引越しの夜のハモンセラーノ
「あ〜、やっと終わったぁ...。」
後ろに積まれたダンボールと、目の前にある組み立て式のベッド、床に散らばる余ったネジ達とプラスドライバー。
私───桐谷那都美はオレンジ色に染まる窓の外を見て、大きな溜息を付くのだった。
この4月で支社から本社異動となった私は、長年暮らしてきた実家を後にして28年目の人生で初めての一人暮らしをすることとなったのだ。
確かに、このままいつまでも実家暮らしをする訳にもいかないと思っていた上に、最近は親から結婚についても言われる始末...、正直家を出るタイミングとしては良かったかもしれない。親はいつまでもいないもの。そろそろ親に頼らなくても生きていけるように、自立特訓はしなければならない。
そう思って、不動産屋でアパートを借りるのも、荷造りをして引越し業者に依頼するのも、ある程度は全部1人でやるようにした。引越し当日に新しく買ったベッドと戸棚がとどくように手配したが、輸送の都合でちゃんと今日届いたのは、この組み立て式ベッドだけだった。
早速出鼻をくじかれた気分だったが、ある意味これで良かったのかもしれないと、今は思う。ベッドの説明書には、必ず大人2人で組み立ててくださいと書かれていたが、1人でも大丈夫だろうとタカをくくってやってみれば、意外にも...というか案の定というか、完成するのにかなりの時間を要してしまった。午前中には引越しの搬入を終えたのに気付けば夕方。今日届くはずだった戸棚も、ベッドと同じく組み立て式だったから、それにまで手をつけていたら大変なことになっていただろう。
とりあえず今日は、寝る場所だけでも確保出来たのだから良しとしよう。引越しのために貰った休みは明後日まである。後ろに積まれたダンボールの開封は、明日にでもやればいいか。
ぐぅぅぅぅ...。
静かな部屋に、大きく響いた間抜けな音。
そういえばお腹が減った。昼に齧ったコンビニの菓子パンしか、今日は食べていない気がする。
昼過ぎから始めたこのベッドの組み立てが思いのほか大変で、大きな大きなダンボール箱から複数の板を力ずくで取り出し、取説を睨めつけながらそれらを並べ、夢中になってドライバーをクルクルと回していれば、エネルギーを消費しまくるのは当たり前だ。普段使わない筋肉を沢山使った気がする。前腕と掌なんて力の入れすぎでぷるぷるして痛い。今日はもう何もしたくない。
(ご飯...買いに行こう...。)
動きたくはないが、お腹は減った。
どこか飲食店へ...と一瞬思ったが、1人で飲食店に入ったことがない私にはハードルが高かった。店員の「何名様ですか?」の問いに対して「あっ、すみません1人なんです。」と回答をするには勇気が足りなかった。
駅近くにスーパーがあったはずだから、そこでお惣菜かお弁当でも買おう。
そうと決まれば、そこからの行動は早かった。春と言えども日が沈んだ後は寒いから、適当なパーカーを羽織ってスマホと家の鍵だけを持つ。
駅までは徒歩10分程度。そこにはスーパーの他にも沢山の店があったはずだが、今日のところはスーパーに行くだけだ。私は真っ直ぐにスーパーに向かった。
*******
(あ、信号...。いいや、こっちから行こう。)
無事にスーパーでオムライスという晩御飯をゲットした私は、袋を片手に店を出る。
少し大きめの道路が交差した四つ角に立ったスーパーは、自動ドアを出ると左右2つの横断歩道がそれぞれの対岸に伸びている。
私の家は、方向で言うとちょうど今居るこの交差点の対角線上にある。つまり、左右どちらの方向の横断歩道を渡っても家までの距離に差は無い。
どちらでもいいなら、信号が青になっている方の横断歩道を渡る。なんとなくだが、信号で待っている時間程勿体ないものはない気がするのだ。
そうして渡った信号の先は、先程真っ直ぐ歩いてきた道とは道路を挟んで対岸だ。どこかでまた対岸に渡らなくてはいけないが、暫くはこのまま真っ直ぐ歩いても問題ないだろう。
ぼーっと歩いていると、反対側の道にあった店や建物とはまた違った雰囲気のそれらが目に入ってくる。正直まだ新居の周りの街並みについてはそれ程把握していないから、どんな店がこの辺にあるのかくらい、見ておいた方がいいだろうか。
(ここは中華料理屋、そっちは...雑貨屋さんかなぁ。)
歴史のありそうな老舗の店から、オシャレな新しそうな店まで、大通りに面した区画だからか、様々な店が立ち並ぶ。
日が落ちた今、雑貨屋などは店仕舞いをしている所もある。その中で、飲食店の外灯はよく目立った。
(あ、ここ美味しそう...。また今度来てみようかな。)
今はもう夕飯をスーパーで買ってきてしまったところだ。残念ながら、飲食店に行くのは後日だ。
(ん?あれは...、)
それは薄暗くなってきた視界の先、古い飲食店の外灯が霞んでしまうような大きな明かりがあった。そのまま近付いていってみると、どうやら大きめのビルの1階にこれまた大きめなお店が入っているようで。何のお店かと思えば、看板は見覚えのあるものであった。
「BELDI...。」
それは輸入食品で有名なチェーンのセレクトショップだった。実家の近くの大型ショッピングモールにも入っていたのを思い出す。
(こんなとこにもあるんだ。)
ショッピングモールの店舗と違って、店内が少し広そうだ。しかし天井までギッシリと並んだ様々な商品と、漂ってくるコーヒーの香りには覚えがあった。
ショッピングモールには服や雑貨を買いに行くことが主な目的であったため、こういった食料品店に足を運んだことはない。近くを通り過ぎる度に、その商品の多さやコーヒーの香りが印象深い店だなと思っていた。
てっきり、そういった場所にしかない店だと思っていたから、こんな市街地にあるとは思わなかった。
(相変わらず凄い店だなぁ...。)
今は服屋という目的地も特になく、ただ街並みを見ながら帰宅しているだけだったので、思わず足を止めてその店の品物たちを見てしまう。
外国のお菓子や保存食、それにお酒なんかが売られている。有名なメーカーのパッケージをしたお菓子もあれば、見たことの無いものまで。店先から見える物だけでもこれだけの種類があるのに、店の奥にまで商品がぎっちり並んでいるのが見える。
「コーヒー、いかがですか?」
「えっ、ぁ...私?」
店内の方へと意識を持ってかれていた折に、不意に声を掛けられて驚く。意識を声がした方へと向ければ、BELDIの店員と思わしき女性が、店先に立っていた。見れば手元にはステンレスのポットと紙コップを持っている。試飲のコーヒーであろうそれを持って、他ならぬ自分の方を向いて笑顔で声を掛けてきた。
「ええ、よかったらどうぞ。飲んでいってください。」
そう言われてニコニコと紙コップを差し出されてしまうと、なんとも断りずらいもので。私は小さくお礼を言いつつ、その紙コップを受け取ってしまった。
「よければ店内もご覧下さい。」
「ぁ...はい...。どうも...。」
罠だ。これは巧妙に仕組まれた罠である。
コーヒーの香りで人をおびき寄せ、餌を与えることによって店内へと引き込む高等戦術なのだ。ショッピングモールでその罠にかかった人々が店内に吸い込まれていくのをよく見たことがある。いつも店の前を素通りするだけだったので店員から声を掛けられたことはなかったが、店の前で立ち止まってしまえば、それはもう店員にとっては格好の餌食であった。
そして渡されたコーヒーを受け取ってしまえば、"物を訳で貰ったのにタダで帰る訳にはいかない。せめて品物を見るくらいはしなくてはいけない。"という、人としての良心が立ち去ることを良しと出来ずに、まんまとそのまま引きずり込まれてしまうのだ。
(まあ、ちょっと見るだけなら...。)
そう思って招かれるままに店内へと入る。そして手に持った温かいコーヒーを覗き込めば、中身はブラックコーヒーではなく、カフェオレのようなクリーミーな見た目をしていた。
(あ、これなら飲めそう。)
思わず受け取ってしまったはいいものの、私は苦い物が得意でないため、ブラックコーヒーは飲んだことがない。コーヒーの落ち着くようないい香りが店の外にまで漂っていたくらいなので、店先で配っているのはブラックコーヒーだと勝手に思い込んでいた。
(カフェオレでもこんなに深くていい香りがするんだ。)
カフェオレといえば、私の中ではコンビニで売っているようなストローが付属しているタイプか、ペットボトルで売られているものが真っ先に浮かぶ。しかしあれは基本的には甘さと飲みやすさを前面に押し出したものであるため、コーヒー本来の香りというものはあまり感じない。
そういった印象から、カフェオレはそれ程コーヒーらしい香りはしないものだと思い込んでいたものの、やはり淹れたてのカフェオレは違ったようだ。
ズズ...っ、
猫舌の私は、熱いのを警戒して、ほんの少しだけ啜ってみることにする。
(ん、熱い...。けど、甘くて美味しい...。)
多少熱いが、火傷する程ではなかった。
鼻を近付けたことによって、コーヒーの芳醇な香りが鼻腔いっぱいに広がる。生きている自然の花のような爽やかで華やかな香りだ。そしてミルクで中和されているとはいえ、コーヒー特有の味はするのに苦味はそれ程感じない。むしろスッキリとした飲み心地だ。
...あれ、コーヒーってこんなに美味しいものだっけ。
初めて飲んだBELDIのコーヒーに感動していれば、無意識でゆっくり歩を進めていたようで、気が付けばしっかりと店の奥へと入っていた。周りを見れば、見たこともない外国の食品が並んでいた。
(こっちは韓国料理...、あっちはカレーっぽいからインドかな...、そしてこっちは東南アジア系...。)
棚ごとに色々な国の食材が並んでいる。まさに輸入食品店である。カレーやスープなどの調理済みのレトルト食品であれば手を伸ばしやすいが、缶詰の食品や何に使うか分からない調味料などは、素人には扱えない商品だ。
海外に行ったことはないが、海外の食べ物は嫌いじゃない。色々な物を食べることは大好きだ。いつか友達と行った多国籍料理店でもどれも美味しく食べる事ができた。
ここには、その時食べた料理名が書かれたパッケージの商品もあったが、商品サイズを考えると合わせ調味料が入っているだけで、食材は自分で用意しなければならないのだろう。
(うーん...気になるけど、ちょっとハードル高いか。)
そう思いながら店内を見回っていると、やがて辿り着いたのは冷蔵食品とお酒のコーナーであった。
お菓子や保存食品と調味料ばかり売っているのだと思っていたが、チーズや加工肉といった要冷蔵品が売っているとは思っていなかった。ほかのコーナーより少し区画は狭いものの、その冷蔵ショーケースには様々な種類のチーズと加工肉が売っている。
(生ハム...!美味しそう...!!)
日本人からすれば、生の塩漬け加工肉は総じて生ハムという名称で呼んでしまうものだが、ショーケースを見れば生ハムと書かれたもの以外にも、プロシュートにパンチェッタ、コッパ、サラミといったオシャレな名前のものが並んでいる。
生ハムは私の大好物であるのだが、近所のスーパーに売っているのは、お手頃なサイズと価格で、脂身が少なく薄くて透き通った肉質のロース生ハムだ。あれも大好きなのだが、オシャレなイタリアンの店で食べるパスタに乗った生ハムとはまた違うのだ。
(なにこれ、大きい!)
その中でも一際目を引くものがあった。他の加工肉と同じく薄く切られてはいるのだが、圧倒的に他のものよりも1枚のサイズが大きい。そしてなにより、スーパーの安い生ハムにはない、涎が垂れてしまいそうな程に大きく付いた綺麗な白の脂身。もちろん、赤身の部分にもきめ細かく入っていて、さながら高い霜降りの牛肉のよう。
(こんなのあるんだ!...ハモンセラーノ...、聞いたことはある!これか...!)
それこそ飲み会で訪れたイタリアンバルのメニューにあったのを見たり、実家でテレビ番組を眺めていた時に食レポされているのを見たことがある程度だ。つまり、まじまじと見るのは初めてだ。
(食べてみたい...!値段は...、あっ意外と安い!)
確かにスーパーの300円程度の生ハムよりは高いのだが、こんなに大きくて脂も乗っててしっかりとした肉感があるのだ、オシャレなイタリアンバルなんかで食べたら1000円はしそうだ。それが500円くらい...ワンコインで買えてしまう。
これは...
(買い、だわ...。)
手に取ったそれを見て、私はごくりと涎を飲んだ。
片手にスーパーの袋をぶら下げながら、もう片手でハモンセラーノをしっかりと掴んで、そのままレジへと向かう。
レジはここから酒類が売っている棚の方へ向かってさらにその先だ。これでもかと並んだ酒瓶の間を抜けていく。
(これ...全部ワイン??)
暗い色をした背の高い瓶は、外国語で書かれた上品なラベルが貼られている。確かに、ここは輸入食品店なのだ。ワインが多く売られていて当たり前だ。それに、先程見ていた冷蔵ショーケースも、チーズや加工肉などいかにもワインに合いそうなものばかりであった。赤ワインに白ワイン、それからデザートワインに、葡萄以外の材料でも作られたフルーツワイン。
そしてちょうど目の前で大きくSALEと書かれた札の後ろには、他のワインとは違って可愛らしいラベルの瓶。分かりやすく目玉商品として売っているのだろう、沢山並べられたそれ。
「こちらオススメ商品となっておりまーす!今日まで非常にお買い得となっておりまーす!」
声の通る店員の呼びかけが店内に響く。そして目の前にいた別の客が、その瓶を買い物カゴに2本入れていった。
人気商品なのだろうが、どうやらSALEなのは今日までらしい。どんなワインかと思って見れば、ラベルに書かれていたのは"サングリア"の文字。
「あっ、どうですか?このサングリア!そのハモンセラーノにもよく合いますよ〜!」
私に気付いた店員が呼び掛けてくる。
サングリアか、ワインはワインでも様々なフルーツの入ったそれは、ジュースのように甘くてフルーティで飲みやすい。そしてなによりSALEで750mlのワインボトルなのに800円程度で買えてしまう...!
やめてくれ、今の私はハモンセラーノという素晴らしい生ハムに出会えていつもよりちょっと浮かれているのだ。それにそのハモンセラーノと合うなんてセールスをされてしまっては。
「あ、買い...ます...!」
今の自分、財布の紐ゆるゆるか。
しかし、自分への引越し祝いということで、今日くらいいいんじゃないかと、そういう言い訳も考える。
とはいえこれ以上はスーパーの荷物もあるし、これ以上は辞めておこう。そうして今度こそ真っ直ぐとレジへと向かう。
「お買い上げありがとうございました〜!」
少し中身の増えたスーパーの袋と、腕に抱えた緩衝材に包まれたサングリア。
結局レジ前にあったプリンとクッキーも買ってしまった。なんで食品店って、レジ前に手軽に買えてしまう小さめのお菓子類を売っているのだろう。罠か。これも罠だ。全部罠だった。
だって、バターの魅惑的な文字がデカデカと書かれたプリンと、大きめの角切りチョコがたっぷり入った大きなチャンククッキーなんて、見たら買うに決まっているでしょう!思わず「あ、これもいいですか?」と、丁寧にワインに緩衝材を巻いてくれている所に商品を追加してしまった。
********
家に着いて、スーパーの袋を開ける。
すっかり冷たくなったスーパーのオムライスと、明日食べるために買ったお惣菜パンとサラダやお茶。それからBELDIのハモンセラーノとプリンとクッキー。
とりあえず、オムライスはレンジでチンするとして、サラダとプリンは冷蔵庫に、パンとクッキーは一旦机に置いておく。
まだ必要最低限の家電と家具しか置いてないので、そのうち保存食を置く棚とかカゴとかを買わなくてはならない。
そしてハモンセラーノとサングリアだ。
サングリアはコルク栓ではなく、蓋を回して開けるだけのスクリューキャップだったので、栓抜きが無くても問題はなかった。少々風情はないが、ワイングラスなんていう高尚なものは今は家にはないので、普通のガラスコップにサングリアを注ぐ。ルビーのような綺麗な赤ワインだ。甘酸っぱくて爽やかな香りがする。注がれているコップが安物なばかりに、ジュースのように見えて仕方ない。
ハモンセラーノは薄手のパックに入っており、薄切りの大きな肉が4枚入っている。ペリペリと蓋を剥がしていると、ちょうどレンジに入れたオムライスが温まったようだ。
熱くなった蓋を開ければ、デミグラスソースのかかったオムライスが湯気を上げて現れた。少々加熱しすぎてしまったようだ。猫舌の私にこの湯気が上る食べ物をそのまま口に入れる勇気はない。少しだけ置いておこうか。
冷ましている間に、先程のハモンセラーノをいただくことにする。
割り箸で1番上の薄切り肉を摘む。そのまま持ち上げれば、ぺろんっと剥がれて赤身部分が持ち上がった。
(おお...!重い...!ってあぁぁぁ......。)
1枚が掌より大きいそれは、半分も持ち上がらない内に、赤身部分と脂身部分の境目でちぎれてしまった。脂身は下に重なっていた肉にくっついてしまっているようだった。冷やしてから食べていればちぎれ無かっただろうが、買って歩いて帰宅してそのまま開けたために、脂身がしっとり、くったりとして重い。まあ、これはこれで美味しそうだからいいか。
そのまま箸でちぎれた一口程度の赤身を口に入れた。
(んっ!!!!美味しい!!!!!)
舌に触れてまず感じるのは塩味。そして肉を噛んで広がるのは熟成された肉に詰まった旨味だ。塩味は旨味を倍増させる。
(ん?あれ、しょっぱいけど...しょっぱ過ぎない!!)
スーパーの生ハムを食べ慣れな私には新鮮な感覚だった。
生ハムといえば肉の旨味もあるが、やはりしっかりとついたその塩味だ。しょっぱいものを欲している時には堪らない。パスタの上にあるならばパスタが進むし、バケットの上にあるならばバケットが進む。ご飯のお供ならぬ、小麦のお供だろうか。もちろんご飯にだって合うが。とにかくその突き抜けるような塩味と噛んでいる内に出てくる肉の旨味が最高なのだ。
しかしどうだ、このハモンセラーノは塩味が柔らかいのだ。まろやかとも言えるちょうど良い塩分に、噛み始めからすぐに出てくる肉々しいコクと旨味。霜降りのように赤身にも入っている脂身がそうさせているのだろうか?
ちぎれて残った脂身の部分も上手いこと剥がして食べてみる。しっとりとした白い脂身は、一見するならそれだけでは胃もたれを起こしてしまいそうになる。しかし、安い生ハムにはない確かな脂身の旨さを知った今の私には何よりのご馳走に見える!
(...!!!甘い...!?!?)
舌に乗った瞬間、とろりと溶けそうなそれに感じたのはほんのりとした甘み。しょっぱいはずの塩漬け肉の脂身が、まさか甘みを有しているだなんて。
噛めばさらに広がる旨味。旨味と言うのは舌を包み込むような味、まとわりつくような味と表現されることが多いが、この脂が舌全体に広がって優しい甘さとまろやかな奥深い塩気を届けてくれている現状が、まさにこの旨味を体現していると言える気がする。
なんて美味!なんて贅沢なこの一口だろう。
(口の中が幸せで満たされてる...!)
口の中から無くなってしまうのが惜しい。しかし無くなってもなお、舌に残り続けるこの旨味が凄い。熟成された旨味、ここまで凄いものだとは。
もう一口食べたいものだが、ここでサングリアの方もいただいてみよう。グラスのコップにジュースでも飲むかのように口付けてみる。
(甘酸っぱい!いい香り...。)
鼻腔に広がったのは、葡萄と柑橘系とほんの少しのスパイスのような香り。普通の赤ワインにはないこのパンチのある香りが良い。
口に入れれば、やはり広がるのは上品な甘酸っぱさ。赤ワインといえば酸味と渋みだが、甘さが酸味と渋みを優しく抑え、スッキリとフルーティな味に仕上がっている。
(なにこれゴクゴク飲めちゃう...!)
おっといけない、あまりにも飲みやすくてまるでジュースのようだが、これはあくまでもお酒だ。その優しい甘さと酸っぱさに隠れてはいるものの、奥にしっかりとしたアルコール特有の重みと深み、少しの苦味を感じる。
「ぷはぁ...っ」
胃に落ちた液体から、じんわりと熱さを感じる。うっすらと感じたアルコール感に、なんだか少し気分が高揚した。
その勢いのまま、もう1切れハモンセラーノを頬張る。今度は赤身と脂身がいい感じに一緒になっている所だ。
(えっ、なにこれさっきとはまた違う...!?)
口に残ったサングリアの甘味と酸味、それからワインの奥にいる僅かな苦味が、ハモンセラーノの塩味と旨味によって違う調和を見せる。
じわっと唾液が溢れるのが分かる。今、この口の中に全ての味覚が揃ったのだ。
(うっっ...まぁ...!!!)
余りの感動に、大きなハモンセラーノの一切れと、グラス一杯のワインがどんどん無くなっていく。
しばらくその2つのハーモニーに浸っていると、グラスの底が見えたところで、そのままにしてあったオムライスに気が付いた。
(あ、忘れてた。オムライス食べなきゃ。)
少しだけポワポワと気持ち良くなってきた頭で、デミグラスソースのオムライスを見つめた。
サービスで入れてくれたプラスチックのスプーンを取り出して、湯気は見えなくなったが温かいオムライスを掬った。
(うまっ!普通にめっちゃうまい...!)
とろとろの卵が味の濃いデミグラスソースと絡んで、うっすら味のついたケチャップライスと黄金比で攻めてくる。こんなの旨いに決まっている。この組み合わせに間違えはないのだ、知っている。スーパーの惣菜であっても馬鹿にはできないのだ。確かにレストランのそれとは違うが、ここには、ここにしかない旨さがある。
(......は!ちょっと待てよ!?)
隣に置いてあるハモンセラーノを見る。
そして思い浮かべたのは、レストランで見た生ハムがトッピングで乗ったオムライス。
(出来る...!この、生ハムの上位種で、アレが出来る...!)
思い立ったら即実行。箸に持ち帰るでもなく、もはや手で2枚目のハモンセラーノを引っぺがして、さらにそれを一口サイズにちぎってオムライスの上に乗せていく。
(これだ...!)
出来上がったのはオシャレな洋食レストランで見かけるようなそれだ。1人前398円なんていう庶民の味方のようなオムライスが、見た目だけで言えば1500円程の高級なオムライスに生まれ変わった!
ハモンセラーノ、そして卵とデミグラスソース、ケチャップライスをスプーンにいっぱい、ごっそりと掬う。乗せすぎなんて野暮なことは言うまい、せっかく揃ったこのオールスターを口の中で一堂に会させるには、これしかないのだ。大きな口を開けて頬張れば良い。
(うーーーーん...、.........。......美味しい!!!)
やはり入れすぎだったため、しばらく食材同士が上手く口の中で合わさらなくてモゴモゴとしてしまったが、噛んでいるうちに、ハモンセラーノが塩味が口に広がり、卵のまろやかさと、デミグラスソースの酸味、それらがひとつになって油分が纏めあげ、なんとも言えない深い美味さになっている。ケチャップライスの甘みも相まって、先程のサングリアとの組み合わせに近くもあり、全くの別物でもある旨さが誕生した。
行儀が悪いのは自覚しつつも、もぐもぐと食べながらサングリアの瓶を再びコップへと傾ける。
そしてごくりと口の中のものを飲み込み、すぐさまサングリアを流し込む。
「うまぁ〜〜っ!」
こんな食べ方、こんな飲み方、一人暮らしの家でしかできない。
サングリアは本来こんなビールやサワーのようにゴクゴクと飲むような飲み方はしないし、ハモンセラーノも最早手でちぎって食べて、好きなだけオムライスに乗せていくだなんて。
(はぁ...!なんて贅沢...!!)
オムライスはスーパーの安物、サングリアはセール品、ハモンセラーノはワンコイン以下。
ちょーーーっとだけリッチに晩酌してみたが、これだけでこんな幸せを味わえるなんて!そして自由気ままに好きな物を食べれるこの背徳感と開放感!
(また買いに行こう...。)
一人暮らしとは恐ろしい。こんなことをしても誰も止めないし誰にも奪われない。どんな物を食べようが私の自由だし、全部自分だけの物なのだ。
美味しいものを食べた幸福感とアルコールによる高揚感で、少し気が大きくなったのが分かる。
でも、今だけは誰にも迷惑は掛けないので、この贅沢な幸せに浸かっていたい。
残りのオムライスを頬張りながら、今はまだ殺風景で静かな一人だけの空間を、私はニッコリと目を細めて愛おしく見つめた。