名前
1
目の前に広がる光景、そしてそれが持つ意味。
それらを脳が理解するにつれて、うちは全身の血がぐんぐん巡るのを感じる。
あのむちむち姉ちゃんが影山先輩のお母さん?
いやいやだって、それはおかしいって。
だって、影山先輩ははるっちと自分の母親の名前が一緒だから、告白を受け入れることができないって話っしょ。
でもさっき、うちは光先輩の家ではっきり耳にした。『雪美ちゃん』という名前を。
これはいったいどういうことだ?
あのむち姉の名前が雪美で、影山先輩のお母さんってことになるのなら、話は一八〇度変わるじゃん。
どうしてはるっちをフったのか、という理由がふりだしに戻ることになる。
いやそれよりも、どうしてそんな嘘をついてまで、はるっちの告白を断ったのか……人混みに紛れていく影山母子。
うちはその後をつける。
もしかすると、「お母さん」というのはうちの聞き間違いかもしれない。あのむちむちは見た感じ二十代後半ぐらいだから、「お姉ちゃん」というのをうちが聞き間違えたのかも……無理がありありだけど。
「そうだ、お母さん、明日は午前じゃなくて一日になったから」
「分かったわ」
あー駄目だ、はっきり「お母さん」って言ってる。
やっぱりあのむちむちが影山先輩のお母さんで確定なのか。うちは食品売り場を抜けてフードコートの一席に落ち着く。携帯を取り出し、確実な裏を取るために光先輩に電話をかけた。
数秒の呼び出し音の後、光先輩の声が聞こえた。
「はいはい、ゆっちゃんどしたの?」
「ちょっと聞きたいんすけど、さっき先輩んちにいたむちむちのお姉さん、あれって影山先輩のお母さんなんすか?」
回りくどく聞いている暇も余裕もないので、うちはストレートに問い質した。
「え? ゆ、ゆっちゃん、どうしてそれを?」
やや動揺した声が返ってくる。この反応、ビンゴだ。
「やっぱりそうなんすね。あの人、雪美って人っすよね。光先輩のお母さんがそう呼んだのを聞いちゃいました」
「う、うん。そうだよ。そう、だけど」
「で、今イ〇ンでその雪美って人を影山先輩が「お母さん」って呼んでたのを見たんすよ」
「あぁ」
「ってことは、っすよ? 影山先輩が名前が同じだから無理ってはるっちに言ったのは、嘘ってことになりますよね?」
「……そう、だね」
「このこと、光先輩は二人の名前は本当は違うってこと、知ってたんすか?」
無言ののち、重たい息をつくのが聞こえた。
「私もね、最初にその理由をゆっちゃんから聞いた時、なんで、って思ったの」
たしかに、新潟でこのことを話した時、光先輩はあっけにとられたような顔をしていたのを思い出す。
「で、その後は取材でごたごたしてたから話すタイミングがなかったの、ごめん」
「いや、先輩が謝ることじゃないっす」
「それでね、影山くんに直接聞いたんだ。なんで嘘をついてまで小春ちゃんを遠ざけるのか」
「光先輩は、全部知ってるんすか?」
「うん、全部聞いた」
「それで、なんて言ってたんすか?」
いよいよ話が核心に迫っている。うちは呼吸が荒くなり、心臓がきゅっとなる。冷房が十分効いている店内なのに、冷や汗が止まらなかった。
「……ごめん、言えない」
「え?」
「影山くんからは、誰にも言わないようにって念押しされたんだ」
「ちょっ、ちょっと、それはないっすよ」
「影山くんがそう決めたんなら、私は彼の意思を尊重してあげたい」
重く、低い声の調子から、光先輩の心の中でも葛藤があったのだと分かる。
「だから、ゆっちゃんも――」
「……うちは、このことをはるっちに伝えます。これは別に光先輩がうちらにこっそりリークしたってわけじゃないっすから」
「……」
「すいません。じゃっ」
うちは通話を切った。
2
私たちはあのアパートから徒歩で一分ほどの距離にある、公園にやってきていた。数人の子供たちが遊んでいる。
鉄棒、滑り台に砂場やブランコ。奥には水飲み場があり、パンジーの花壇がある。木陰に設えられたベンチには保護者と思しき中年の女の人が二人腰かけており、談笑をしていた。
どこにでもありそうな、ごくごく普通の公園の風景。
私はここでも既視感を覚えていた。ここにも来たことがあるのだ。
園内を散策する。
滑り台の前を通った時、ふと心がざわついた。
塗装が少し剥がれている青い滑り台。その階段に近寄った瞬間――
『うわああん』
『痛い痛いのとんでけー』
再び隠された思い出が蘇る。
「美月ちゃん、私、ここから落ちたことある」
「ここって、滑り台?」
「うん、この階段で足を滑らせて、尻もちをついて、痛くて泣いちゃったんだ。そしたら、『痛い痛いのとんでけー』って慰めてくれて……」
「誰が?」
「分からない。たぶん、お兄ちゃんかな」
その思い出の中でも、私を慰めてくれた誰かにもやがかかっていて、それが誰かははっきりとは分からなかった。
でもたぶん、状況から考えて陽太だろうか。
それから私たちは再びアパートの前に戻る。
その間にも、懐かしいものに触れては思い出が蘇り、私はこの街こそが自分の生まれ故郷であるということを確信する。
同時に、どうして家族の誰かはそれを隠そうとするのか、という疑問が強く残る。
「小春、そろそろ帰りましょうか」
「……うん」
歩きで駅まで向かうのは億劫なので、タクシーを呼ぶことにした。十分ほどでタクシーがやってくる。
家に帰ったら、今日のことを話そう。あの写真について、尋ねるんだ。
そして私たちを乗せたタクシーが動き出す。振り向いて、どんどん小さくなってく〈コーポ吉原〉を眺めていると、
「へ? あれ?」
「小春?」
「な、なんだろ」
不意に涙が溢れてきた。
「ちょっと、どうしたのよ」
「分かんない、なんだろう」
なにが原因なのか分からないが、とにかく悲しくてたまらない。涙はどんどん勢いを増していく。
拭っても拭っても、止まる気配はなかった。
「ちょっと、お客さん、大丈夫かい?」
「は、はい」
初老の運転手が気遣ってくれる。
「す、すいません。ここで降ります」
美月に肩を貸されながら歩道に下りる。
「どうしたの?」
背中をさすりながら美月は優しい声で尋ねるが、私にもこの悲しい気持ちがどこから来るのかは分からない。
ただひたすら、感情を涙に変えて吐き出すしかなかった。
「ひっく、うわああああん」




