閑話1) 柏木沙奈良 最初の日
その日……私は父の身を、まず案じました。
母が居るのは自宅。
兄は私の横に居ました。
明らかに最も危険な位置に居たのは父でしたから。
大学は春期の長期休暇中。
その時の私は、アルバイトに明け暮れていました。
バイト先は家の近くに新しく出来たカフェ。
事態が明らかになった頃には、ちょうどお客さんも少ない時間帯だったこともあり、それまでバックヤードで一心不乱にテレビを見ていた店長は、独断で臨時の閉店を告げました。
「サナ、どっちに向かう?」
「……家に行こう? お母さんも心配」
普段ではあり得ないぐらいのスピードで着替えた私よりも更に早く、兄は着替えを済ませて車で待っていてくれました。
本音では父のことが心底心配だったけど、さすがに危ないのが目に見えている青葉城址のダンジョン方面に向かうことに、兄を付き合わせるわけにもいきません。
兄は私が頼んだら一緒に行ってくれそうですけど……。
それに、母が心配なのも本当です。
自宅に着くと、母も異変が起きたことに気付いていて、酷く青白い顔で迎えてくれました。
「お父さんから連絡は?」
「まだ無いわ。貴方達にも電話したけど、全然繋がらないし……」
やはり……電話の回線は暫く無理でしょうね。
その日の私達は父が帰って来るまで、生きた心地がしませんでした。
父を除けば私達家族は、誰も戦う力を持っていませんでしたから……。
そのうち父も帰宅し、テレビでモンスターの出現傾向が分かり始めると、ようやく私達もこの辺りがさほど危険な地域では無いことに気付きます。
もちろん全く危険が無いわけでは有りませんし、今後どうなっていくか本当のところは分からないのも事実です。
でも父は私達にある提案をして来ました。
友人やバイト先の仲間に声を掛けて、一緒にダンジョンに潜れ……というものでした。
自分の身を自分で守れるようになるのが理想的なのは間違いないでしょう。
そう思った私が勇気を振り絞って頷くと、兄も続いて力強く了承しました。
だんだんと電話やメッセージアプリが使えるようになり、私と兄は色々な知人に打診をしていきました。
大半は冗談じゃない……というばかりに断られてしまいましたが、唯一すぐに色好い返事をくれたのが兄が連絡した、バイトの先輩の野田さんでした。
私はこの野田さんという人が苦手でした。
人の好い黒川さんという幼なじみを顎で使うし、何かというとヤンチャ自慢をするし、しょっちゅう私のことを何だか嫌な目で見るんです。
男の人が女性のどこを見ているのかは、視線の動きで分かるんですからね?
まぁ……兄は上手く懐柔されていた気がしますけど。
野田さんや黒川さんの自宅のあるところにも、廃校になってしまった小学校がダンジョンになっているところが有るのですが、何故かそちらではなくバイト先のカフェのすぐ近くにあるダンジョンに行くことになってしまいました。
さて武器や防具はどうしよう……と思っていたら、父がリュックを兄に差し出して来ました。
それは、ライトインベントリーというマジックアイテムで、中に一通りの武器や防具が予備を含めて入っているそうです。
私達とパーティを組む仲間の分……いつの間に準備してくれていたのかは教えてくれませんでした。
何はともあれ、これで準備は整いました。
兄とともに待ち合わせ場所のカフェの駐車場まで車で向かいます。
「お兄ちゃん、無理してない?」
「……オレは大丈夫だよ。サナこそ無理してるんじゃないのか?」
「ううん……してない」
「そっか」
「そう」
それきり会話は無く、すぐに車はカフェの駐車場に着きました。
依然として車の中は沈黙が支配しています。
野田さん達はそれからしばらくして、黒川さんの運転する軽トラックに乗って現れました。
軽トラックの荷台には牧場で使うようなフォークと、何本かの木刀や鉄パイプ、それから重たそうなバールや工事現場で使いそうなヘルメットが転がっています。
黒川さんのご実家では馬を飼ってらっしゃるということでしたので、フォークは黒川さんの……それ以外は野田さんが準備した物でしょうか?
結局、それらの物は使わず、父が準備してくれた武器や防具に身を固めた私達は、ダンジョンの方へと歩を進めました。
……お友達との女子会で披露したハロウィンの仮装より、よほど恥ずかしいです。
兄と私は長い槍で援護役。
黒川さんは野田さんに言われて重装備。
野田さんは伝説(?)の剣を持った『勇者』らしいです。
これらの割り振りはリーダー気取りの野田さんが勝手に決めてしまいました。
黒川さんを『壁』とか『タンク』と呼んで下品に笑っていましたが、私には何のことかよく分かりませんでした。
ダンジョン探索者協同組合の支部は、どのダンジョンにも併設されています。
ダンジョンの人気によって規模の違いこそ有りますが、基本的には同じサービスを受けられるのです。
窓口で登録料を全員分、父が用意してくれたお金で払い、ダンジョンパスと言われるカードを貰いました。
そして……実際にダンジョンへと足を踏み入れます。
おっかなびっくり進む私達をまず出迎えたのは、大きな蜘蛛でした。
野田さんが黒川さんに前に出るよう命令し、私達には援護をするように言います。
野田さんは黒川さんが蜘蛛に襲われているのに構わず、黒川さんの陰からへっぴり腰で剣を振っていました。
このままでは黒川さんが危ない。
そう思った私は気持ちの悪さを我慢して前に進み、長槍を突き入れます。
ズブッと刺さった槍から伝わる何とも言えない手応えが、心底キツかったのを覚えています。
兄も負けじと槍を突き出しますが、蜘蛛の背中を滑るように槍が当たり、結局は刺さりませんでした。
黒川さんは蜘蛛を私達の方に近付けまいと、必死で押さえ付けてくれています。
野田さんの剣は腰が入っていないせいか、蜘蛛を浅く傷付けるばかりで、有効では無いようでした。
……仕方ない。
気持ちが悪いとか言っていられません。
私は覚悟を決めて、長槍を何度も何度も蜘蛛に突き刺しました。
正確に何回かは分かりません。
それでも私の刺突を頭部に受けた蜘蛛は白い光に包まれて、私でも見たことの有る黒い小さな石……魔石へと姿を変えました。
ようやく蜘蛛の圧力から解放されて床にへたり込む黒川さんを尻目に、野田さんは苦労して得た最初の戦利品をサッサと拾うと舌打ちをしながら、自分のポケットにしまってしまいます。
「チッ! こんなペースじゃ赤字になんぞ!」
……最低。
赤字も何も登録料も装備も、私達の父が用意した物でしょうに。
野田さんに急かされ、息を整え立ち上がった黒川さんに続き、私達も複雑な気持ちを隠しながら歩き出します。
蜘蛛の次に現れたのは巨大化した百足……ジャイアントセンチピードと呼ばれるモンスターでした。
苦戦しながらも、黒川さんの奮闘と先ほどの経験もあり、4人掛かりとは言えどうにか戦っていた私達に、突如として男の人の焦った声が聞こえて来ます。
「後ろ! 危ないぞ!」
「なっ! 邪魔すんなや、オッサン!」
状況が呑み込めていない様子の野田さんが、非難の声を上げますが、駆け寄って来た男の人は、そんな声に構わずジャイアントセンチピードにトドメを刺します。
「うわ!」
前方に気を取られていた私が兄の声に気付いた時には既に、大きなコウモリが兄の頭に覆い被さっていました。
見知らぬ男性は、勢いそのまま、兄に襲い掛かっていたコウモリに突き掛かりますが、これは惜しくも空中に回避されます。
そして私達とコウモリとを引き離した男性は、腰のベルトから回復ポーションを取り出し、私に向かって後ろ手で差し出すのです。
「ほら、早く治療してやってくれ」
私は少し悩んでしまいましたが、それでも痛がっている兄を早く治してあげたい気持ちが勝り、結局そのポーションを受け取り、傷の割に大袈裟なほど痛がっている兄に、飲ませてあげることにしました。
すると野田さんに引き摺られるようにして、黒川さんまでがドタバタと足音を立て、こちらに向かって来ようとしています。
今はそんなことより、前を見ててよ!
思わずそう口走りそうになりましたが、彼らを叱ったのは男性の方でした。
「ムカデが来た方、ちゃんと見とけ。また挟み撃ち喰らいたいのか!?」
野田さん達はビクっとして止まります。
どうも男性の迫力に気圧された様です。
飛び回るコウモリは助けてくれた男性の手によって、あっという間に退治されてしまいました。
「危ないところを、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
兄と私はせめてもの誠意を示すため、迷わず頭を下げました。
野田さん達の声は聞こえません。
「いや、別に礼は良いよ。今は、外からもモンスターが来るようになっちゃったから、戦ってる時でも後ろに気を付けてね? じゃあ……」
男性は私達に温かい声を穏やかに掛けると、すぐさま立ち去ろうとします。
ムカデとコウモリの落としたアイテムを拾うことすらせず……。
「待って下さい! これ、コウモリの……」
兄がポーションの瓶を男性に差し出します。
「待てよ! それはオレらのだろ?」
野田さん、ホント最低……。
「何言ってるんですか! これはあちらの方が倒したコウモリの落としたアイテムですよ!」
怒りと羞恥で思わず私も声を荒らげてしまいました。
「あぁ、いいから、いいから。またケガした時用に持っときな。じゃあね」
「そんな! 助けて頂いたうえ、これは受け取れません! むしろ、何か他にもお礼をしないと……」
「そうですよ、今は大したものは持っていないので、良かったらお名前を教えて頂けませんか?」
男性にお礼をしようと呼び掛ける私達の声を妨げたのは、またも野田さんでした。
「いいって言ってんだから、いいじゃん。しつこくすんなって!」
ダメね、コイツ(野田)。
「ゴメン! オレも急ぐからさ……」
男性は逃げるように行ってしまいました。
その後は結局、私達では実力が不足していることを嫌というほど理解させられてしまう展開が続き精魂尽き果てた私達は早々に引き揚げることになりました。
この日……ダンジョン探索をしていた時間は、1時間にも満たないものでした。
そして…………




