第212話
第36層にしてようやく……開けた重厚な扉の向こうに意志疎通が可能そうなボスの姿が有った。
ホッとしたオレの後に続いて入室したエネアが、その姿を見て息を呑む。
まぁ、それも無理からぬことだろう。
守護者の間とおぼしき部屋の中央には清らかな泉が有った。
そしてその泉の中央にはエネアの本体であるアルセイデスに良く似た姿の美しい女性が上半身のみ覗かせていたのだから。
これまで無機質な黒一色の石材で構成されていたダンジョンで、最後の最後にまさかこんな光景を目にすることになるとはオレも思っていなかった。
泉の畔には広葉樹が生えているし、そもそも床自体が土の地面になっている。
そして清浄な泉と神秘的な美女。
アルセイデスと同格か、場合によっては上位の存在とされることもある泉の乙女……泉のニンフたるナイアデスが、このダンジョンの守護者らしい。
『あら……奇遇ねぇ。まさか、こんなところで貴女に会うなんて夢にも思わなかったわ』
「私も驚いているわ……姉さん。まさか、こんなに近くに居たなんて」
いつの間にか、エネアの姿はアルセイデスそのものと言っても差し支えない状態になっている。
お互いに目を丸くしている顔は、まさに瓜二つ。
同じニンフ同士だから似ているのかと思えば、まさか姉妹だったとは、さすがにオレもビックリだ。
『見てよ、この狭い泉。水質こそ、どうにかギリギリ棲める状態にまで浄化出来たけど、最初は本当に酷かったんだから……』
「それでも泉が有るだけマシじゃない。私なんて樹が1本よ、1本! 林ですら無かったわ。森のニュムペーを何だと思っているのかしら」
憤懣やる方ないと言わんばかりの2人。
そのまま、ああでも無い、こうでも無いと話し込んでしまっているが、そろそろ……
「えーと、エネア?」
「あ! ごめんなさいね。つい……」
『あら、ごめんなさい。つい……』
さすが姉妹。
ばつの悪そうな顔まで良く似ている。
どうにかナイアデスに認識して貰えたので善しとすべきなのだろうが、あいにくオレも時間が無い。
このまま話を進めさせて貰おう。
◆
『……なるほどね。事情は理解出来たと思う。私も、その子と同じ考えよ。私自身の位階を高める意味はあまり無い。これまで義務は義務として果たして来たのだし、私としてもそろそろ退屈に飽きたところなの。迷惑じゃなかったら、同じように私の分体を同行させてくれないかしら? それが私が貴方の配下に加わる条件。飲んでくれないなら【交渉】は終了よ。【侵攻】でも撤退でも、ご自由にどうぞ』
マジか……?
また新たに(見た目は)幼女を、連れ歩くことになるのか。
近所で変な噂が立ったら、どうしてくれるんだ。
既にちょっと心配なレベルだと言うのに……。
しかし、そうしたオレの抵抗感さえ無視してしまえば、これは限りなく良い条件だとも言える。
ナイアデスは、アーサー王と円卓の騎士の伝説に登場する湖の乙女(ヴィヴィアンだとか、ニムエなどの呼び名も有る)と同一視されることも多い。
円卓の騎士の中でも良く知られているランスロット卿を養育したりと、色々な逸話が有る湖の乙女。
その中でもやはり、アーサー王にエクスカリバーを与えたエピソードが最も有名だろう。
ただ実際のところナイアデスは、その有名な湖の乙女より上位の存在だ。
説明が難しいが、神と妖精のハーフがナイアデスで、ナイアデスと人間のハーフが湖の乙女と言ったら分かりやすいかもしれない。
ニンフの中でも、ある意味では代表格と呼べる存在がナイアデスなのだ。
当然、オレが勝てないかもしれないエネアよりも、格上である可能性が高い。
戦わずして仲間に引き入れられるなら、これほど心強いことも無いだろう。
「その条件なら、むしろこちらから頼みたいぐらいだ。これから、よろしく」
……結局、オレはこの条件を飲むことにした。
『何だか妙な間が有ったみたいだけど? まぁ、良いわよ。貴方の考えていることぐらい私にも分かる気がするし。お望みなら老婆の姿にでもなって見せるけど……どう?』
どうって言われてもなぁ。
幼女にしても、老婆にしても、戦いの場に連れ歩くのに適切な姿には見えない。
かと言って高校生ぐらいの姿なら良いのかと言われると、それも何だか別の意味でアレだし答えにくいこと、この上ない質問だ。
「そんなことを気にしていたなら言ってくれれば良かったのに! 姉さん、どうする? ちょっと負担は大きくなるけど、なるべく本体と近い姿の分体で行動する?」
『そうねぇ。私はそれでも良いわよ。負担って言っても、どうせ魔力の使い途もあまり無いのだし。じゃあ決まりね。こちらに来た時に何故だか名前が思い出せなくなってしまっているから、私の分体のことは……トリアとでも呼んでちょうだい』
言うが早いか、ナイアデスも同じように分体を生成した。
エネアと並んだ姿は、まるで双子の姉妹のようだ。
違いは髪の色と瞳の色ぐらいの話で、エネアのそれが黒と見間違うほど深い濃緑なのに対して、トリアの眼と毛髪は濃紺だった。
いや、これはこれで問題が無いわけでは無いのだが……まぁ、もう言っても仕方ないだろう。
今のオレの脳内を支配しているのは、帰りが遅くなった理由と、また新しく美女を連れ歩くことになってしまった詳細な理由……どちらを先に妻に話すべきか。
そんな、他人から見れば何とも他愛もないことだった。




