前編
初めに言っておけば、そういう事だけを想っていた。それだけを考えることに時間を使った。だからおかしくないことだった。病理を持っていなかった。。
今も臆病だから、ずっと怖がっている。でも忘れられたから。思い出した今でも、見ないふりが出来るから。
誰だって時間から乖離する。逃避のためだ。誰だってまともじゃいられない。だからありがたかった。。
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前編
『狼が来たぞ!』から始まる童話を知っているか? そう、オオカミ少年だ。『狼が来たぞ!』からは始まっていない? それはどうでもいい。そういう話があることこそ重要であり、そういう話を誰もが知っていることに意味がある。
無知な人のために、オオカミ少年のあらましを説明すれば。だいたいこんな感じだ。
とある暇を持て余した羊飼いが、狼が来たと嘘を言い、村人を脅かした。そして本当に狼がやって来た時に、誰にも信じてもらえず、羊は全て食べられてしまった。
そんな分かりやすい教訓を含んだお話だ。
ただこの話は、もちろん寓話でしかない。どこにもそんな実話はない。ただの想像の産物だ。唾棄すべき創造だ。
怒る理由は簡単だ。そのままの実話はないが、この話にはモチーフがあったから。それをこうも易しい話にされたら、それは吐き捨てたい。
オオカミ少年ではない、狼といた少年の話だ。
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寒村の領主──貴族の家に、賢い子どもがいたんだ。その子どもは大人が恐れるくらい、頭が良かった。そうだ……僕はあの頃、七つだった。
僕は川辺に打ち捨てられた孤児であり、記憶がなかったために、貴族家に養子として引き取られた子だった。それもあったのだと思う。家族はもちろん、村の誰からも理解されなかった。孤独を常から味わった。
ある時思いつきから、『狼が来たぞ』と嘘をついた。あの時の自分はおかしかった。誰にも見てもらえないことが、苦痛だった。
大人は、僕を恐れていたが、僕の頭の良さは知っていた。だから嘘はすんなりと信じられた。村中で騒ぎが起こった。あちらこちらで慌しくバタバタと。
それを十分に楽しんだ後に言ったよ。──嘘だ。とね。
大人は怒った。そして訊いてきた。なぜそんなことを言ったと。それがたまらなく面白かった。だから笑うだけ笑った。上品に、こうクツクツとね。そうしたら、その場での追求は終わりを迎えてくれたけど、その代償だろう。ますます不気味に思われた。
でも僕は何度か嘘をついた。その度に村が大騒ぎになるのが、面白くて。ただやがて、誰にも信じてもらえなくなった。
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相手にしてもらえなくなってからは、僕はよく、誰も来ない草っ原で、本を片手に寝転んだ。
多くの人が忙しなく働いている。きっと彼らは緩やかに空を眺める時間もないんだろう。贅沢な時間だった。
これがもちろん意地で、不貞腐れての行為なのは、君の想像通りだ。恐れられるだけじゃなくて、今度こそ、誰の目にも映らなくなったから。家を追い出されるまでに至らなかったのは、僕が幼いことと、僕を引き取った領主の人柄ゆえに他ならない。
居場所を無くした僕は、いっそのこと、誰もいない世界で、誰のいる世界を見続けようと思った。お金の心配はないから。
そうして見つけたこの場所は、程よく隆起した岩もあって、本を読む際は腰掛けるに適していたし。前述したように空を眺めたなら、それも草っ原に倒れ込んだなら、気持ちが良かった。
ただいつからか、僕はこの場所を違う用途で使い始めたんだ。そこに彼女が現れたから。
いつだったかな。初めて会ったのは、寒村らしく、寒い風が吹き始めた九月の頃だったと思う。岩に背中を預け、本を読むのにも飽きた、ちょうど夕暮れ時だった。声をかけられたのだ。「何をしているんだ?」って。
声のした方に振り返れば、隆起したまだら模様の灰色の岩の上、そこに彼女がいた。彼女が僕を見下ろしていた。
容姿は大変美しかった。一目で分かる美がそこにあった。まつ毛はうっすらと細長く、唇は光沢がある淡い桃色。金色の瞳の中にある、細長い黒の瞳孔は、一見異様で、化け物にも感じられた。でもそこにある好奇の想いが、人懐っこい口角の上がり方が、その瞳を幻想に変えた。
魅力があった。吸い込まれるではない、いつまでも見ていたい瞳になった。
彼女の容姿から感じたことを話し出すと、きっと時間が足らなくなる。だけど後二つだけ言及しておきたい。
それというのも、僕が彼女の瞳に化け物を見出したのは、その姿のせいもあったからだ。美しい銀色に光る髪に紛れて、頭部の両側からは、ツンと尖った耳が生えていた。又、彼女のお尻からは、見事な毛並みと大きさを誇る、立派な尻尾が生えていて、風に揺られていた。
それらは間違いなく、獣の耳と尾であった。もっと言えばそれは、狼の物に近似……。
いや、何を隠そう。草原で出会った人離れをした雰囲気を纏う彼女は、そのまま人外だった。一糸纏わぬ姿が当然だと態度で示す彼女は、人と価値観が違っていた。彼女は人の姿をしただけの狼だった。
そしてその子は、僕の唯一の話し相手であり、僕を唯一信じて、人間扱いしてくれた女の子だった。
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出会った初めこそ人と違う姿に驚いたが、その子に凶暴性はなく、人と違う世界で生きているのは明白なのに、人に対して理解があり、人に寄り添ってくれた。その姿勢が真摯で、村の誰よりも心根が優しいと思えた。
そんなだから、その子とはすぐに仲良くなった。ここで、誰も来ない原っぱで、たわい無い話を繰り返したし、二人で村はずれにある、深夜の教会に忍び込んだりもした。
あの日々が楽しかった。嘘偽りなく、楽しかった。
彼女は僕の話を、偏見なく聴いてくれた。それもありがたかった。
ただその内に訊かれたんだ。「どうして君は、いつも一人なの?」って。
今から思えば、あの質問には答えなければよかったんだ。そうすれば、ずっと楽しい日々だったから。しかし自分は、頭が良いというだけで、普通過ぎるくらいには普通だった。だから素直に言ってしまった。みんなに信じてもらえなくなったからだと。
彼女は僕の話を聞き、そうかと言った。そこにも寄り添った愛情があった。そうして少しの空白の後、彼女はその姿を変えていき、僕に提案したのだ。
私があなたについて行ってあげるよ。そうしたら、また信じてもらえる。
その姿になったために、言葉が通じなくなってしまったが、間違いなく彼女はそう言っていた。優しく勇敢な瞳だった。
人間の姿の彼女も美しく愛らしかったが、狼の姿になった彼女もまた、同等の、いやもっと、凄く、とても、本当に……! 美しくかった。
でもそれは、彼女と時間を費やした僕だから、そう感じられたのだという事を、僕は分かっていなかったんだ。
彼女を客観的に見れば、恐ろしい獰猛な獣にしか見えなかったのだから。
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僕は誤った。選択を誤った。それを話すのが辛い。僕は、僕は、僕は……。
狼が来たぞ! と言ったのだ。
今度は本物の狼を連れて。村の中で言ったのだ。
最初は誰も、例の如く信じなかった。でも、それを見かねた彼女が、一声吠えてくれたから。それで、それで……成ってしまったのだ。事実が!
村人は狼の遠吠えに驚き、家から出てきた。あるいは窓を開けた。そして彼女の姿をはっきりと見た。それで狼がやって来たのを事実だと、誰もが知った。今度こそ村は、本当の混乱に陥った。慌ただしく村人が動き出したのを知って、これはまずいと思った。
僕は彼女に逃げるように伝えた。
彼女も全く、ここまでことになると思っていなかったから、言葉は交わせずとも、すぐに頷いて、ここから逃げてくれた。
間一髪の所だった。武器を持った村人が何十人と塊を作って、警戒したのだ。
その光景を見て、冷や汗が止まることなく流れた。彼女は間違いなく今日は逃げ出せた。それは良かった。でも本当に危なかったのだ。
いくら彼女でもこの人数に敵わなかっただろうし、そもそも優しい彼女だ。誰かを傷つけたいとも思っていない。そうしたら、待っているのが何か……言わなくても分かるだろう。
狼が去ったのを知ったらしい。やがて村は落ち着きを取り戻した。それで狼が迫っていることを知らせた僕は、その功を讃えられ、褒められ、そして許されたのだ。中には「疑って申し訳なかった」と謝罪をする大人もいた。
だからこれでハッピーエンド。
人に信じてもらえた少年は、また人を信じられるようになりました。めでたし、めでたし。
となったなら、どんなに良かっただろうか。
なんてことはない。不運の連続だとかそういうことではない。乳の出なくなった家畜が肉にされるように、この後起きる当たり前の現実として、悲劇が起きたのだ。
本日の朝、6時に続きを投稿します。