神はなぜ彼を痛めつけるのか
1
「ん、うぅん」
目が覚めると、視界の上半分が遮られている。なにか大きなものだ。そして後頭部に感じる柔らかく温かい感触。
漂う甘い香りは母がよくつけている香水の香りだ。
やがて意識がはっきりしてくると、僕は母に膝枕をされているのだと気づいた。
「起きた? 春樹」
「ん、お母さん」
そうだ、僕は眠ってしまったんだ。家に帰ってきて、お弁当を無理に胃に詰め込んで、それで急に眠くなってしまって――
その時、僕の全身に悪寒が走った。
まずい、テーブルの上に封筒を置きっぱなしにしていた。あれの表には『華山家より』と記されているため、母があれを目にしたら、どんな想像をされるか分からない。
というか、状況的にもう母は見つけたに違いない。
大きな胸で遮られているため、母が今どんな表情をしているか、全く分からない。
僕は起き上がろうとしたが、母の手が僕の体を押さえつける。
そのあまりの力の強さに、僕はそのままの姿勢でいることを強いられる。
「あ、あの、お母さん」
「春樹、あなた、初子さんと会ってきたの?」
「え!?」
母の声色は柔らかい。怒ってないのかな……?
「ダメでしょう、よその家の人にご馳走になっちゃ」
一緒に食事をしたことまで見透かされている!?
ど、どうして……
「違うの?」
「いや、その……そうです、はい」
そうか、お弁当を片づける前に眠ってしまったから、家でお弁当を食べたことも気づかれてしまったんだ。
華山家の人間と会っていて、弁当は自宅で食べた。この二つを繋ぎ合わせて考えると、華山家の人間と一緒に昼食を摂った、という仮説が浮かび上がるのは当然のこと。そして僕に援助のお金を渡しつつ、昼食を共にする華山家の人間は、実母の初子しかいない。
母は僕の首を優しくなでるように包む。
「春樹、あのお金は返してきなさい」
「……あの、お母さん、あれは――」
「返してきなさい」
優しい声色ながら、有無を言わせない威圧感があった。
「……はい」
「それと、ご飯代も一緒に返してきなさいね。一万円、余分に入れておいたから」
「でもあれは――」
「よその家の人に奢ってもらう義理なんかないんだから、こういう時、しっかり裏で代金は払うものよ。春樹は子供だからまだ分からないだろうけれど」
「お母さん……」
「そうよ、私があなたのお母さんなの。春樹、あなたは私の息子でしょう?」
「……うん、でも」
「あなたまさか、本当は華山家に行きたいとか思ってるんじゃないでしょうね?」
「そ、そんなわけないじゃん」
「私たちは血が繋がっていないから、同じ血の通った人と一緒に暮らしたいって、本当は思ってるの?」
「そんなこと思ってないよ」
「ずっと二人きりで生きてきたのに、元の家族と一緒に暮らせるかもってなったら、私を置いていこうとするつもりなの?」
「そんなわけない」
「そうよね、私たちは血よりも大事な絆で結ばれてるものね」
血よりも大事な絆。
同じ孤独の痛みを慰め合い、二人きりで生きてきた十数年の時間のことを言ってるのだろう。
「あなたがいなくなったら、私は生きていけないわ」
母は僕の頭を撫で始める。
「私の可愛い春樹。あの小春ちゃんとも、縁を切ってくれるわよね?」
「えっ!?」
思っても見ない言葉が飛び出す。
「あの子があなたの妹としてあり続けるってことは、あなたは華山家の人間になろうとしているということじゃないの?」
「そ、それは違うでしょ」
「違わないわ。あなたは影山春樹。あの子は華山小春。影山家は二人だけの家族なの。影山家に、妹なんていない」
僕は甘く見ていた。
母の、僕に対する愛の深さを。
母にとって、僕の母であり続けることこそが自分の存在理由なのだ。天涯孤独の身である母は、僕がいなくなったら、それこそ本当に一人になってしまう。
「……分かったよ」
「そう、嬉しいわ」
ようやく母の力が抜けたので、僕は起き上がる。
母の顔を見ると、目は赤く腫れ、泣いていたであろうことが窺えた。母に余計な心労をかけてしまったことを後悔する。
やっぱり、小春との関係を維持するのは無理な相談だったんだ。
僕は影山春樹。
影山家は、二人だけの家族なのだから。
2
翌日、僕は夏期補講が終わったあと、小春を連れて校舎裏に向かった。二か月近く前に、小春から呼び出された校舎裏だ。
「どうしたんです? お昼食べないんですか?」
小春はこっちの気も知らずに呑気な声を出す。
「今日はちょっと、話があって」
「話?」
小春との関係はここから始まった。
実の妹から告白をされるという、あの衝撃の放課後。
あれから、十数年ぶりに小春と触れ合うことができて、僕は本当に嬉しかった。一度は嘘をついて関係を断とうとしたけれど、小春は自力で僕の正体に辿り着き、本当の兄妹として過ごすことができた。
しかし、僕は母を裏切ることはできない。
僕は影山春樹だ。
僕が小春と接触をすることは母にとって大きな心労になってしまう。小春と共に過ごすことで僕の気が華山家の方に向いてしまうのではないか、と。
「あの、春樹先輩」
僕がどうやって切り出そうか思案していると、小春の方から口を開いた。
どこか神妙な面持ちで、なんだかいつも様子が違う。
「なに?」
「実は私の方からも、大事な話があって……」
「え?」
「あの、実は――」
小春はうろうろと視線を移ろわせ、もじもじと体をくねらせる。
いったい、なんだろう。
「私、春樹先輩のことがまだ好きなんです」
「……は?」
なにを言っているんだ?
「お兄ちゃんって分かったあとも、春樹先輩のことが好きな気持ちは消えなくて、その、だから、一人の男の人として、好きなんです」
僕は眩暈がしそうだった。




