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Pour toujours

作者: 西澤 瑠梨


──まるで世界に私達二人きりみたいだね。




ある朝彼女はそう言って、笑っていた。



彼女は南の出身だった。だから彼女は雪を見たことがないらしくて、新婚旅行は雪が沢山降る場所に行くことにした。


「雪が沢山降った朝は世界が無音なんでしょ?」


そう小説で読んだから、と言ってはしゃぐ彼女はいつになく愛おしく見えて、旅行先選びは間違ってなかったな、と嬉しくなる。一生の思い出になるような、喜んでもらえる素敵な旅行になるように張り切って旅程を考えた。



そうして宿泊先に選んだのは森の中にあるコテージ。便利な都会でも、有名な観光地でもないけれど、雪が多く降る地域の静かな森の中で、コテージの近くに散歩が出来るようなコースや、湖もあり二人でゆっくり過ごすにはぴったりだった。




当日は朝早くに家を出て、車で三時間半かけて目的地に着いた。前日張り切りすぎてあまり寝られていなかった彼女は、車に乗ってすぐ寝てしまった。少し寂しかったけれど、お気に入りの曲が流れる中、隣に彼女を乗せて新婚旅行に行く、そう思うと全てが愛おしくなった。途中で彼女を起こして道の駅に寄って、有名な足湯に浸かってお昼ご飯を食べた。ご当地のソフトクリームも食べた。こんなに寒いのにソフトクリームを食べるなんて、と彼女は言うけれど、寒いからこそ美味しいのだ。まぁ、本当のことを言えば、冷たいソフトクリームはあたたかい炬燵とセットが一番なのだけれど。


道の駅を出てしばらくすると、少し雪が降った。コテージの近づくにつれてそれもすぐに止み、それまでどんよりとしていた空が少し明るくなってきて、雲間から太陽が見え隠れするくらいには天気が回復していた。コテージに着いて、車を停める。車から降りた途端、彼女が積もった雪に向かって走り出す。


やっぱり。来る途中も積もった雪がちらほら見えていた時点ではしゃぎ始めていたから、きっとそうすると思っていた。ぼふっと雪の中に飛び込んで、笑いながら起き上がった彼女の髪には雪が付いていて、彼女が巻いている赤いマフラーと雪のコントラストが綺麗で、印象的だった。


「そうだ、探検に行こう。」


ガバッと起き上がって彼女はそう言った。


「ついて早々過ぎない? 」


と答えたけれど彼女はもう歩き始めている。行動が早すぎだ。髪に雪がついてるよ、と言って彼女を引き留めて髪を梳く。近くの湖に散歩コースがあるみたいだからそっちの方に行ってみようよ、と誘った。彼女はかなりの方向音痴だから一人で行かせて、脇道にでも入って遭難したら目も当てられない。特にここは初めての場所だからはしゃぐ気持ちもわかるけれど、心配だ。



丁度雪が止んでいて、風もなく日差しが心地いい。日に当たる雪もキラキラと輝いていて、綺麗だった。とりとめのない話をしながら少し歩くと身体が温まってきて、散歩日和でよかった。散歩中、彼女が何回も雪だるまを作っては持って帰りたがったから、コテージに戻って二人で大きな雪だるまを作った。そして彼女は完成した雪だるまにご執心で、自分の赤いマフラーをかけてあげていた。よっぽど気に入ったのか、トゥジュールと名付けたらしい。男の子だそうだ。なんでトゥジュールなのか聞いてみたけれど、秘密と言われて少し嫉妬してしまった。


その日の夜、時期的に流星群が見られるとニュースで流れていたから、二人でコテージのベランダに出て、温めたワインを飲みながら流れ星を数えた。運が良かったのか直ぐに何個も見えた。あまりにも沢山見えるから、柄にもなく彼女とずっと一緒にいたいとありきたりな願い事をしてみたりした。彼女の願い事も同じだといいと思った。


次の日の朝、彼女がベッドから出た気配で目が覚めた。暫くして小さくカーテンの開く音と、彼女の感嘆の声が聞こえた。窓の外に見惚れる彼女を邪魔しないようにベッドから出て、そっと後ろから抱きしめる。


「まるで世界に私達二人きりみたいだね」


そう囁く彼女の肩口に顔を埋める。幸せとはこういうものなのか、そう思った。そして、これから毎年二人でここに来よう、そう言った。


彼女は頷いた後、幸せだね、と言った。二人とも声が笑っていた。顔は見なくても微笑んでいることがわかった。


そして窓辺で僕らはキスをした。





夢のような新婚旅行から半年後、彼女の病気が発見された。──膵臓癌だった。


漸く彼女を紹介するのに妻と呼ぶのも、夫ですと名乗るのも気恥しさが抜けて、自然と口にできるようになった頃だった。


病気に気づいた時にはもう手遅れで、余命三ヶ月と宣告された。動揺して、すぐには受け入れられなかったけれど、彼女は思いの外落ち着いていた。


手にした砂が零れ落ちていくように消えていく彼女の命に、ただ縋るしかなかった。子供みたいに泣いて喚いて、逝くなと言いたかったけれど結局何も言えずに抱きしめることしかできなかった。


そして丁度三ヶ月後、彼女は穏やかに逝った。きっと、幸せになってね、という言葉を残して。


うだるような暑さもようやく終わりを迎え、一瞬だった秋も過ぎ、冬の足音が聞こえてきた頃のことだった。




彼女と歩む人生は確かに幸福だった。彼女のいなくなった人生は止むことのない吹雪の中を、一筋の光もない洞窟を、たった一人で歩くようなものだった。


失った彼女を探すように、思い出の場所を巡った。初めてデートをした映画館も、いつも待ち合わせをした最寄り駅の改札前も、何度も二人で通った近所の本屋も、プロポーズをした夕日が綺麗だと有名な浜辺も、何一つ変わっていなかった。ただそこに、彼女がいないだけで。幸せになれと言われても、そうはなれそうになかった。




ふと付けたテレビで初雪のニュースが流れていた。このあたりはいつも年に数回しか雪が降らなくて、珍しいと思った。例年より多いという初雪に、何かが引っかかる。雪……? カレンダーを見て気づいた。彼女と行った新婚旅行から今日がちょうど一年だ。毎年ここに来ようと約束したことを思い出す。いてもたってもいられなくて、家を飛び出してあのコテージへと向かった。


あの時寄った道の駅には、寄らなかった。早く、とあのコテージに呼ばれている気がした。途中で思い出してコテージに電話をかけた。あの、一年前にお世話になった者です、コテージは空いていますか。慌てていたからなんと言えばいいか分からなくなってしまったけれど、運がよかったのか当日でもコテージは空いていた。逸る気持ちを抑えながら車を走らせて、やっと着いた時はお昼をとうに過ぎた頃だった。



途中に積もった雪もコテージも、あの時彼女が飛び込んだ雪も変わらず、同じようにあった。コテージのドアを開けて中に入る。今にも隣の部屋のドアを開けて彼女が出てきそうだった。ベランダに立っている彼女が見えそうなくらいなのに、コテージは冷たく冷え切っていた。辺りは静寂に包まれていて、自分の鼓動と息の音が聞こえるだけだった。チャリ、と車の鍵が手から落ちる。鍵と同じように膝から崩れ落ちる。もう、涙を堪えきれなかった。ずっと彼女を探していた。信じたくなかった。認めたくもなかった。でもやっぱり、彼女は死んだのだ。確かにもういないのだ。どこを探しても、もう二度と見つからない。それは紛れもない事実だった。身がちぎれそうなほど咽び泣いた。慟哭の中は絶望と虚無だけだった。



寒くて、少し眩しくて、外を見ると日が昇っていた。気が付かないうちに眠ってしまっていたようだ。涙の跡を拭い、起き上がる。窓の外は一面銀世界で足跡一つなく、とても幻想的だった。


良い天気だな、と思った。そうだ、散歩に行こう。あの時のように。今ならもう一度と彼女と歩ける気がした。


とりとめもなく歩いていたら、見覚えのない場所に出た。鬱蒼と茂っていた木がここだけポッカリあいている。地図も看板もない散歩道だけれど、間違えたはずはない。不思議に思って振り返ってみて驚く、さっきまで通ってきた道はどこにもなかった。




視界の端に赤い何かが映った。無意識のうちに足を踏み出し、それを追う。そういえば彼女は赤いマフラーをつけていた。あの時マフラーは結局どうしたんだっけ。もしや、あれは。なんでここに、彼女の、いやまさか、どうして。混乱した。誰のマフラーか、それ以前にまずそれがマフラーかどうかもわからなかったけれど、それでもあれはマフラーだと思ったし、どうしようもなく惹かれる何かがあれにはあった。木々の間からちらりちらり見える赤いそれを追いかけて走る。何度も足がもつれて、木に引っかかって、こけて、靴はずぶ濡れだった。


こけて何度目か、顔を上げた先に、後ろ姿の彼女が見えた。赤いマフラーを、していた。


思わず名前を呼んだ。一度目は掠れて声が出なかった。二度目は小さかったから聞こえなかったのかもしれない。三度目はしっかり呼んだつもりだった。四度目も、五度目も、何度呼んでも彼女は振り向かない。寧ろ遠くへと、歩いていっているようだった。震える脚を叱咤し、つんのめりながら後ろ姿の彼女を追いかけた。一歩、二歩、進めば彼女に触れることができる気がして進みながら、思わず手を伸ばす。


踏み出した足の先は宙だった。一瞬の浮遊感の後に衝撃がきた。息が詰まって肺をギュッと握られているような気がする。


こぽり、と何かが溢れて流れ出る感覚がした。何故か熱い気もした。目の前が白く霞む。雪の中に埋もれた自分の腕と、真っ白な雪と、赤いマフラーがちらりと見えた。掛けた声は、伸ばした手は、彼女に届いただろうか。



彼女が名前を呼ぶ声が聴こえる。

あぁまるで、世界に二人きりみたいだ──





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