きネットでポチるのが1番良い。


──ピーッ、ピーッ!


考えているうちに、電子音が響いて思考を遮る。あっという間に3分経っていたようだ。そういえば、レンジでチンするとは言うが、最近の電子レンジは基本的にはチンとは言わない。


「おわ、結構熱…。」


丁度いいのかやり過ぎたのか、マグカップは熱く、中の水道水はしっかりとした熱湯に変わっていた。ギリギリ持てる熱さの取っ手を持って、リビングへと向かう。


「あちちち…。」


無事にテーブルに置いてはみたが、猫舌の私がこれをすぐ飲めるとは思わない。とりあえず茶葉は冷めない内に入れてしまおうと、ずっと空中を放浪していたティーバッグをマグカップの中に帰してやる。

じわりとお湯が浸食していくティーバッグが少しずつ重たくなる。ティーバッグの紐がお湯に沈んでしまわないように、紐の先のタグを慎重にマグカップの外側に垂らす。

毎回思うのだが、ティーバッグのこの紐とタグはどのようにカップに固定するのが正解なのだろうか。幾度となくお湯に沈めてしまった過去を思い出して、また悩む。


(あ、いい匂い。)


茶葉が開いて赤茶の色素が滲み出し、アールグレイらしい高貴な香りが一気に漂いだす。立ちながらでも分かる程の強い香りに、ほっと息をつくがこうしている場合ではない。


(入れ物入れ物…!)


ティーバッグをそのままずっと浸けていては、紅茶はどんどん渋くなっていく。そのため、ある程度のところで引き上げるのだが、貧乏性のためにそのまま捨てるのは勿体ないと思ってしまうのだ。


(あ、これでいいや!)


キッチンに何かいい入れ物は無いかと探しに来てみれば、シンクの食器置き場に、昨日サングリアを飲むのに使ったグラスが、すっかり乾燥した状態で置かれていた。そのままグラスを取って、急いでリビングへと戻る。


(このくらい…かな?)


美しく色付いた紅茶。その色がそれ以上濃くなってしまう前に、ティーバッグを引き上げる。そのままグラスで受け止めて、良い感じに完成した一番煎じの紅茶を眺めて満足する。

当然、引き上げたティーバッグは後で二番煎じの紅茶を飲むために取っておくのだ。


ティーバッグに入っている紅茶の量はマグカップ1杯にしては少し多い気がするのだ。勿論、1番香り高く旨みのある紅茶の状態にするには、茶葉は1杯に対して贅沢に使用するのがベストだと思ってはいるが、1番美味しいところで引き上げたティーバッグは2杯目を淹れるポテンシャルを持っているのに、そこで捨てられる運命にあるというのが勿体なく感じてしまうのだ。

勿論、一番煎じの紅茶には遠く及ばないかもしれないが、それでも、良い紅茶は二番煎じだってそこそこ美味しいのだ。だからこそ、私は美味しい紅茶を2杯飲むために、いつもこうしてティーバッグを取っておいてしまう。


少しおいて、湯気が落ち着いてきた頃合に、意を決してマグカップに顔を近付けてみる。


(ふわぁぁ…良い匂い…。)


鼻腔全体にベルガモットの湯気の香りが広がる。まだ少し熱さを感じるが、気をつけて飲めば火傷はしないだろう。


……ズズッ、


音を立ててしまったが、ここは家なので問題は無い。

何より、熱い物を警戒して飲む時は空気と一緒に少しずつ飲み物を口にした方が良いのだ。熱湯が舌に直撃するのを防ぐことができる。


(う〜〜ん、美味しい…!)


柑橘系のフレーバーの先に感じる、紅茶本来の豊かな茶葉の香り。上品な苦味と渋みがあるが、早めにティーバッグを出したおかげでエグみはない。まろやかで飲みやすい良い紅茶だ。


(さすがちょっと高いだけのことはある!)


有名な茶葉メーカーの物だ。貰い物だが、飲みきったらまた同じメーカーのを買ってみようか。アールグレイもいいが、ダージリンやセイロンもいいかもしれない。


二口目を口に含む。最初ほど警戒しなくても良い熱さなので、音を立てずに先程よりも優雅に飲んでみる。


……こくり。


(…んふふっ…。)


柄ではないが、なんだか金持ちの貴族のような気分だ。午後の一時に、こうしてゆっくりと紅茶を味わっているだなんて。まるで本国のアフタヌーンティーをしているかのよう。

今度そういう喫茶店でちゃんとしたアフタヌーンティーをするのもいいかもしれない。あの三段のケーキスタンドにケーキとスコーンとサンドイッチが乗っているやつが食べたい。スコーンはクロテッドクリームをたっぷり乗せて。


…と、そこまで妄想したところで、私の脳が我儘を言い出し始めた。


(甘い物が欲しい…!)


脳が糖分を欲している。口に広がる爽やかで温かな飲み物だけでなく、しっかりとした甘さと、それでいて少しの脂質の重みもある、そんな甘味が欲しいと。


(なんか無かったっけ…、クッキーとか…。)


保存食を入れたダンボールを探してみるが、缶詰や乾燥食品、調味料の類が多く、クッキーや焼き菓子などの甘い物はなかった。


そして思い出す、昨日の買い物を。


(いやクッキー買ったぞ!あ、バタープリンも…!)


昨日の私、ナイスファインプレー。よくぞ甘い物を買ったな。しかも2つとも紅茶に合いそうな洋菓子である。私が求めていたものは糖分と脂肪分だ。この2つにはどちらもある。しかし、ここで2つとも食べてしまっても良いものか。どちらか片方にした方がいいのではないか。


(チョコクッキー…、いや、バターも気になる!!)


紅茶といえばチョコやクッキー。故にチョコレートチャンククッキーは黄金の組み合わせと言っても差し支えない。しかしオーソドックスで味の想像が出来ている分、濃厚バタープリンという字面の強さと好奇心が私を揺さぶる。


(っ…!チョコ…ぅ、いや、でも…バターか!!!)


プリンというだけでも甘味の王様的立ち位置なのに、バターというとんでもないパワーを持った後ろ盾が付いてきている。

バターだぞ??あのバター様だ。

料理でもデザートでもお菓子でも、バターが入っている物で美味しく無いものはない。むしろ、バターは多ければ多いほど美味しくなる物だ。


(しかも…っ!濃厚…!)


これほどまでに人を(たかぶ)らせる言葉があるだろうか!


冷蔵庫で冷やしてあったそれを取り出す。実家から持ってきたテーブルスプーンも忘れずにキッチンから持ってくる。デザートスプーンなどという洒落た物は今の家にはない、この通常サイズのテーブルスプーン1つだけである。


紙のパッケージとビニールの蓋を剥がす。まるでアイスのような外装だが、これはプリンだ。プリンといえば逆さにして空気穴の部分を手で折って皿に出すイメージだが、これには空気穴はないし、なにより皿に出すのが面倒だ。このままアイススタイルでいただくとする。


蓋を取ることで顔を覗かせたのは、少し落ち着いた色合いの黄色。そしてバター特有の濃厚な甘い香り。


(”バタープリン”だ…。)


その名の通り、濃厚なバターを前面に押し出した、香りだけで満足してしまいそうな程の濃密さだ。


スプーンで掬った感触は、普通のプリンより少し固いくらい。私は固めに蒸したプリンも大好きなので、これはこれで良い。しかし濃厚さからくる固さという点では、プリンよりカタラーナに近いだろうか。


その重く感じるスプーンを、ゆっくりと口に運んでみる。近付けは近付く程分かる、バターのミルキーで甘い香り。


(…んんん?)


パクッと食べてみれば、味は甘くて濃厚な普通のプリンのようだ。だがやはり脂質という点ではカタラーナに近い気もする。バターなのは最初だけだろうか。案外普通のプリンかもしれない、と飲み込んだ。


その時だった。


(……うっっっわ!!!?)


鼻に駆け抜ける、強烈なまでのミルキーなバター感。まるでバターをそのまま食べたかのよう。そして後味で感じる、僅かなバターの塩味。それがプリン自体の甘さに更に拍車をかけ、より濃厚さを増していた。

口に居なくなっても、なおも広がるバター。いや、居なくなったからこそ(わか)る、強力なバターによる口腔内の支配…!


(すごっ…うま…!)


思わず二口目を食べる。

すると今度は残されたバターの香りが充満した中での深いプリンの味わいを感じる。


(これ、二口目からが本番だ…!)


圧倒的にバター。なのにプリンとして完成されている。香りという最強の手札が残した余韻が素晴らしい。この重さ、この脂質感、甘味、満足感。

これでまだ、全体の4分の1も食べていない…!!


(これはお茶が飲みたくなる!!)


強烈なバターに少しやられそうになり、休憩がてら再び紅茶を飲む。飲みやすい温かさになった紅茶をごくりと飲めば、あの強いバターと張り合える程の威力を持った爽やかすぎるベルガモットの香りが突き抜けた。


一瞬で口を支配していたバターを追いやり、爽やかな風をもたらしたアールグレイ。良い香りを以て良い香りを制す……!

しかしバターも負けてはいない。ほんの僅かだが、鼻と口の奥で存在を示している。しかし不快感はない。程よく香る程度だ。アールグレイの方はそれ以上バターと戦うことはなく、すっと消えていった。


残された感覚としては、バターとアールグレイ戦争ではなく、バターとアールグレイによって平和になった世界だった。

不思議な感覚だ。もっと味わいたい。




(…っん〜〜!うま!!!)


あまりにも贅沢すぎる午後の一時。

乾いた喉も、昼ご飯から少し時間が経って空いた小腹も、同時に満たされてしまった。


(素晴らしい休憩タイムだった…。よし、あと少し!頑張るぞ…。)


残った雑貨類の入ったダンボールを見て、やる気を燃やす。水分補給とエネルギー補給はばっちりだ。今日中にある程度ダンボールは片付けてしまいたい。


──ピンポーン!


そんな折りに響く玄関チャイム。


「っ、…はぁーい!」


インターホンの画面をみれば、宅配便のお兄さんだった。その後ろには台車に乗る大きいダンボール。


「宅配便です!大きいんですが、大丈夫ですか?」

「あっ…戸棚…。…はい、大丈夫です…!」


昨日届くはずだった組み立て式の戸棚だ。今日届いたのはいいが、完全に予定外だった。


私は戸棚の組み立てを今からやるか、明日やるかを考えつつ、インターホンを切るのだった。



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