0.■プロローグ
「おい! やめろ!! く、来るなっ!!!」
「いえ、あなたを殺して私も死ぬの……」
女は牛刀を持ち、男にじりじりと近づく。
男は怯えながら後退りし、ついに部屋の壁に追い詰められてしまう。
六畳一間の部屋の隅では逃げ出すことも至難のようだ。
これは痴情のもつれから生まれたものであり、男は別れを告げることが一筋縄ではいかないと予測を立てていた。
だが、まさか生命の危機になるとは思いもしなかったのだ。
「お、おい……まさか、ホントに刺したりしないよな?」
「………」
「い、嫌だ、俺は死にたくない!!」
「別れるぐらいなら、心中するわ」
「お、お、落ち着けって……うぐぅ!」
腹部に走る強烈な痛みと熱さ、両手で思わず抑えたが手は血まみれになっていた。
(痛い、痛い、痛い、痛い、嫌だ、嫌だ、嫌だ、死にたくない! 死にたくない!)
「ぎゅああああぁぁぁぁぁぁああぁ―――――!!!!!」
あまりの激痛に大声を出してしまうのだが、喉元への無慈悲な一撃によってその声は途切れることになる。
「ごぼぉっ! ごぼっ!」
喉に血が溜まり、声を発することが出来ない。
そんな男を冷めた目で見る女の顔は血化粧に染まる。
血の勢いを止めるため腹部にあった手を喉元に持ってくるが意識が遠のき、男は膝から崩れ落ちてしまう。
―――ドスッ!!!
そして容赦なく続く背中への痛み、声も上げることも出来ずに視界も霞む。
「かっ、ひゅ、かひゅ」
辛うじて息をするが、もはや虫の息である。
バンッと勢いよくドアが開く音が男の耳に入ったどうらや、叫び声を聞いて誰かが入って来たようだ。
「おい! ――やめ―――だ―――!」
「このひ――わた―――い!」
部屋の玄関で言い争いが聞こえてくるのだが、声を発することが出来ぬまま、男の意識は次第に遠のいてゆく。
(誰かが入ってきて言い争いが聞こえるけど、なんだろう。上手く聞き取れないみたいだ)
(どうやら耳も聞こえなくなってきている……たぶん俺はこのまま死ぬ……そして心残りは割とある)
(親に無理言ってゲーム製作の専門学校に行かせてもらったけど、結局遊んでばっかだったし、バイト先で女の子とノリで付き合ったけど、ゲーム優先するために振ったら結局刺されちまったし、結局人生ってこんなもんか?)
(あっ! なんか思い出が次々浮かんでくる……これが走馬灯ってやつか?)
(小さい頃はよく怪我したなぁ、大きい怪我だと頭を打って血が噴き出たので頭を針で縫った。
小学校の頃は体操とか習ってた、中学時代にめっちゃ好きな子がいた! 今でも忘れられない思い出だ……)
(あーどうせ死ぬならあの頃にちゃんと告ればよかったなぁ……)
(あの頃の俺って影薄かったし、あの子は今でも俺の事覚えてくれてるかな?
授業中や体育の時もついつい目で追ってた、修学旅行の写真とかあの子が写っているのを選んだりした)
(まぁ、影が薄いから俺の写ってる修学旅行の写真がほとんど無かったんだけどな!
いやー修学旅行は生活感が写ってる写真もあるから、ホントにお世話になったよ……ぐふふ)
(不審者に襲われるか心配だったから、あの子の下校中に勝手に家まで尾行した事もあった。
SNSを漁ってあの子の情報とか手に入れてた、懐かしい思い出だ)
(え? ストーカーじゃねぇよ! 自称守護者だよ!)
(誰もいない教室でリコーダーもこっそり舐めたし、ついでに体操着もクンカクンカした。
専門学校に行くために親に土下座もしたよ。「くそお世話になりました!」って、言いながらな!)
(っておい! 走馬灯がほぼ中学の時って俺どんだけあの子に未練が残ってるんだよ)
(でも、可愛かったなー……せめて思いを伝えてから死にたかったな)
(……身体が全く動かない、寒い、目の前も暗くてなにも見えない、音も聞こえない。これは意識はあるのか?)
(ってか、死んだらどこ行くんだろ? ……あれ? なんだ身体が浮かんでいく気がする。あ、なんか明るくなってきたぞ……)
血だまりの中、右手を伸ばし、左手は腹部を押さえたまま、半開きの目は段々と生気が無くなっていき――――
そして――――
男は息絶えた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「危険な状態です! 急いで来てください!」
「頼む無事でいてくれ……!」
月光が差し込む回廊をひた走り、彫がある扉を強引に開け、二人の男が部屋へと入る。
部屋の中には治癒士、助産婦、メイド複数人が一人の女性の出産に立ち会っていた。
出産時には治癒士が母体を治療し、出産の死亡率を低下するために行われる。
だが、今回の出産は長時間による難産により、治癒士も疲労し母体である女性も赤子と共に生死を分ける危機的状況であった。
「頭が見えとる! ほら、頑張れ! ほら、お父さんも声をかけてあげぇ!」
ハッとした男は助産婦の言葉により狼狽えながら近づき女性の手を握る。
「頑張ってくれ!」
「あなた……! んーーっ!」
その時、助産婦によって赤子が取り上げられ、高らかに産声を上げた。
母、子共に無事に出産でき周囲も安堵の表情になる者、方や涙ぐむ者。
助産婦から女の子と言われ、女性に赤子が渡され微笑みを向けるが徐々に赤子の声は弱々しくなり、周囲から安堵の表情は消えかけていた。
「腹部からマナが漏れておる!
これは……なんじゃ……このようなもん見た事がないわ! 穴のようにも見えるが、刻印か紋章か? いずれんせよ、このマナを止めにゃ命がもたん!」
助産婦は慌てて両手を赤子に当てるが、両手からは淡い光が漏れ出している。
「な、なんとかならないのか!?」
「相殺するんことは出来るが完全に止めることは出来ん!」
「どうして止められないのだ!」
「マナの型が違うのじゃ! 私放出をしているもんを外から押しているに過ぎん!
この赤子と同じ型のマナで止めにゃならんだが、それは母体である母親と同じマナじゃ、ただこん状況で母親にマナを使わせると死んじまう!」
「だが止めなければ我が子が死んでしまう……止めたとしても妻が死んでしまうどうすればいいのだ!」
男は狼狽えた、長い間子供に恵まれず、難産の末に生まれ子供は死にかけている。
ここで子供を見捨て、また妻と子供を作ればよいであろうか? 幸運にも子供もが出来たが次は出来るのだろうか?
妾に手を出すのは避けていたが妻が無事であればそれでよいのではないか?
今後の後継の相談は妻の容体が回復したころに行うのが得策だろうと、男の中で考えが纏まろうとしていた。
その時、女性は微笑みながら助産婦の手を払い赤子の腹部に手を当てる。
「ふふ、こんなに泣いちゃって、もう大丈夫よ……」
「おい、何をしている? 話を聞いていなかったのか?マナの流れを止めたらお前が死んでしまうぞ!」
「この子は私たちの子よ、この子は私たちを選んで生まれて来てくれたの、今はこんなに弱々しく泣いているど、ほら、見て私の指を掴む手はこんなに強いんだから。
それにあなたとわたしの子よ、きっと優しくて強い子に育つわ……大きくなったこの子を見てたかったのが心残りかしら……」
「お、おい! お前がいなくなったら俺はどうすれば……」
「あなたなら大丈夫、あなたは自分が思っているよりも立派で強い人よ? 私が愛してた人なんだからきっと大丈夫よ……国とこの子をよろしくね」
優しく微笑みながら赤子を抱き、その女性はそっと目を閉じ息絶えてしまった。
赤子は弱々しく泣いていたのが嘘のように落ち着き、母親の腕の中で静かに眠っていた。
男は咽び泣き、亡き妻に国と子供を守ることを胸中に誓った。
月が雲に隠れ部屋は燭台の灯のみとなり、周囲の陰鬱が増す。
悲しみに包まれる中、赤子の腹部の痣は煌々と輝くのだった。