遠い昔の幻影
1
翌日。
「春樹」
「え? お母さん?」
いつものように昇降口で小春と待ち合わせていた僕は、そこに佇む人影を見て面食らう。
「一ヶ月ぶりくらいかしらね」
「う、うん」
そこには僕の実の母、華山初子がいた。前に会ったのは三者面談の前日で、華山家で一緒に暮らさないか、という提案をされた。結局その話は断りを入れ、それから会う機会がなかった。
実母とは富士宮で暮らしてからも、定期的に連絡を取っていた。母がいい顔をしないので、会う機会こそ少なかったけれど。
「春樹お兄ちゃん、びっくりした?」
小春も一緒だ。お兄ちゃんという呼び方は母がいるからだろう。なんだかこそばゆい。
「小春が呼んだの?」
「はい、せっかくですし、家族三人で一緒にご飯でもどうかなって」
家族三人でご飯……
嬉しく思う一方で、胸の奥のさらに奥がかすかに痛んだ。
「春樹、このあと予定があったりする?」
「いや、ないよ。大丈夫……」
「じゃあ、行きましょうか」
母は車で来たようで、敷地を東西に貫く並木道の路肩に、レクサスが停まっていた。
「春樹、なにか食べたいものある?」
「あ、いや、なんでもいいよ」
「そう、じゃあ、お寿司でも食べに行きましょうか」
「わーい」と小春が狭い車内で万歳をする。
車に揺られている間、僕は膝の上に乗せたエナメルバッグが妙に重く感じていた。おそらく、母が朝早く起きて作ったお弁当が入っているからだろう。
回らない寿司屋なんか初めてきたぞ。
しかも、こういうとこってお昼からでもやってるんだな。
四人掛けのテーブルに落ち着く。
「春樹、好きなものを食べていいからね」
「あ、うん。ありがと」
「私、うに」と小春が注文を投げる。
それからしばらく、僕たちは寿司の味を堪能した。
……そういえば、ずっと昔、まだ父も母も離婚をする前、家族四人で回転すしに行ったっけな。軽自動車に一家四人詰め込んで乗って、小春はまだ一歳ぐらいで、アイスばかり食べていた。
遠い昔の思い出が不意に蘇り、僕は涙が少し滲んだ。
「春樹お兄ちゃん、泣いてます?」
「……いやちょっと、わさびがきつくて」
「おこちゃまねぇ」と母は微笑む。
昔もワサビ抜きのお寿司を頼んでいたなぁ。
もう二度と手に入らない家族四人で過ごした日々。
あの日々はたしかに在ったものなんだ……
2
食事を終え、お茶を飲んで一息ついたところで、母は口を開く。
「そういえば、春樹。進路は決まってるの?」
「うん、静岡市の大学に行こうかなって」
「そう。前にも言ったけど、春樹、やっぱりうちで一緒に暮らさない?」
「え?」
「お兄ちゃん、うちに来るの?」
小春が喜びに満ちた声を出す。
「大学に行くのなら、なおさらお金がかかるでしょう? 生活費だけじゃなくて、学費もかかるわ。奨学金を借りるの?」
「いや、その予定はないかな」
「雪美さん一人じゃあ、負担になっちゃうわよ」
「でも、僕もバイトをするし……」
「学生をするなら、やっぱり学生じゃないとできないことに時間を使うのが肝要よ。そりゃ、社会経験の一つとしてバイトをしてみるのも悪いことじゃないけど、時間と体力をバイトで消費して、勉強が手につかなくなったら、本末転倒よ?」
「それはまあ、そうだけど」
「うちで暮らせば、生活費には困らないし、富士市だから静岡市へのアクセスもしやすくなるわ」
「いや、それはちょっと……」
「今よりずっといい環境だと思うけど」
「でも、その、なんて言うか、小春やお母さんはまだいいけど、他人と一緒に暮らすのは……やだなって」
華山家の旦那さんや、小春の妹や弟たちにとって、僕は他人だし、僕にとっても彼らは他人だ。まあ、下の子たちは種違いの異父兄弟ではあるけれど。
それになにより、母を、影山雪美を裏切るようなマネはできない。
「……それはそうね」
母は思ったよりもあっさり引き下がった。
「私、トイレ行ってくる」
小春が能天気に席を立つ。
「じゃあ、せめて、援助だけはさせてちょうだい」
そう言って、母は鞄から分厚い茶封筒を取り出す。まさかあの中身は……
「え!?」
「たぶん、私が雪美さんに直接会って渡したら、嫌味みたいに思われて、また喧嘩になっちゃうと思うから」
「いやいや、そんなの大丈夫だって」
「いいから」
母は僕に封筒を押し付ける。
「あぅ」
持ってみた感じではかなりの額が収まっているように思う。
「私には、こんなことしかできないから」
「お母さん……」
「あの時、ちゃんと迎えに行ってあげられなくてごめんなさい」
あの時、というのは父が失踪した時のことを言っているのだろう。
「無理にでも引き取ってあげればよかった」
「……僕が行きたくないって言ったんだから、気にしないでよ」
あの時、華山家はすでに完成された『家庭』だった。両親がいて、兄がいて、小春がいて。小春は知らない少年を兄と慕い、母は父ではない男と寄り添う。そこに僕が入り込む余地などなかった。
それに、僕にとって『家庭』とは藤沢市で四人で過ごしたあのわずかな数年のことだ。両親の離婚によってそれが失われた段階で、僕はもう諦めていた。
自分の力ではどうにもできないことを望んでも、それは絶対に叶わない。
だから、父が蒸発し、継母の下に残されても、僕は無気力のままだった。
泣いて父が帰ってくるわけではないことだけは分かっていた。
望んでも無駄だから、諦めていたのだ。
華山家に引き取られることを拒んだのはだから、僕の唯一のプライドがそうさせたのだろう。
いくら実母がいるとはいえ、華山家で腫物のように扱われるぐらいなら、一人ぼっちの方が気が楽だと、幼心に分かっていたのだ。
でも僕は一人ではなかった。
僕と同じ、帰る場所を失う苦しみを味わい、僕の孤独を理解してくれる人がいた。
それから僕たちは、孤独の傷を癒すように二人だけで生きてきたのだ。華山家に引き取られていたら、過去の思い出を幻影として追い求め続け、僕は未だに人生を諦めていただろう。
だから母を責める気はないし、むしろ僕の意見を尊重してくれてありがたいとさえ思っている。
「お待たせしました」
小春が戻ってくる。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「うん、ご馳走様」
「いいのよ、これくらい」
*
母に家まで送ってもらった。
「ありがと」
「またね」
「ばいばい、お兄ちゃん」
去っていく車を見送り、僕は家に入る。
時刻は午後二時過ぎ。
「ふう」
このお金、どうしよう。
封筒の表には硬い書体で『華山家より』と書かれている。
母になんて言えばいいんだ。
ああ、それよりまずは、お弁当を食べておかなきゃ。
僕はバッグから弁当箱を取り出す。弁当を包む大量の保冷材はまだ溶け切っておらず、たぶん、食べても大丈夫なはず。
母が仕事から帰ってくる前に食べきらないと。
「う、うぷ」
寿司は食べ過ぎないようにしていたけれど、やっぱりこの量はきついぞ。胃に無理やり詰め込むようにしてなんとか食べ終え、僕はどさっと横になった。
く、苦しい。
お腹が破裂しそうだ。
胃が完全に満たされると睡魔がやってくる。
うとうと、という感じではなく、意識が途切れるような、そんな強烈な睡魔が……
「すぅ」
「ただいま」




