表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

物憂げな亜麻色の髪の乙女

作者: りりー

「……姉ちゃん、いつまでそこで泳ぐの?」

「おっ、裕太そこにいたんだね。もっと浅瀬にいるかと思ってた」

 私たち姉弟は、この海によく遊びに来る。夏はほぼ毎日遊びに来ている。この町には夏だからといって夏祭りを除いては、面白いことは特に何もない。海で泳ぐくらいしかやることがないのだ。

「もうすぐお祭りだね。今週の土曜か。早く土曜にならないかな」

 裕太は浜辺に寝転がりながら、嬉しそうに私にそう言った。小学四年生の運動神経の悪い、優しい弟だ。

 日が暮れてきたので、二人でゆっくりと歩いて家に帰る。家に近づくにつれて烏賊と里芋の煮物の匂いが漂ってきた。

「ただいまー」

 家の中はとても静かだ。家中に煮物の美味しそうな匂いが充満していた。

「ねぇ裕太、オセロやろっか? 勝ったほうが負けたほうにデコピンね!」

「えー、嫌だよ。姉ちゃんのデコピン痛いんだもん」

「痛くなくちゃつまらないでしょ? ほら、やるよ」

「わかったよ。ボード持ってくるね」

 裕太は駆け足で部屋を出て行った。無音。夕暮れ時、薄暗くなった部屋に急に一人になると、突然悲しい気持ちになってしまった。私はそっと棚からお煎餅を取り出し、一人で食べた。そして早く裕太が戻ってくればいいのに、と思った。無音の世界に汗が一滴垂れる。ぴちゃん。私は何でこんなに悲しい気持ちになってしまったのか、自分でもよく分からなかった。

 しばらくすると足音が近づいてきて、襖が勢いよく開けられた。裕太は息を切らしながら、オセロのボードを胸に抱えて部屋に入ってきた。

 オセロはいつものように私が勝ち、裕太のおでこに向けて思いっ切りデコピンをした。うまくいかなかったのでもう一回した。裕太は笑いながらも、少し涙目になっていた。それを見て私は腹を抱えて笑った。畳に涎が一滴垂れた。ぴちゃん。

 気が付いたらもう夕飯の時間になっていた。お母さんが私たちを呼んでいる。いつの間にか帰ってきたみたいだ。今行くと返事をすると、裕太と二人で食卓のある部屋へと走っていった。


「いただきまーす」

 裕太は食べるのがとても遅い。噛む回数がやけに多いのもあるが、基本的に一つ一つの行動がゆっくりなのだ。テレビの内容が面白いとさらに遅くなる。

「ごちそうさま。にゃーの餌はもうあげた?」私はお母さんに尋ねた。

「あ、まだだわ。優、あげておいてちょうだい」

「はーい」

 我が家には一歳の雄猫がいる。生まれて間もない時、捨てられていたのを裕太が拾ってきたのだ。いつの間にか家族からはにゃーと呼ばれるようになってそれで定着してしまったので、名前は『にゃー』だ。

 裕太はそこまで真剣に観る必要はあるのかと思う程の真剣な目付きで、テレビを観ながらご飯を食べていた。何気なくお父さんを見ると、全く同じ表情で箸を持ったままテレビを観ていた。私はお母さんにねぇねぇと言うと、二人を指差して笑った。お母さんも食べていた里芋を吹き出さないよう、手で口を押さえながら笑った。


 調理場に置いてあったキャットフードの袋の中身はもうほとんど残っていなかった。玄関にストックがあったので、取りにいこうと襖を開けて居間を出た。そして玄関に向かって暗い廊下を一人で歩いているとき、悲しみの感情が襲ってきた。今度は胸が締め付けられるように苦しくなり、その場に倒れ込んで膝をついた。涙が溢れ出て止まらない。どうしてこんなに悲しいのだろう。誰か側にいて欲しい。このまま一人で震えながら泣いているなんて絶対に嫌だ。でもその思いは虚しく、声もなく泣き続ける以外の行動を取ることは、今の私には出来なかった。

 時間の感覚が分からなくなるくらい、倒れ込んだまま私は泣き続けた。居間からはテレビの音とみんなの笑い声が聞こえた。私はどうしてしまったのだろう。何も悲しいことなんてないじゃないか。今の生活に不満なことはない。あえて言うなら、日々の退屈さくらいのものだ。私は人並みか、それ以上に幸せな人間のうちの一人のはずだ。それなのになぜ? なぜこれからの一秒先がこんなにも怖いのだろう。

 私はそれからもしばらく泣き続け、涙も枯れた頃、突然居間から出て来た裕太に見つかった。私は涙を見せぬよう俯きながら急いで立ち上がると、玄関に向かって走り出した。私はキャットフードの袋を手に取り、何事もなかったかのように居間に戻っていきたいのだ。こんなところで泣き続けていたくなんかない。裕太は戸惑ったような表情で立ち尽くしている。私は涙を左の手の平で拭いながら、右手で勢い良くキャットフードの袋を持ち上げた。するとキャットフードの袋の重さと反比例するように、私の心は一気に軽くなったような気がした。にゃーがゆっくりとこちらに近付いてくる。私が握り締めているキャットフードの袋を真剣な眼差して見つめている。ほら、今あげるから待ってなさいね。今すぐお姉ちゃんがあげるから。





 路上にそっと腰を下ろした途端、僕は強い眠気に襲われた。よほどこのまま眠ってしまおうと思ったが、そうはいかない。しばらくそこで座ったり立ったりして待った。約束の時間から十分遅れて車はやってきた。車の中からよっちゃんが手招きをしている。助手席には優ちゃんが小さな身体を丸めて眠っている。よっちゃんは僕の幼馴染で、優ちゃんは大学時代の女友達だ。そして今ではよっちゃんと優ちゃんは付き合っている。

 僕が車後部座席に乗り込むと、よっちゃんが口を開く。

「トイレ大丈夫?」

「うん、大丈夫」

「そっか。じゃあこのまま向かっちゃおう」

 車は新車特有の匂いがした。車の中ではほとんど喋ることもなく、僕らは目的地へと向かった。

「着いた。駐車場に停めてくるから先降りてていいよ」

「分かった」

 僕はそう言いながらも車から降りず、煙草に火を点けた。ドアガラスが開いて、夜の空気が車内に流れ込んだ。

「そう言えばよっちゃんさ、不倫まだ続いてるんだっけ?」

 優ちゃんが起きているのを知って、僕はよっちゃんにそう言った。

「え、なんの話?」

 よっちゃんは笑いながら言葉を返した。よっちゃんは笑うと瞼が完全に閉じてしまうので、目がなくなってしまう。よっちゃんと話をしていると、優ちゃんが目を覚ました。優ちゃんはゆっくりと髪をかき上げながら、僕を睨んだ。

「なんだ優ちゃん起きてたのか。なんでもないよ、じゃあね」

 僕は車から降りて二人に手を振った。

 僕はそのまま店に入った。オリーブオイルの匂いが充満するイタリア料理店。昔優ちゃんとよく来た所だ。席に着いてまだ右手に煙草を持っていたことに気付き、目の前の灰皿に放り込む。しばらくすると入り口扉のガラス越しに優ちゃんとよっちゃんの姿が見えた。

「ほら言ったでしょ? 雄君なら先入ってるって」

 そう言いながら優ちゃんが店に入ってきて、よっちゃんがそれに続く。一瞬何の話か分からなかったが、少し考えて僕が二人を待たずに店に入ったことについてだと分かった。

「ごめん。先入っちゃった」


 三人で食事をしながら僕だけ酒を飲んだ。僕は料理にはほとんど手をつけなかった。

「相変わらず何も食べないで、酒ばかり飲んでるんだね」

「ウィスキーだって麦からできている。だからこれは俺にとっては食事なんだよね」

「雄君は変わらないね」

 呆れながらも、どこか愉しそうに優ちゃんはそう言った。僕と優ちゃんが話をしている間、よっちゃんは黙々と食事をしていた。よっちゃんだけが店に漂う幸福な雰囲気に、少しだけ含まれていないように感じた。

 食器が片付けられ、僕が三杯目のロックグラスを飲み干したとき、よっちゃんが口を開いた。「なぁ雄介、聞いてくれ。俺達、結婚しようと思ってる」

「……できちゃったの?」

「いや、そういうわけじゃない」

「ふーん。できちゃった結婚も昨今、珍しくない」

「だからそうじゃないって。俺が結婚を申し込んだんだよ」

 僕は笑みを浮かべながら空になったグラスを口に付けた。だめだ、動揺している。それを悟られないように煙草に火を点ける。こんな時に限って周りがやけに静かだ。優ちゃんが突然、僕と同じウィスキーのオン・ザ・ロックを頼んだ。

「めでたいことじゃないか。おめでとう」

 僕はそう言った。

「雄介にそう言って貰えて、嬉しいよ」

 よっちゃんは目をなくして微笑んだ。僕は笑顔でよっちゃんと会話を続けた。優ちゃんは人事ごとのように美味そうにロックグラスを傾けている。僕は麦から出来たその琥珀色の液体を恨んだ。なぜだか知らないが、そうせずにはいられなかった。


 よっちゃんと優ちゃんが初めて会ったのは、夏の日の夕暮れ時、大学生だった僕と優ちゃんが僕の部屋でやっている最中、よっちゃんが僕の部屋を訪ねてきて鉢合わせになった。鍵はかけ忘れていた。僕らは夢中になっていて、チャイムに全く気が付かなかった。僕はよっちゃんに混ざらないかと誘った。そしてよっちゃんも混ざって三人でやった。

 なぜだか僕らは気が合い、その後も三人で時々会うようになった。そしていつの間にか僕と優ちゃんは二人でするのをやめてしまった。元から付き合っていたわけでもなかったので、それも自然な流れだった。


 僕らはその後、食事をしながら沢山話をした。僕は途中で頭がぼんやりしてきて、今自分がどこで何をしていているのか段々とよく分からなくなってきた。乾いた空気の中、じめじめしたものに想いを馳せる。景色がまるで昨日のことのように知らんぷりで流れる。酔う。酒に酔う。ほんのりとした甘い気分の中、物思いに耽る。一分が一時間に、一時間が小学生の時の夏休みのように感じる。プール帰りのアイスみたいにゆっくりゆっくりと夜が溶けていく。僕はそれを垂らさないように丁寧に食べる。食べ過ぎて頭が痛くなってきたみたい。それともただの飲みすぎか?

 ふと我に返る。僕は急いで頭の中を整理する。そう、僕は今、よっちゃんに誘われて優ちゃんと三人で食事をしに来ているのだ。頭が働き出すと、僕はもっと酒が飲みたくなった。


 午後十一時過ぎ、僕は明日早いからと言って、席を立った。随分酔っていたので、心配したよっちゃんが家まで送ろうかと言ってきたが、丁寧に断った。僕は足早に店を出た。そして明るく賑やかなイタリア料理店から一人、捻くれ者の夜の虫のように暗い夜道へと消えていった。


 家に帰って一人になると、すぐにベッドに散乱している睡眠薬を数錠口に含み、小瓶に四分の一程残ったウィスキーを一息で飲み干す。たちまち焦燥感と多幸感、感情とイメージが溢れ出てくる。昔の記憶、今の自分、そしてこれからのこと。どれも輪郭がぼんやりとしている。目の前の現実だってそうだ。僕は今、輪郭のぼやけた現実に生きている。夢よりも何もかもが不明瞭な世界。僕は今まで何がしたかったのだろう。そして今、何がしたいのだろう。

 ふと目を瞑ると、そこではもう夢が始まっていた。海の風景、音、匂い。急いで目を開け、目覚まし時計のアラームをセットする。意識が朦朧としていて、なかなか思うようにいかない。時間をかけてアラームをセットし終えると、無性に煙草が吸いたくなった。僕は机の上にあるライターを手に取り、煙草に火を点けた。しかし次の瞬間、僕はベッドに戻っていた。それを何度も何度も繰り返す。とても煙草が吸いたい。しかし何度やっても吸えない。


 ――辺りは僕が昔住んでいた実家に変わっていた。時間は夕方の終わりと夜の始まりの丁度真ん中ぐらい。優ちゃんと二人、親に気付かれないようにこっそりと脱衣場で服を脱ぐ。優ちゃんの白い肌が最後の夕日と出始めの月明かりに照らされる。優ちゃんは小さな声でシーっと言い、人差し指を口に当てながら服を脱いでいる。途中からは胸と局部を隠すためにその手は使われた。

「明かり、点けちゃっても大丈夫かな?」

 優ちゃんは声を潜めて話した。

「親のいる部屋はここから遠いからね。多分大丈夫だと思う」

「……でもさ」

「ん、なに?」

「暗い方が興奮しない? なんだか」

 僕らは電気の点いていない浴室に入る。暗さのために距離感が掴めず、足下に気を付けながら手を繋いでゆっくりと歩を進める。暗闇の中にある浴槽は、夜の海を思わせた。大航海時代、小型帆船の中で夜になっても一人だけ寝付けないでいる船員のことを考えていた。僕は今、彼に強いシンパシーを感じている。

 二人でゆっくりと浴槽に入る。その頃には僕の勃起は確かなものになっていた。それは優ちゃんの脛に食い込むように当たっている。それを月のような冷たい瞳で見つめる優ちゃん。どこか官能的な笑みを浮かべている。それを見て僕は激しく欲情する。優ちゃんは淫靡ににやつき、僕の目をじっと見つめる。そして僕は我慢が出来なくなって、浴槽の中で精液を出してしまう。


 目の前の風景が切り替わる。


 ――僕は一人、レンタカーを借りにきている。手続きが終わると、借りたばかりの青い車に乗り込んで車を走らせる。実家の近くの有料駐車場に車を停めた後、家の玄関の前まで歩いて優ちゃんを迎えに行く。優ちゃんはTシャツにホットパンツという格好で出てきた。表情が柔らかく、とてもリラックスしているように見える。軽快な足取りでこちらに近づいてくる優ちゃんに、僕は話しかける。

「今日の優ちゃん、夏って感じだね」

「ふふっ、でしょ?」

 車に乗り込み、助手席に座っている優ちゃんの方を見る。ふと、何かが引っかかった。いつもと何かが違う。そういえば、髪の色がいつもより薄いような気がする。でもいつもと違う優ちゃんも新鮮で良い。何より似合っている。

 そのまま僕らはスピーカーから流れるくるりの曲を口ずさみながら、晴天の青空の下、車を走らせた。

「本当、いつまで経っても運転下手」

 こちらを見ながら優ちゃんは言った。

「でも下手な人のほうが安全運転だっていうし」

「でもやっぱり、もうちょっと上手くなった方がいいよ」

「まぁそうだよね」


 途中で何度も車の運転を馬鹿にされながらも、車は山道へと入っていった。すぐ隣は崖になっていて、ガードレールもない。

「危ない、危ないって、スピード落とさなくていいの?」

 僕はカーゲームのような乱暴な運転をしていた。そして数分後、崖から落ちてしまった。落ちた先は海だった。

 運良く開けてあった窓から大急ぎで抜け出した後、海に浮かびながら二人は笑い始め、ついには腹を抱えての大笑いになった。

「だから言ったでしょ、もう。馬鹿みたい」

「優ちゃんの言った通りだったね」

 しばらくして笑いが収まった後、優ちゃんは急に寂しげな表情になってしまった。そして数分間の沈黙の後、ぽつりと言った。

「夏……終わっちゃうね」

「どうしたの?」

「ううん、何でもない」


 その瞬間、僕は目覚まし時計のアラームによって現実の世界へと引き戻された。

 朝日に照らされながら、僕は長い間ぼんやりとしていた。僕は思い出したように煙草に火を点けると、思い切り煙を吸い込んだ。





 朝から雲が辛気臭く流れている。僕は職場の喫煙所で煙草を吸いながら、今朝見た夢のことを考えていた。そしてその内、なぜだかとてもやり切れない気持ちになってしまった。

 仕事を終えて外を歩いていると、夜風が冷たくなってきていることに気付いた。夏の終わりのちょっとしたセンチメンタリズムを味わいながら、一人バーへと向かった。僕が一番落ち着く場所、騒がしいバー。

 カウンターで三杯目のウィスキーのオン・ザ・ロックを飲んでる時、僕の隣に女性が座った。

「グラスホッパーで」

「はい」


「俺ね、昔仮面ライダーになりたかったんだ」

「なんで急にそんな話をするの?」

「なんとなく」

「どうしたの? 随分ピッチが早いみたいだけど。ひょっとして失恋でもした?」

「ちがうよ、そんなんじゃない」

 隣の女性は長い前髪をいじりながらこちらを見ている。女性の勘は恐ろしいものがある。男は逆立ちしたって敵わない。

 話し込んでいて、ふと時計を見ると、二時間近く時間が経っていた。彼女と話していると何故だか話題が尽きない。大した話ではないのだけれど、それでも次から次へと話は膨らんでいく。店内は入ったときよりも騒がしくなってきた。声が聞こえないので話す時の顔が近くなっていった。

「あなたちょっとまともじゃないみたいだけど、いつからそうなっちゃったの?」

 彼女も少し酔ってきたのか、据わった目をして僕にそう言った。

「実を言うと生まれたときからまともじゃなかった。逆子だったしね」

「……ふーん」

「生き方のスタイルの問題。逆子の体勢で生まれたときから俺は天邪鬼で、あまり社会的でない傾向があって……つまり、まともじゃなかったんだな、きっと」

「そんなものかな?」

「多分」

「ふーん」

「まともでない俺は、こんな場所でこんな時間に、ちょっと蛍でも見に行ってくるよ。みんな尻をピカピカ光らせて待ってる」

「フラフラしてるけど大丈夫? 途中までついてこっか?」

「レディにそんなことさせられないよ」

「レディだって」

 少し道に迷った後、何とかトイレに辿り着いた。僕は自分で思っていたより酔っているようだ。トイレに入ると、何処からか、吐瀉物の匂いがした。長い小便をしていると、後ろから強い視線を感じた。小便を終えて後ろを振り返る。気の弱そうな顔をした、髪の薄い若い男がこちらを睨んでいる。格好は普通だが、目付きが少しおかしい。ドラッグでもやっているのだろうか? 目が合うと、男は興奮しながら話しかけてきた。

「なぁ、あんたも俺と同じだよ。見れば分かる」

「何の話?」

「あ、また一瞬一瞬が襲ってくる……ああっ……ああっ……」

 男は頭を押さえながら、しゃがみ込んでしまった。僕は男を無視して手を洗い、そのままその場から立ち去った。


「蛍はどうだった?」

「何だか妙な事を言っていたよ。変なものでも食べちゃったんだろう」

「どうりで変なことばっかり言ってると思った」

「俺は食べてないよ、元からだよ」

 彼女はそうやって何食わぬ顔で軽口を叩く。僕の少し昂ぶった感情は、それで幾分元に戻る。僕らはこのようにして互いの精神を慰撫し、孤独を分かち合っている。

「今度は私が蛍を見に行ってくる番ね」

「楽しんでおいで」


 一人で煙草を吸っていると、僕の頭にあることがよぎった。ここのバーのトイレは男女兼用だったのだ。煙草をもみ消し、すぐに席を立った。大声で話をしている学生の小集団を掻き分けながら、ふらついた足取りで歩く。トイレに入ると、さっき僕に話しかけた男が彼女の手首を掴んでいるのがすぐに目に映った。僕は無言で男の手を勢いよく引き剥がす。彼女は驚きのあまり、無言で固まってしまっている。

「襲ってくるんだ……一瞬一瞬が」

 男は震えながらポケットからカッターナイフを出した。男は手が震えていたせいか、すぐにカッターナイフを床に落とした。急いでそれを遠くに蹴ってしまうと、男の頭を掴んで何度も壁に叩きつけた。僕はとても興奮し、我を忘れていた。相手は相当ラリっていたようでほとんど抵抗しなかったが、それでも僕は男の頭を壁に叩きつけることを止めなかった。

「……ちょっと? ねぇ、死んじゃうよ」

 僕は我に返った。完全に冷静さを失っていた。

「はぁはぁ。そうだね、やり過ぎた」


 幸いトイレの近くにとても騒がしい学生達がいてくれたおかげで、周りの誰にも気付かれることはなかった。トイレから出て会計をし、平常心を装いながら急ぎ足でバーを出た。

「急に手を掴まれてすごく怖かった。私、叫ぼうと思ったんだけど、声が出なかったの……助けてくれて、ありがとう」

「でも実を言うと、俺にも非があった。予測できたことだったんだ、ごめん」

「……もしかして、変なもの食べてトイレの中で妙なこと言ってた人って、さっきの人のこと?」

「俺は食べてないよ」


 二人でしばらく夜の街を歩き、そのままどちらが言い出すでもなく、ホテルへと入っていった。

 部屋に入ると僕らは長いキスをした。先程からまだ治まっていない心の中の強張りが、性的興奮へとシフトしていった。僕が押し倒そうとした時、彼女はキスを止めた。

「待って、ごめんなさい。ちょっと蛍が見たくなっちゃった」

「……それ気に入ってるね」

「うん、気に入ってる」

 

 終わると、彼女はすぐに僕の腕の中で寝息を立て始めた。起こさないようにそっとベッドから起き上がると、放り投げてある鞄があるところまで行き、中から睡眠薬を数錠取り出して、口の中に入れて飲み込んだ。それから僕はホテル備え付けのガウンをはおって、トイレに行き小便をした。

 ベッドに戻ると、ぼんやりとした頭で会ったばかりの何も知らないこの女性について考えてみる。彼女は端正な顔立ちの上に笑顔が少なく、一見冷たい印象を人に与えるかもしれない。でも本当は、とても気立てのよい女性に思える。包容力のようなものもある。僕は彼女といると心が落ち着き、一時孤独を忘れることができる。とはいえこれ以上の関係になる可能性はゼロに近いだろう。そんなことを考えているうちに段々と思考がまとまらなくなってきた。睡眠薬が効いてきたのだろう。早く僕を卑しく薄汚れた自分自身がいるこの世界から夢の世界へと連れて行ってくれ。バーにいたヤク中が言ったように、一瞬一瞬が襲ってくるような気がした。僕らは本当に同類なのかもしれない。まどろみがやってくる。ふと隣から押し殺したような泣き声が聞こえてきた。でも僕の身体はもう動かなかった。彼女を抱きしめてあげることはできない。僕にそんな資格はない。瞼が錘のように重たくなり、深く考えることができなくなってきた。そして僕の意識は店先で強引にシャッターを閉められたかのように、この世界からシャットアウトされた。


 目が覚めると朝だった。

 昨日と違って、一つとして夢は見なかった。隣を見ると、彼女はベッドの中で身体を丸めて眠っていた。僕はこっそりベッドから出て、電気ポットで湯を沸かし、コーヒーを入れて一人で飲んだ。有線のボリュームを少し上げると、ピアノの調べが小さく流れた。

 ソファに腰を下ろしてコーヒーを飲みながら、何気なく彼女を見る。ふと、昨夜とは何かが違うことに気が付いた。心なしか髪の色が薄くなっているような気がする。気のせいだろうか? 僕がじっと見ていると、彼女は目を覚ました。

「おはよう。コーヒー飲む?」と僕は言った。

「うん、ありがとう」

 彼女は目を瞑って静かに、僕がコーヒーを持ってくるのを待っていた。

「はい、熱いから気をつけて」

「うん」

「ちょっとトイレ行ってくる」

「……蛍はもういなくなっちゃったの?」

 そう言った時の顔が一瞬、子供のように見えた。彼女の瞳はとても澄んでいる。僕はその瞳を見て、思わず欲情した。無垢なものを汚したい欲望。歪んだ欲望。

「みんな死んじゃったよ。秋だしね、かわいそうに」

 しばらく二人とも黙っていた。ゆっくりと静かにコーヒーを飲み干すと、彼女はとても小さな声で僕に話しかけた。

「ねぇ?」

「ん?」

「……なんでもない」

 僕の顔をじっと見つめていた。いつまで経っても見つめている。

「何かついてるのかな?」

「ううん、何も」

 どこか儚げな視線。僕はなぜだか堪らない気持ちになって、上に覆いかぶさった。そして言った。

「ねぇ、やろっか」

「いいね、賛成。やりまくろう」

 そして彼女は俯いたまま十秒程沈黙した後、言った。

「部屋……暗くしない?」

「え、どうして?」

「暗いほうが興奮する」


 僕がカーテンを閉めると、部屋は真っ暗になった。思っていたよりずっと暗い。暗さで距離感が掴めず、互いの位置を確かめるために僕らは手を繋いだ。真っ暗な世界は不安になるが、安心もする。死への恐れと憧れに近いものがあるのかもしれない。

 僕らは転がりながら汗だくになってやった。僕らは石ころだ。お互い蹴飛ばし合って、転がりながら遊んでる。激しく絡み合っていると、僕らは本当に石ころになってしまったような気持ちになってきた。月に転がる寂しい石ころ。優ちゃんの瞳のような冷たく悲しい石ころ。


 終わった後、僕らは息を切らしながら、長い間見つめ合っていた。しばらくすると彼女は布団を顔に被せ、静かに泣き始めた。僕は心の中で泣いていた。僕の心から流れる涙は、夢の中のあの温かい湯船であの人を包み、犯すだろう。甘い果実の匂い立ちこめるこの部屋、すべての感情が甘酸っぱい記憶と共に酸化してしまえばいいのに。有線からはクロード・ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』が微かに流れていた。彼女は秋の雨のように静かに泣き続けた。



 彼女はしばらく泣き続けた後、小さな寝息を立てて眠ってしまった。僕は隣でじっと眺めていた。睫毛がまだ涙で濡れている。彼女はとても疲れているように見えた。そしてそれは僕も一緒だった。身体がバラバラになり、心の中が空っぽになってしまったようだった。眠気が忍び寄ってきている。さてどうしよう。そうだ、もう寝てしまおう。少しだけ。生きる悲しみよ、おやすみ。また少し後で。おやすみ。


 目を覚ますと、彼女はもういなかった。服や荷物も既に無くなっている。念のため、辺りを見渡してみたが、近くに人がいる気配はない。

 カーテンを開けると昼間の日光が差し込んできた。もう昼だ。真っ暗にしたホテルの中で昼まで寝ていると、なんだか世間から隔離されてしまったような気になってくる。煙草を二本吸い、僕は部屋を出た。


 途中でデパートに寄って、ちょっとした食べ物と赤ワインとウィスキーのボトルを買った。アパートに着いて鍵をかけた瞬間、携帯電話が鳴った。よっちゃんからだ。

「雄介、優ちゃんの居場所、知らないよな?」

「知らない。あれから連絡取ってないからね」

「そうか……突然すまなかったな」

「どうかしたの?」

「連絡がつかないんだ。家にも帰ってないし」

「いつから」

「昨日の夜だよ」

 背筋に悪寒が走った。僕はなるべく冷静によっちゃんに話しかけた。よっちゃんもなるべく冷静でいようとしているからだ。

「……今までこんなことはあった?」

 僕は落ち着いた口調でよっちゃんに聞いた。

「優ちゃんのことだし、携帯をあまり見ないから連絡つかなくなることはよくあるよ。でも何も言わないで夜帰ってこなかったことはないな。優ちゃん、そういうところしっかりしてるし」

「そっか……」

「急にごめんな」

「いや、大丈夫だよ。何か分かったら連絡するよ」

「ありがとう」

「きっとどっかのベンチで酔いつぶれて寝てるんだよ」

「ははっ、そうかもな」

 電話が切れて、僕は何でもいいから音楽が聴きたくなり、ピクシーズのCDをボリュームを絞って流した。気分が悪い。吐こうとすればいつでも吐けるといった感じだ。しばらく横になってから、砂糖とクリープを沢山入れたコーヒーを作って飲む。外を見たら空はもうオレンジ色になっていた。曲に合わせて歌を口ずさむ。読みかけの本を手に取って読んでみる。しかしいくら読んでも内容が全く頭に入ってこない。何度も同じ行を繰り返し読んでしまう。僕の頭は優ちゃんのことで一杯だった。声が聴きたい。冷蔵庫からチーズを出して食べながら、赤ワインのコルクをとても苦労して開けて飲む。しばらく飲んでから、意を決して優ちゃんに電話をしてみると、電話番号は現在使われていないというアナウンスが流れた。もう何年も電話をしていない。それに今優ちゃんは行方不明中だ。それでもなぜか、優ちゃんと話ができる様な気がしたのだ。

 ワインを飲みながら、いつの間にか今度は昨晩会った女性のことを考えていた。僕は世界から置いてきぼりになったような気持ちになってしまった。僕は今のよっちゃんとは違った種類の孤独を感じている。それは、もっとずっと自分勝手で無責任なものだ。ワインボトルは残り少なくなっていた。外を見ると、空はもう暗くなっている。僕は携帯電話の電源を切った。今日の夜は僕だけの時間にしよう。僕は音楽を止め、睡眠薬を口に入れて残りのワインで流し込んだ。僕はたまらなく優ちゃんに会いたかった。

 一時間が経った。時刻は午後七時三十分。今度はあるだけの睡眠薬を袋から全部出し、ベッドの上に置く。何錠か口に入れ、ウィスキーで流し込む。ゆっくりと布団に入り、目を閉じる。なぜだか急に、昔嗅いだことのある匂いがした。何の匂いだろう? 小さい頃に嗅いだことがある気がする。胸が締め付けられるような匂い。

 十分程してベッドから降り、立ち上がる。しかしその瞬間、僕は前のめりに倒れてしまい、テーブルの角に頭から突っ込んでしまった。幸い大事には至らず、顔を少しぶつけただけで済んだ。ゆっくりと立ち上がってトイレへ行った。洗面所で手を洗いながら鏡を見てみると、目の上が赤く醜く腫れている僕が映っていた。僕は洗面所に唾を吐いた。

 音楽を流してからベッドに戻り、ウィスキーをストレートで飲む。そして横になって目を閉じる。グレン・グールド。シガーロス。段々と意識が遠くなっていく。サンソン・フランソワ演奏のクロード・ドビュッシーが流れる中、僕は突然金縛りにあった。身体がぴくりとも動かない。なぜか、腹の辺りに液体の感触がした。――血……? 突然猛烈な痛みが僕の腹部を襲った。僕は静止したままもがき苦しんだ。僕の顔からは脂汗が垂れた。ぴちゃん……。ん? ぴちゃん? 急いで目を開けると、目の前に優ちゃんがいた。浴槽の中、向かい合わせで。

 

「また会えたね」と僕は言う。

「もう会えないかと思ってた」と優ちゃん。

「必ず会いに戻ろうと思ってたんだ。どんなことをしてでも」


 浴槽はどんどん赤く染まっていった。赤い入浴剤なんて比にもならない、本物の赤さ。僕は激痛に耐えながら腹を押さえていた。優ちゃんは眉一つ動かさないで、じっと僕を見つめている。優ちゃんの髪の色はこの前夢で会った時よりもさらに薄くなっており、ほとんど亜麻色になっていた。僕は傷口の痛みからなるべく意識を逸らして、優ちゃんに話しかけた。

「優ちゃんに話しておきたいことがあって、ここにきたんだ」

「何? 言ってみて」

「その話の前に一つ質問があるんだけど、いいかな?」

「いいよ」

「優ちゃん今どこいるの?」

「ここだよ」

「そうか……ここか」

 再び頭痛がやってきた。大量出血のせいなのか、意識も朦朧としてきてしまっている。これではだめだ、優ちゃんにまだ何も言えていない。傷口を見ようと、押さえていた手を少しだけどかしてみた。どうやら切り傷らしい。カッターで切れたような傷だ。ヘソの右上に四センチ程の横一直線の傷がある。血はまだ出続けている。どこかで止血をしなければ、そう思って浴槽から立ち上がった瞬間、立ちくらみがして浴槽の中に倒れこんでしまった。遠くのほうで聞こえる優ちゃんの声、笑い声。そして僕は意識を失った。夢の中で。


 目を覚ますと、僕はベッドから落ちていた。ひどく汗をかいている。腹にそっと手を当ててみる。大丈夫、傷はない。僕は立ち上がると、冷蔵庫まで歩いて行き、ミネラルウォーターを出して飲んだ。一息ついたところでビル・エヴァンスのCDをかけ、ソファに腰を掛ける。時計の針は午後九時十三分を指している。

 僕は夢の中で傷の手当てをしようと立ち上がったことを深く後悔した。そんなこと後回しにして、目の前の優ちゃんに言うべきことがあったのだ。どうせ夢の中だ、いくらでも腹から血を出させておけばよかったのだ。

 僕は軽いストレッチをした後、風呂に入った。湯船に浸かっているときに優ちゃんの面影が何度も頭に浮かんだ。  

 風呂から出た後、もう何度も観た映画を観ながら、カップに入れた睡眠薬を映画館で食べるポップコーンのようにして食べた。そのうち寝てしまうかもしれないと思ったが、眠らずに最後まで観てしまった。

 よろめきながらベランダに行き、煙草に火をつける。街灯がとても綺麗に見える。数年前より幾分寂しくなった気もしたが、それでもなお、その風景は綺麗だった。今の僕の目にはぼんやりとソフトフォーカスがかかって見える。それがなんとも言えず幻想的だ。

 僕はベッドに座り、再びウィスキーを飲み始めた。孤独な夜だ。なんて孤独な夜なんだ。僕はどうしてもまた優ちゃんに会いたかった。会って話がしたかった。どうしたらいいか分からず、ただただウィスキーを飲み続けた。このまま続けたら生きて明日の朝日を見られる保障はない。でも優ちゃんに会わないわけにはいかない。優ちゃんに伝えたいことがある。

 突然また気分が悪くなった。頭痛が反吐となって出て行った。出るものが無いのにえずきが止まらない。とても苦しい。トイレから出て、ふらつきながらベッドに倒れ込む。目の前に置いてある琥珀色の液体が入った瓶が急に憎らしくなり、壁に向かって思い切り投げつけた。僕は気分が悪いとき、自分の過去に対して内省的になってしまう。たとえ大した過去ではないにしても。僕はしばらく頭を抱えながら、なるべく何も考えないようにした。

 僕は今、優ちゃんの手を触りたい。いつまでも弄くっていたい。現実ではきっと叶わないだろう。でも夢の中の優ちゃんとならどうだろう? もしも心が通じ合うことができたなら、僕は夢から覚めなくたっていい。夢の世界の住民となって、優ちゃんと二人で生きていきたい。そこまで考えて、僕は急に笑い出した。それから長い間、笑いが止まらなかった。

 ふと気付くと、僕は全裸で一心不乱にオムレツを作っていた。大きな声で大地讃頌まで歌っていた。口の中が血の味がする。時計を見る。午前四時。作ったオムレツは、ラップをして冷蔵庫に入れておいた。僕は最低の気分で部屋に散乱している服を一つ一つ拾って着ると、水をコップ一杯一気に飲み干した後、息を整えてベッドの中に入った。

 朝日が段々と眩しくなってきた。少し目を瞑って、開けたら一気に太陽が移動している。まるでだるまさんがころんだをやっているみたいだと思った。結局僕は眠ることができなかった。カーテンを開ける。天気がとてもいい。文句のつけようのない日曜日の朝。煙草を四本吸ってから優ちゃんに電話をかけたが、やはり繋がらなかった。僕はサンソン・フランソワ演奏のクロード・ドビュッシーのCDを再びかけると、カーテンを閉めてベッドに倒れこんで目を瞑った。



 ――優ちゃん? 僕の目の前に優ちゃんがいる。ここはどこかのテラスのようだ。後ろのほうに富士山が見える。近くもないが、そこまで遠くもない。テーブルには飲みかけのハイネケンの小瓶が置いてある。風は少し肌寒いが、ほぼ真上にある太陽の日差しで、身体は暖かい。僕はハイネケンを一口飲んでから優ちゃんに話しかけた。

「優ちゃん、もう元の世界に帰ってこないの?」

「……ごめんね」

「でも、どうして?」

「怖くなったの、色々と。それだけ」

「そっか、それじゃしょうがないね」

 優ちゃんは笑い出した。僕はそのことに少し驚いてしまった。

「ごめん、笑ったりして。でも可笑しくって」

「何か変なこと言ったかな?」

「それじゃしょうがないねっていうのが可笑しかったの」

 僕はそれからは何も質問しなかった。日差しがさっきよりも弱くなってきている。太陽に薄い雲が被さっているからだ。優ちゃんはイタリア料理店で会ったときよりも快活に話をした。表情からは幾分幼くなった印象を覚えた。少し前までの優ちゃんと今の優ちゃん、どこが変わったのかは分からない。しかし、今の優ちゃんからの方が、僕のために残されたものを多く感じることができた。

「俺もこの世界が好きになってきたよ」

「よかった。雄君なら気に入ってくれると思ってたんだ」

「元の世界には何もないんだ」

「何もないって?」

「自分のために残されたもの」

「この世界にならそれがあると思うの?」

「……優ちゃんの中に感じる」

「ばかなこと言わないで」

 僕はもう元の世界への興味は失っていた。この世界で優ちゃんと一緒にいたい。元の世界の人たちは、僕のことを頭がおかしくなってしまったと思うだろう。でも僕に見えているこの世界は、僕にとって確かなものだ。僕は目の前にある世界を信じる。誰がなんと言ったってかまわない。

 テラスから山道に出られた。僕らはいつの間にか手を繋いでいた。歩くリズムに合わせ、優ちゃんの髪が揺れる。優ちゃんの髪の色は相変わらず薄くなったままだ。僕はその髪を愛おしく思う。僕はこれまで、ここまで何かに心を揺さぶられたことはなかった。そしてそれが優ちゃんの髪に対してだとは、今まで考えもしなかった。僕は明らかに変わり始めている。もう今までの僕とは違う。何かを純粋に愛おしく思うことができる。

 僕らはほとんど何も喋らずに山道を上り続けた。どこに向かっているかなんて僕には分からない。ただ、この時間が少しでも長く続けばいいと思っている。

 しばらく歩いていると、目の前に屋根の鋭角がやけに鋭い山小屋を見つけた。深い緑色のカーテンが閉まっていて、窓の外側からは中が見えない。二人で話して、思い切って入ってみようということになり、僕はノックをして十秒ほど待ってからそっとドアを開けた。鍵はかかっていなかった。そして中には誰もいないようだ。僕はここで一休みしようと言った。 

 優ちゃんは思ったよりも小奇麗な白いベッドに腰をかけた。僕はカーテンと窓を開け、そのまま部屋の突き当たりまで歩いていった。正面に鏡がある。鏡に映った僕は、いつもより少し老けて見えた。

「いいところだね」と僕は言った。

「ほんと」

 優ちゃんは靴を脱いでベッドに横になって天井を見ている。僕は小便がしたかった。部屋の中を見渡したが、ここにはトイレがなかった。

「ちょっと蛍見に行ってくるよ」

「......うん、いってらしゃい」

 僕は小便をするために、山小屋の裏側にある森の中に入っていった。二十メートルほど歩いたところで、大きな木の根っこの上に立ち、幹に向かって放尿した。ふと顔を上げると、山小屋とは反対側の森の奥のほうに人影が見えた。誰だろう? この世界に僕と優ちゃん以外に人がいるなんて。段々と頭が混乱してきた。小便はいつまで経っても終わる兆しが見えない。人影は早足にこちらへ近づいてくる。男? どうやら若い男のようだ。どこかで見覚えがある。そうだ、この前行ったバーのトイレにいた、ヤク中の男だ。よく見ると、男はナイフを逆手に握ってにやにやと笑っている。僕は小便をしながらずっと男を見ていた。十メートル程まで男が近づいたとき、小便はやっと止まった。

「また会ったね。今度は何の用?」と僕は言った。男は返事をせず、なおもこちらに近づいてきた。僕は近くに落ちている一・五メートル程の丈夫そうな木の枝を拾った。山小屋には優ちゃんがいる。これ以上進ませるわけにはいかない。

「止まれ! ナイフを置け!」僕はそう叫んだ。男は歩を止めた。僕との距離は三メートル程にまで近づいていた。長い沈黙。男はもう笑っていない。バーにいたときとは別人のような、真剣な目をしていた。

「お前は俺と一緒に死ぬべきなんだよ」そう、諭すような口調で男は言った。

「……死んだらどうなるんだ?」

「……」

 それからは二人とも何も喋らず、殆ど動きもしないまま時間だけが過ぎた。僕はこのまま優ちゃんと二度と会えなかったら嫌だな、などと冷静に考えていた。しかし、この男をここから先に進めるわけにはいかない。それだけは固く、決意していた。

「俺の命が目的なのか? それとも優ちゃん?」と僕は聞いた。

 男が何か言おうとした瞬間、少し動揺して隙ができた。その瞬間、僕は木の枝で男を突いた。尖った部分が男の目に入った。男は叫び声を上げながら目を押さえて倒れた。すかさず倒れた状態のまま僕の右脛を切った。僕は体勢を崩し、勢いよく倒れた。男がナイフを振りかざしながら這って近づいてくる。僕は叫んだ。自分でも驚くほどの声量で叫んだ。「俺を殺せよ! でも 優ちゃんに手出したら許さないぞ」その瞬間、男はなぜかナイフを落とした。ナイフは僕のほうに転がってきた。僕は急いでそのナイフを手に取ると、男の目を見つめた。長い間、ただただじっと見つめた。男の目は、怯えた幼い子供のようだった。

「ここから出ていけ」僕はゆっくりと男に言った。

 男はこちらを見たまま、今にも泣き出しそうな顔で這って五メートル程後ずさりをした。そして勢いよく立ち上がると、全力疾走で森の中へと消えていった。僕はしばらく血の付いたナイフを見つめたまま、呆然と立ちすくんでいた。そして溜め息を一つ吐き、その場に座り込んだ。


 森の中を歩いて山小屋へと向かう。優ちゃんは僕を待っているはずだ。急がなくては。僕は気付いたらずっと「優ちゃん、優ちゃん」と独り言を言っていた。途中で一度転んで草の根っこに頭をぶつけた。頭を触ると、手に血がベットリと付いた。僕は手に付いた血を辺り一面に落ちている枯葉で拭いて、また歩き出した。途中でまだ右手にナイフを持っていたことに気付き、その場で放り投げた。

 十分程歩いた。変だ。いつまで歩いても山小屋は見えてこない。僕は迷ってしまったのだろうか? 先程ナイフで切られた箇所がとても痛む。ズボンの右脛から下の部分は血に染まり、真っ赤だ。僕は急に不安な気持ちに駆られた。とても煙草が吸いたかったが、身体中どこを探しても見当たらなかった。気を取り直そう、もう邪魔者は消えたのだ。この世界は僕と優ちゃんだけのものだ。二人で一からやり直そう。あの山小屋はきっと、その始まりの場所なんだ。

 僕は歩くのを止め、木蔭に腰掛けて、目を瞑った。堪らなく胸が苦しかった。冷たくて強い風が吹き、森中で何者かが大きな声でざわめいているような音が広がった。僕は身震いをした。ちょうどその瞬間、遠くの方から声が聞こえたような気がした。辺りを見渡す。人影は見えない。十秒ほど経ってもう一度声が聞こえた。今度は先程よりもはっきりと聞こえた。優ちゃんの声? 僕を呼んでいる。僕は目を閉じたまま出せる限りの大きな声で返事をした。


「こんなところにいたの?」

 すぐ近くで声が聞こえたので目を開けると、目の前に優ちゃんの姿があった。

「もう二度と会えないかと思った」

「凄い傷……可哀想に。あの子が酷いことして、本当にごめんね」

「え、知ってる人なの?」

「うん。本当は優しい子なの。でも同時にとても弱くもあるの……こんなことするのって間違ってるよね」

「……そうだったのか。でも優ちゃんのことを思っての行動だったんじゃないかな? 分からないけど。一人きり、この世界で寂しくないようにって」

「……雄君は優しいね。それに強いよ」

「そんなことないよ、強くなんてない。俺も彼と似たようなもんだよ」

「……手当てしてあげる。ねぇ、一緒に小屋に戻ろ」

「そうだね、戻ろう」


 二人で肩を並べてゆっくりと森の中を歩く。案外近くに山小屋があって、僕は苦笑いをした。それを見て優ちゃんは無邪気に笑った。山小屋の前に立つと、屋根の鋭角が先程見たときよりも、さらに鋭くなっているような気がした。ドアを開けて優ちゃんを先に中に入れ、後に続いて僕も入った。僕は山小屋の中の風景を、なぜだかとても懐かしく感じた。さっきは気付かなかったけれど、本棚の近くにウィスキーのボトルが転がっている。僕はそれを拾って優ちゃんと一緒にそのまま飲んだ。治療道具はないかと二人で部屋の中を探したら、包帯はあったが、消毒液はなかった。優ちゃんは僕の傷口を見て、悪巧みをしているときの顔をしだした。昔よく見た表情。久々に見た。そしてにやけながら僕に言った。

「たしかランボーって映画で、ウィスキーを口に含んで、霧吹き状に傷口に吹いて消毒するシーンがなかった?」

「あぁ、あったねそんなシーン。うん、あったあった」

「やってあげよっか」

「……よしやってみよう」

 二人でベッドの上に腰掛け、僕はズボンを捲って脚の傷口を優ちゃんに差し向けた。優ちゃんはきつそうな表情をしながら一気にウィスキーを口に含んだ。しかしその直後に笑ってしまい、傷口にそのままウィスキーがこぼれた。僕はあまりの激痛に、ベッドの上でもがき苦しんだ。全身からは汗が吹き出た。優ちゃんは僕を見て笑いながら、傷口にそっと包帯を巻いた。僕はしばらくの間、目を閉じて歯を食いしばっていた。段々と痛みが引いてきて、目を開けると優ちゃんはもう笑っていなかった。

「ねぇ、やろっか」と僕は言った。

「いいね、やりまくろう」


 窓とカーテンを閉めると、部屋は暗闇に包まれた。優ちゃんをおもむろにベッドの上に倒し、キスをした。二人の空白の時間を埋めるようなキス。優ちゃんの声、匂い、味。すべてがずっと遠くにあったようでいて、いつも近くあったような気もする。いや、きっとあった。僕の歪んで輪郭がぼやけてしまった現実の中に、優ちゃんはいつも紛れ込んでいた。

 優ちゃんの中に入る。温かい。体中、そして心の中まで優ちゃんの温かさが伝わってくる。湯船に浸かっているようだ。湯船? いつの間にか僕らは暗闇の中、本当に浴槽の中にいた。水しぶきが舞う。浴槽の中は激しく波打っている。優ちゃんの綺麗な亜麻色の髪は、水しぶきがかかって濡れている。それを見て、僕は死んでしまいたいと強く思った。僕は生きていくことに向いてなかったのだ。このまますべての傷を抱えたまま、この世界に優ちゃんといよう。

「……ねぇ雄君、今何考えてたの?」

 優ちゃんは繋がったまま、僕に話しかけた。

「内緒」

「死ぬ気でしょ?」

「……ばれたか」

「雄君は生きてよ。私の分まで」

「……」

「……私のことは忘れて、お願い」

「なんでよっちゃんのプロポーズ、オーケーしたのに死んじゃうの?」

「……忘れちゃった」

「それじゃしょうがないね」

 今度は笑わなかった。浴槽で繋がったまま、なおも僕は優ちゃんに話しかけた。

「優ちゃん、元の世界に戻るの、もう間に合わないの?」

「そんなこと私にも分からない。今はただこのまま、昔みたいに雄君とずっとしてたいの」

「……ねぇ優ちゃん?」

「……何?」


 優ちゃん? 優ちゃん? 真っ暗な部屋に僕一人。ここは、僕の部屋? 目が覚めてしまったのだろうか? 僕は呆然と辺りを見渡した。そこは、いつもと変わらない僕の部屋だった。ひどい頭痛がする。右膝から鈍痛もする。CDからはちょうど『亜麻色の髪の乙女』が流れている。

 しばらく経って、ぼんやりとした頭でどうやって死のうかと考え始めた。その瞬間、突然バイブ音が辺りに響いた。僕の携帯電話が光り輝きながらバイブ音を鳴らしている。暗闇に目が慣れてしまっていたので、光で目が痛む。僕はその音と光を一刻も早く消してしまいたくなり、よろけながら携帯電話を手に取り、電話に出た。

「……はい」

「雄介、優ちゃん見つかった」

 よっちゃんの声は弾んでいた。僕はそのまま何も喋らず、ただただ目の前に広がる暗闇を見つめていた。散乱している睡眠薬がとても小さな石に見えた。月に転がる寂しい石ころ。優ちゃんの瞳のような冷たく悲しい石ころ。

 僕は何も言わずに電話を切り、またゆっくりと目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ