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ADHD患者の日記

 みなさん初めまして。私はADHDを持った知的障害者です。今から綴られるストーリーは全て私の実体験です。まあ日記みたいなものです。「ブログとか別のSNSに投稿しろよ」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、ブログの始め方を検索しても、怪しげな教材しか出てこなかったので、元々アカウントを持っていたこのサイトで書くことにしました。この文で少しでもADHD、知的障害者への興味が湧けばな、と思っています。

 私の人生は大きく3つに分かれています。「ADHDである自覚のなかった生まれてから中学時代」、「ADHDであると診断された高校時代」、「ADHDを支えてくれた母から自立した大学時代(現在)」


 第一章は「生まれてから中学時代」までを書こうと思います。とはいえ、小学低学年くらいまでは多くの子がADHDみたいなもんですから、それ以降のことですね。

 私は小4あたりから親に勧められて塾に通ってました。父親が地元のそれなりに有名な受験の必要な中学高に通っていたので、その影響だと思います。塾では国語、理科、算数の3教科を習っていたのですが、私が力を発揮したのは算数でした。私からしたら塾で習う算数の多くはパズルのような、遊びのようなもので、それなりに簡単なものでした。しかし、私は出された課題を基本的にやりませんでした。覚えていないのか、興味が湧かないのかは覚えていませんが、課題を出さずに怒られていたことだけは覚えています。算数が遊びのようなものとはいえ、本当の遊びに叶うはずがありませんよね。

 それでも親に無理やりやらされ、塾の中でも上位50%に入る程度には勉強していました。しかし、私は中学受験を諦めました。理由は「わざわざ中学受験しなくても幸せになれる」と、わかったからです。それまで私は(受験に失敗したら不幸になる)そう思っていました。おそらく兄が受験失敗して号泣したのを見たからでしょうね。しかし、その兄が中学の体育祭で笑顔なのを見て、その考えは見事に打ち砕かれました。今思い返すと私はとんでもないブラコンですね。いつかの授業参観で「家族について」の作文の発表でみんなが親について書く中、一人だけ兄について書いたこともありました。

 そんな感じで中学受験は諦めたのですが、塾にはずっと通っていました。おかげで成績はなかなか良かったですね。授業中1人で消しゴム落としをしていた社会を除くと、大体の教科で5を取っていたと思います。

 では私は楽しい小学生生活を送っていたのでしょうか?そんなことはありません。私はイジメの対象になっていました。理由は「掃除中に女子の尻を触った」という噂が立ったからですね。これは雑巾掛け中に雑巾しか見てなくて、前にいる女子のケツに頭から突っ込んでしまったからですね。(その女子がリーダー格ってのも運が無かった)「1つの事に集中すると周りが見えなくなる」今思うと最高にADHDしてますね。

 ここでイジメのことを事細かに書きたいのですが、防衛本能か、それとも単に忘れてるのか、詳細を思い出せないんですよね。「体育の前で着替える時に、押し倒されてゴミ箱を蹴ってぶつけてくる」みたいなことをされたり、「席替えでケツに頭から突っ込んでしまった子が隣になって、大号泣される。」みたいなことをされたりというのは断片的に覚えていますね。ちなみに大号泣の後、私はなぜか先生にしこたま怒られましたね。(提出物出さない奴なんて信用されなくて当然ではあるか)

 イジメは半年程度で収まりましたが、その半年で私は大きく変わりました。明るく、誰とでも仲良くなれる。そんな性格が、人を疑い、拒絶されるなら元から関わらないほうがいい。そう思うようになりました。人と親しくなると、その人に依存するかのように異様に近い距離で接するようになりました。ついでに作り笑顔が上手くなりましたね。大学で「写真撮る時すごくいい笑顔」そう言われるくらいには笑顔が上手いです。その1点は感謝かもしれませんね。

 イジメが収まり、やっと普通の生活になる…わけもないですね。ただでさえADHDなのに、いじめられて性格が歪んでしまったのですから。大きく変わったのは休み時間ですね。これまでドッヂボールやバスケットボールをしていたのですが、本を読んだり、自由帳に何か書いたりということをするようになりました。そして承認欲求が異様に高まりました。ゲームや漫画の内容をそのままパクってあたかも自分で考えたかのように自由帳に書き、友達に見せていました。ですのでネット上でたまに見かける「他者の絵を自分が描いたと言い張る人」の気持ちがわかるんですよね。偽りの自分でもなんでもいいから、肯定されたい。褒められたい。認められたい。じゃないと不安になってしまうんです。(もちろん常識を身につけた私は気持ちがわかるというだけで、擁護する気はありません)

 ADHD得意の話の脱線が起こったので、イジメからADHDに話を戻しますが、本を読む場所が独特でしたね。私の通っていた学校では学級文庫が廊下にあったのですが、私はその横に座り込んで読んでいました。そっちの方がギリギリまで本を読めるし、本を入れ替える時素早くできるから。過去の自分よ、その行動客観的に見てみろ。やばい奴だぞ。まあ客観視の苦手なADHDに言っても仕方のないことですね。

 小学校編はこのくらいにしておきましょう。思い出したら随時投稿していきます。次はADHDの加速する中学校時代です。

 中学時代は提出物をまともに出した覚えがありませんね。居残りでやらされた以外の提出物は出した記憶がないです。私の中学時代の青春は「部活動でふざけつつ、たまに真面目に卓球をする」「片思い中の女子と教室でお話しする」そして「居残り常習犯のT君と放課後駄弁りながら課題を進める」の3つですね。T君との放課後はなかなかに楽しかったですね。英語教師の悪口大会になったり、恋バナしたり、お互い好きな子を教え合って「秘密やで」って言ってたのに、Tが付き合い始めた瞬間クラス中に俺の好きな人がバレてたり…

 問題なのは提出物より授業中の居眠りですね。ADHDの8割が睡眠障害を持っていると言われており、おそらく私も持っているでしょう。最もひどかったのは2年の時ですね。みんなが右眼の邪竜と戦う中、私は両目の瞼と戦っていました。勝率は2割いかないくらいですかね。日によっては、登校、睡眠、起床、昼食、睡眠、起床、部活動(もしくは居残り)帰宅。みのような何のために学校に行っているのかわからなくなる行動をしていた時期もありましたね。自分でも笑ってしまったのは体育の教師に「お前走りながら寝てたぞ」と言われたことですね。そんなことができるなら寝てる間に課題が終わっててもいいのに……残念ながら我が家に小人は住んでいないようでした。

 授業中寝て、課題もやってこない。成績はどうだったのか?一部は悪く、一部は良かったです。ほぼ全ての人がそうだろ!となるかもしれませんが、私はそれが極端でした。社会、英語(特に英単語)、現代文以外の国語等の、興味の湧かない暗記科目は40点取れたら喜ぶレベルでした。一方数学や理科(生物、化学を除く)等の、暗記科目ではあるけど、興味のある、もしくは計算が主になる科目は学年1位を取ることもあるくらい優れていました。

 本好きが加速したのも中学からですね。幼い時から本は好きだったのですが、中学に上がってから学級文庫がなくなり、図書室に行くようになりました。そこで出会ってしまったのが「空想科学読本」と「ソードアートオンライン(SAO)」それ以降は部活をたまにサボってまで図書室に通いましたね。ここでよくないのが本に集中し過ぎてしまうこと。休み時間に呼ばれても気づかないのはもちろん、途中で読むのを止めてしまうと授業に集中できない。課題出されても忘れて読んでしまう。最低週に1回は図書室に友達がやってきて「先生が課題のことで呼んでる」と言ってきましたね。

 そんなADHDに磨きのかかった中学時代、最も印象に残っているのは2年の三者面談。担任が淡々と私の状況を説明し、私は(気まずいなぁ。早くおわんねえかなぁ)と思っていました。しかし、右から泣き声が聞こえた瞬間そんなこと考える余裕がなくなり、頭が真っ白になりました。私が親を泣かせた。私が不甲斐ないせいで、私がみんなと同じことができないせいで、私が出来損ないのせいで。親が泣いた。初めて見たその光景に私は自分のことが情けなくて仕方ありませんでした。しかしそれ以上に私を苦しめたのは、そんなことがあった後でも私は変わることができなかったことです。親を泣かせておきながら、あんなにも自分を情けないと思っておきながら、私は提出物を出せなかった。授業中起きることができなかった。

 さて、暗くなるような話はこの辺にしておいて、高校に上がった時、私に大きな転機が訪れます。自分のスマホを買ってもらったのです。これまでは自分のスマホといっても、親のお下がりで、1日15分と決められていました。1本の動画を見て、友達に返信しておしまい。そんな使い方だったスマホだったのですが、急に自由に使えるようになったのです。これまで使えなかった反動か、単にADHDの特性か、私はすぐに中毒者になりました。春休みは毎日10時間以上動画を見ていました。そんな生活をしているとある日、偶然障害者についての動画を見る事がありました。ADHD…特徴が全部私と一致する…しかし私は親に相談できませんでした。自分が障害者かもしれない。親にそう告白するなんて到底できそうにありませんでした。私はスクールカウンセラーと話をする事にしました。

 カウンセラーの人に相談したのは「自分が障害者かもしれない」ということと、「それを診断するため親に相談したいが、どうすればいいか」ということ。カウンセラーの人は私の悩みを真剣に聞き、一緒に案を考えてくれました。ADHDを持っているが、世界的に活躍している人の話であったり、今みたいに誰かに相談したら楽になる。最も身近な親には早めに言ったほうがいいと思う。と、いったことであったり、大体こんなことを言っていたと思う。しかし、私は(話が長い)失礼にもそう思っていました。そして(こんなに悩んで、無駄に時間を消費するくらいなられ早く相談したほうがいい)と結論を出し、カウンセラーの話を聞き流した後に、適当にお礼を言い、その日のうちに親に相談しました。

 ADHDの検査というものは案外簡単なもので、精神科の先生の質問にいくつか答えるだけでした。脳をスキャンし、数日後に結果が届くみたいなことを想像していたが、そんなことはなく、質問が終わった後、なんでもないように「ADHDですね」と言われた。これまでのことが許された気がした。提出物は出さない、授業中は寝る、そして親を泣かせる。自分を出来損ないだと思っていた。でも出来損ないに理由ができた。たったそれだけのことなのに、私の心はスッと軽くなった。


 というわけで、第二章「ADHDであると診断された高校時代」編です。

 ADHDを診断された私は、まずADHDに関して調べ、自分なりに解釈した。その結果「好きなものを極める」になった。部活動は文芸部(小説家になろうのアカウントはこの時作った)と科学部。委員会は図書委員会に、動画投稿や小説の執筆をするようになった。

 ある日、図書委員会で「校内ビブリオバトル」というイベントが行われることになった。ビブリオバトルとは、自分の好きな本を紹介し、最も読みたくなる紹介をした人の勝利。というルールのものである。私は興味本位で参加することにした。YouTubeで動画を見たり、昼休みに司書室の先生の前で練習したり、優勝できるように努力した。久しぶりにした努力がなかなか楽しかった。しかし、結果はつまらないものだった。私以外の4人は自主的に参加したわけではなく、イベントだから嫌々やっている。というような感じだった。制限時間の半分以上を余らせる。カンペを見る。カンペを見た上でグダグダな発表。私は優勝した。しかし、達成感はなかった。そう思っていると先生からビブリオバトルの県大会に出ないか?という誘いがあった。私に断る理由はなかった。

 次の日から授業や部活の時間であっても、メモ帳を持って案を出していた。この本の面白いところ、観客により興味を持ってもらう方法、それらは5分にまとまるのか、どのような質問が来るだろうか……1ヶ月程度授業や部活は全てビブリオバトルに使った。しかし、結果は1回戦敗退。悔しかった。中学3年の卓球の最後の試合より、ずっと悔しかった。初めて真面目に努力できるものだったからかもしれない。それ以来、私の高校生活には常にビブリオバトルがあった。

 ちょっと捏造したらこれだけで小説1本書けるような内容だけど、今回はそこじゃない。授業を蔑ろにしてまで趣味に没頭してしまう。しかも高校生にもなって。これがADHDの唯一と言ってもいい、良いところであり、悪いところ。好きなことは集中できる。集中し過ぎてしまう。それ以外のことは集中できなくなってしまう。中学時代ならこれで悩んでいたかもしれないが、高校に入学してからは吹っ切れていた。「これが俺だ。これがADHDだ」そんな考えがあったから、高校生活で自分を不幸だと思ったことは1度もなかった。


 高校生活はなかなかに楽しく、最後のビブリオバトル大会では県大会準優勝という結果も残すことができ、満足のいくものに終わった。しかし、問題はここからだ。私が高校をなんとか卒業できたのは親の助けがあったからだ。これから書くのは第三章、「ADHDを支えてくれた母から自立した大学時代(現在)」編。ここからは全ADHD患者に見てもらいたい。

 私はこれまでの人生で挫折を味わったことがなかった。勝てない勝負からは逃げ、確実に行ける学校を選んでいたから受験で失敗したこともない。だから大学生活を舐めていた。

 結論から書こう。私は大学1年生の後期で病んで留年した。

 まず前述の通り、ADHDの8割程度が睡眠障害を持っていて、私もその1人である。理由の1つにメラトニンという睡眠を助ける物質の分泌が健常者に比べて1.5時間遅いらしい。最近サプリメントでサポートして多少マシになったが、この時はそんなことも知らずに生活リズムが崩壊していった。そして高校に比べて授業が専門的になり、興味のない分野は本当にやる気が出ない。「ADHDは大学に出たら活躍できる」高校の時はそう思っていたが、それはおそらく2年以上の話で、高校の延長と言ってもいい1年ではむしろ高校時代より酷くなっている。これだけならなんとか病むことはなかっただろう(病んでなくとも留年はしたであろうが)。英語の教師に外国人の教師がいた。その教師は毎回授業の初めに英単語のテストをした。私は暗記科目が大の苦手であった。苦手なテストを毎授業の頭に行うだけなら良かったのだが、その教師は成績の悪い生徒を見つけると、「アナタハ、ドリョクガ、タリナイ」「アナタハ、ベンキョウノシカタガ、マチガッテル」と、毎回毎回言ってきた。努力が足りない?知ってる。勉強しててもなんか真面目にできない。他のことに興味がいっちゃう。勉強の仕方が間違ってる?だったらADHDが興味ないことに集中できる勉強法を開発してくれよ。その教師の言うことは正しかった。だからその教師でなく、自分を責めた。生活リズムの乱れ、追いつけない大学の授業、自己嫌悪、パーツはしっかりと揃っていた。気づけば、私は病んでいた。教室に入ろうとしても、入れなかった。どうしても躊躇して回れ右してしまう。授業をサボった罪悪感の中、ゲームをする。楽しくない。漫画を読む、本を読む。滑り落ちるように情報が頭に入ってこない。サークルに顔を出す。心配させないように得意の作り笑顔で切り抜ける。相談しようにも、拒絶されるのが怖くて言い出せない。2ヶ月くらいそんな生活を続け、後期の授業でとれた単位はたった1つ。私は見事に留年した。

 さて、1回留年した私は今どうしてると思う?反省して真面目に授業に取り組む?それとも相変わらずサボってばかり?答えは後者だ。何十万とかかる1年分の授業料を無駄にしたのに、私は反省できない。実際この文章を書き始めたのも、授業をサボった時だ。

 私はADHDで苦しむ人が1人でもいなくなればいいと思ってる。これからも日記として、私のやらかした失敗をたまに綴っていこうと思う。ADHDの人が俺のようにならないように、ADHD患者、そしてその周りの人がこの文章を参考にしてくれると嬉しい。


 最後にもしかしたら気になった人もいるかもしれない「障害者」という書き方について少し書こうと思う。気にならない、興味がなければ読み飛ばしてください。

 私は「障がい者」という書き方が嫌いだ。『「害」という漢字は「害悪」「公害」「害虫」と悪いイメージがあるから障がい者が可哀想だ』などと訳のわからんことを言う人がいるが、それは上っ面だけ見て、本質を見るつもりがない。部屋を掃除する時に、上から布を被せて「綺麗になった」と言っているのと同じだ。障害者は体に「障害」を持っているから「障害者」なんだよ。

 例えば差別問題でよく黒人が例として挙げられるが、「黒」と言う時は何かと縁起が悪いから「こく人」としようなんてことをしてる人は見たことがない。「障がい者」はそれと同じだ。問題解決に関わるつもりのない、外野からやった雰囲気を出したい人が使う書き方だと思っている。だから私は使わない。

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