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act.8 再会

「……なあ、父さん」

 帰り道、緋凪ひなぎは父の横を歩きながら、ひそめた声で話し掛けた。

「ん?」

「裏社会って、どういう意味? あのおっちゃん、裏社会に住んでんの?」

 父は小さく目をまたたいた。それから視線だけで周囲を見回す。答えたその声も、音量が低い。

「……まあ、有り体に言えばね。使用料を払い続けることで一応あそこが今谷塚(やつか)さんの住居状態だけど、厳密に言えばホームレスだし」

「でも、ホームレスは裏社会とイコールじゃないだろ?」

 すべてのホームレスが裏社会と通じている、なんて言ったら、そんなものと関わらずに平穏無事に生活しているホームレスに失礼だ。

 それに、今では表社会での仕事はあっても故意に家を持たず、宿泊施設を転々としている意味合いでの『ホームレス』も存在するのは、緋凪も知っている。

 父も、それを察したのだろう。「もちろん」と頷いた。

「でも、谷塚さんに限って言えば、彼はああやって情報屋をやることで生計を立ててる。時には裏社会の住人相手に商売することもあるって点では、立派に裏社会のお仲間さ。屋根のある所に住めるってことは、情報屋としての羽振りがいいってことだ。景気が悪い時分には、あの人も路上に住んでたからね」

「……そんな人と関わったってことは、俺らも立派な裏社会人の仲間入りかぁ」

 半分冗談のように嘆くと、父は苦笑しつつ「そうだなぁ」と答える。

「ただね、緋凪」

「え?」

 父の声音が真剣味を帯びたので、緋凪は思わず足を止めた。見上げると、父の顔は声と同じ表情をしている。

「銃刀法のあるこの日本で、自分の身を守る為に一般人に銃を向ける人間がいれば、普通は警察にゆだねる。けど、警察が向こう側に付いたら、自分たちで対抗するしかない。裏社会での荒事にけた彼らと、公的機関にタッグを組まれて自分で対峙するしかなくなったら……こちらも多少なり、汚れる覚悟はしないとダメだ。こんなこと、マトモな父親の言うことじゃないと、父さんも思うけどね。今も可能なら、本音は緋凪には関わって欲しくないと思ってる。もちろん、母さんにも」

 言葉が出なかった。何を返せばいいのか分からない。

 何だか原因の分からないばつの悪さで、緋凪は無意識に父から目線を外した。

 父が、小さく苦笑するのが聞こえる。直後、かぶったキャップの上から、父の手が頭を軽く撫でるのを感じた。

「でも、立場を逆にして考えろ、って母さんには怒られた。父さんも、多分戦線から外されたら、関わってる人が心配でどうにかなってしまうかも知れない。そう思ったから、次の手を打つことにしたんだ」

「……次の手って?」

 ソロリと視線を戻すと、優しく微笑する父の顔が見える。

「とことん関わらせて、いざと言うときは自分で身を守れるようにすること」

 一度言葉を切った父は、緋凪の肩を抱くように促し、歩みを再開する。

「緋凪」

「何?」

「残った夏休み中、特に予定はあるかい?」

「……多分ないと思うけど」

「じゃあ、夏休みが終わるまで、緋凪は毎日谷塚さんの所へ通うといい。色々教えて貰いなさい。谷塚さんには父さんから話を通しておく。彼の連絡先もあとで教えるから。場所は覚えただろう?」

 歩きながら、緋凪は父を見上げる。

 父の理知的な瞳が、今はどこか緊張の色を帯びて緋凪を見つめ返していた。

 それが、コトの重大さと現実を、改めて緋凪に突き付ける。

 もう、後戻りできない。引き返せる場所は、とうに過ぎてしまったのだと。

 背筋に、恐怖という名の寒気が走らなかったと言えば嘘だ。けれど、この道を選んだのは自分なのだ。両親や、ほかの誰かに強要されたわけではなく、自分で選んだ。

 目も耳も塞いで、見ぬ振り聞かぬ振りで一生を過ごすこともできた。だが、それはしょうに合わない。いずれ息もできなくなることが分かっていたからこそ――。

 沈黙がどれくらい続いたのか。緋凪はいつしか目を伏せて、ただ一つ首肯した。


***


 夏休みが明けて始業式の日を迎える頃には、緋凪は奇妙な疲れを感じていた。肉体的なものではなく、精神面の話だ。

 この年にして名実共に裏社会の住人になってしまった気がして、思わず溜息が出る。


 何事も飲み込みがいいのは自覚があったが、あれから一週間足らずで、緋凪はアンダーネットの歩き方をマスターしてしまった。

 トラップの仕掛け方から見破り方、引っかかった場合に被害を最小限に抑える方法、トレース、情報収集の仕方、などなど、谷塚が教えてくれたのは、ネット関連に留まらなかった。

 銃を持ち出すところからして、小谷瀬こやせ康文やすふみは明らかにそっち関係の人間だ。それがどうして私立高校の理事長に納まったのかは、谷塚も調査中だという。

 とにかく、そういう人種と渡り合うには同等の力を身に付けなくてはならないという、父や谷塚の考えには納得できた。

 しかし、だ。


「……凄すぎだろ、お前」

 呆れているのか感心しているのか、判断不能な声音で言ったのは、長身の少年だった。

 谷塚の元へ通うようになってから出会った、彼の一番弟子兼養子である。

 少年(いわ)くの『凄い』の内容は、緋凪が一度教わっただけでピッキングのやり方をマスターしたことだ。

「俺だって三日掛かったのに」

「何言ってんでぃ。お前が三日掛かったのはフツーの鍵だろが」

 一緒にいた谷塚が、パン、と小気味よい音を立てて少年の後頭部をはたく。

「……どっちにしろ褒められてる気がしねぇんですけど」

 緋凪は手にしていたヘアピンを、髪に挿し直しながら開いた自動ドアをくぐった。

 緋凪がけたのは、オートロックの鍵だ。表社会で真っ当に生きている人間なら、まず不正突破は不可能な代物である。

 ちなみに、そののセキュリティ諸々は、事前に谷塚と少年――仁志薙にしな皓樹ひろきが手を入れて沈黙済みだ。

 谷塚は、皓樹のことを『養子』だと言ったけれども、実際のところ、正式に籍は入っていないらしい。緋凪より二歳上の十五歳だということだが、学校にも通っていないと言っていた。一言で表すと、複雑な訳ありだ。

 そんな訳ありのゆえなのか、皓樹は学校の同級生と違って、緋凪の髪や目の色をからかわなかった(珍しいな、とは言われたし、女性寄りの容姿については若干からかうような素振そぶりがあったが)。

「……で? ここには何の用なんだよ」

 続いてエントランスに入って来た二人を振り返りながら口をひらく。

 新学期が始まって最初の土曜日も、谷塚は緋凪にネットカフェへ来るようにと連絡してきた。そして、まったく似ていないが、親子三人(父は谷塚で皓樹は兄だろうか)のようなていで、電車を数回乗り継いで辿り着いた先のマンションで、ピッキングの試験をさせられたという訳だ。

「まあ、用って言やぁ用かねぇ。試験も兼ねてたがな」

「はい?」

 あっさり言った谷塚に、緋凪は盛大に眉根を寄せた。

「実はこのマンションは別に誰が借りてるわけでもねぇのさ。買い上げでもない。言ってみりゃ、ちょっとリッチなネットカフェか、一般生活が可能なビジネスホテルみたいなモンでな」

 言いながら、谷塚はエントランスにあったエレベーターを操作する。その手には、普通に鍵が握られていた。

 セキュリティ上、その鍵を差し込まないと、エレベーターは動かない仕組みらしい(来客の場合は別だが)。

「……て、ちょっと待てよ。じゃ、俺が開ける為にほかのセキュリティをどうにかしたってのは」

「それらしい芝居だよ。実際、やってやれねぇことはねぇけど」

 ドヤ顔でのたまったのは皓樹だ。

 その手には、小振りのバッグが携えられており、中にはパソコンが入っている。目の前でそのパソコンをけて操作しているように見えたのだが、どうやら騙されたようだ。

 無言で吐息を漏らしながら、谷塚たちに続いてエレベーターに乗る。

「……それで、エレベーター乗ってどこ行くんだよ」

 八階のボタンを押す谷塚に、顔をしかめたまま問うた。

「大体、誰が住んでるわけでなくても、こんな試験に利用していいのか?」

「不法か合法かって、今更言える立場じゃねぇじゃん」

「うるせぇよ、好きで踏み込んだんじゃねぇし」

「ああ、ヒロは少し黙ってな」

 谷塚と緋凪の二人に凄まれ、皓樹はパソコンの入った鞄を盾にするように抱き締めて気持ち後退あとじさる。

「ここはな、おれが管理してるんだ」

「おっちゃんが?」

「少し退職金も多めに出たしな。もっとも、購入時点で無職だったもんで、ローンは組めなかった。キャッシュで一括払いはちっと痛かったが」

「それで貸し出しもしてねぇの? 勿体なくない?」

「不定期だが、ホテル代わりにはなってる。そもそも、表社会の住人に提供する為に持ってる物件じゃないしな」

 ここ数日の付き合いで、緋凪はこの谷塚の、冗談半分で言っている時と、掛け値なしの真面目な話の時の表情とが見分けられるようになっていた。

 今の顔は、間違いなく後者のそれだ。

「窓口もアンダーネットにある。知る人ぞ知る、裏社会にいる人間だけが利用する不動産ホームページがあるのさ。近い内にアドレスや、管理の仕方も教える。但し紹介できる物件はここだけ、家賃は一日から選択できるようにしてある」

 そこまで言った時、エレベーターは止まり、扉がひらいた。『開』のボタンを谷塚が押し、緋凪と皓樹は通路へ出る。最後に谷塚が降りると、扉が閉じた。

「今回、お前さんは初めて裏社会の片鱗を垣間見たと思うが、こういう警察もグルになった隠蔽事件、ほかにもニュースとかで聞いたことあるだろう?」

 通路を歩き出しながら、谷塚は言葉を継ぐ。

「ニュースになりゃまだいいほうで、裏社会の人間に脅迫されるわ、挙げ句警察は当てにならねぇわじゃ、大概は泣き寝入りさ。お前さんの叔父さん一家みたいにな」

「じゃあこのマンションは、脅迫された人が逃げ込む場所とか?」

「うんにゃ。脅迫されただけの人は、窓口までまず辿り着けない。良くも悪くも彼らはまだ表社会しか知らないからな。ここはお前さんたちみたいに、脅迫されても尚屈することなく立ち向かった結果、裏社会に落ちざるを得なかった人間の吹き溜まり……或いはその通過地点、もしくは骨休めの場って言ってもいい」

「それって、住人って言っていいレベルで住んでる人もいるってこと?」

 すると、谷塚はニヤリと唇の端を上げた。

「やっぱお前さん、勘がいいな。フツーの中学生にしとくにゃ勿体ないわ」

 察するに正解だろう。一応の褒め言葉なんだろうか、とは思ったが、もう口には出さなかった。

 谷塚ももうそれ以上何も言わず、やがて『802』のプレートが貼られたドアの前で足を止めた。

 そして、チャイムは鳴らさず、携帯を取り出して操作し、耳に当てる。今時珍しいフィーチャーフォンだ。

「……ああ、谷塚だ。……いや、そのまま待機で。すぐ開けるから」

 それだけ言って通話を切ると、緋凪に目を向け、ドアに向かって顎をしゃくった。『開けてみろ』の意だ。

 今日、何度目かで溜息を吐きながら、緋凪は髪の毛からヘアピンを抜いて鍵に向き合う。まさか、自分がこんなことをやらかす日が来るとは思ってもみなかった。

 ここは、出入り口はオートロックだが、入ってしまいさえすればドアの鍵はごく通常のそれだ。

 取っ手を挟んで上下に付いている鍵穴に、ヘアピンを突っ込んでいじり回すこと、およそ三分。手応えを感じてヘアピンを収容し、取っ手を引くとドアが開いた。

 谷塚と皓樹を振り返る。谷塚は満足げに頷き、皓樹はまたも呆気に取られていた。

 皓樹は、『本当についこないだまで裏社会の“う”の字も知らなかったのかよコイツ』と顔全体で言っている。

(……こっちの台詞だぜ。このおっちゃん、マジで二年前まで警官だったのかよ)

 下手をするとすぐにも警察に連行されそうだ。それも、でっち上げの罪ではなく、至極真っ当な罪状で。

 もっとも、それは今の自分も同じだと思うと、改めて目眩がする。

 若い二人のそれぞれの嘆きを余所に、谷塚は開いたドアの取っ手を自分の手で引いた。

「邪魔するぜー」

 そうのんびりと中に声を掛ける谷塚に続いて、玄関に足を踏み入れる。緋凪はかなり小柄なほうだが、男が三人もそこへ突っ立っていたら、たちまち人口密度は大変なことになった。

「どうぞ、上がってください」

 答えた声音は、女性のものだ。反射で顔を上げた緋凪は、「あっ」と思わず声を上げた。

「あんた……瀧澤たきざわ朝霞あさか!?」

 意志の強そうな黒い瞳、キュッと引き締まった色白の小顔、スレンダーな身体付きに、緩いウェーブの掛かった黒髪――間違いない。

 春生はるきの骨を渡しに来て以来、消息を絶っていた瀧澤朝霞その人だ。

 朝霞も驚いたように瞠目したが、やがてばつの悪そうな顔で目を逸らした。

 一方、緋凪と朝霞のリアクションに構うことなく、谷塚はさっさと靴を脱いだ。

「ホラ、とっとと上がれ」

 と、まるでそこが自分の家であるかのように促す。

 後ろからも背中を押されて、緋凪は仕方なく靴を脱ぎ、自分も上がり込んだ。


***


「……ごめんなさい。あれからあなたにはなしつぶてだったわね」

 リビングに置いてある丸いローテーブルの周りにそれぞれ陣取った緋凪たちに、冷えた麦茶の入ったコップを配りながら、朝霞が口を開いた。

「……それはいいけど……これってどういうこと? おっちゃんと知り合いなのは警察繋がりで?」

 言いつつ、緋凪は谷塚にも鋭い視線を向ける。

「そう睨むなって。ちゃんと説明すっからよ」

 谷塚は肩を一つ竦めると、コップから一口麦茶を啜った。

「つっても、どっから言えばいいかねぇ」

「谷塚さんと知り合ったのは、あなたのお父様を介してのことよ。同じ東風谷こちたに署勤務だったのもつい最近知ったわ。あたしが東風谷署に異動になったのは、谷塚さんが退職されてからだったから」

 自分のコップを最後に自分の前に置いて、朝霞は腰を下ろす。

「それで? あれからどうしてたんだよ。何があったわけ?」

 朝霞の黒い瞳が、一瞬躊躇(ためら)うように揺れた。目を伏せたままではあったが、ややあってから口をひらく。

「……あの日、あなたに会わせようとしてた監察医……椙村すぎむら佳月かづきっていうんだけどね。その日から程なく亡くなったの」

 緋凪は、ただ瞠目した。

「春姉の……解剖を担当したって言ってたよな、その人……」

 谷塚は渋い顔のままコップに手を這わせ、皓樹は所在ない表情をしている。

「……病院が……どうとかって……」

 朝霞が姿を消す前、スマホに向かって言っていた言葉を記憶の中から探り出して、半ば独白のように呟いた。

「一体どうして……」

「未だにはっきりしたことは分からないの。交通事故で……佳月は自分で通報したらしいわ。そしてあろうことか峰枩みねまつ総合に運び込まれて……」

 どうにかそこまで言った朝霞は、不意に唇を震わせる。

 口元を押さえたものの、黒い瞳は見る見る内に潤み、大粒の涙が頬を伝った。

 当分話の続きができそうにないと見たのか、谷塚が続きを引き取る。

「椙村はどうやら一人事故だったらしい。カーブの多い場所で道路脇の関知ブロックに突っ込んで、意識がある内にどうにか一一九番に連絡した。そのあと峰枩総合に担ぎ込まれたんだが、三日ほどで息を引き取ってる。ブレーキ痕がなかったことから、飲酒運転だったと断定された」

「佳月はお酒なんか呑まなかったわ!」

 まるで谷塚がそう断定したかのように、朝霞が叫んだ。

「あの人はお酒が苦手だったの。アルコールの匂いがどうしてもダメで、仕事仲間と飲みに行っても一人でソフトドリンク飲んでるような人だった! そんな人が飲酒運転だなんて……! こんな汚名着せられて命まで……」

 手近にあったティッシュ箱からチリ紙を取り出し、顔を埋めた彼女の肩を、谷塚がポンポンと宥めるように叩く。

 佳月が朝霞とどういう関係だったのか、緋凪は知らない。けれど、彼女の嘆きようを見れば、彼女にとって佳月はとても大事な存在だったのだろうということは、容易に想像が付いた。

 表情を痛ましげに歪めながら、緋凪は谷塚に目を向け口を開く。

「……ブレーキ痕がなかったってことは、ブレーキそのものがヤられてたんじゃねぇの? ドラレコとか防犯カメラとか調べなかったのかよ」

「お前さんたちの話を聞く限りじゃ、椙村は市ノ瀬(いちのせ)春生の解剖を担当したんだろ? その彼が亡くなったってことは、自ずと答えは知れるだろうよ」

 覚えず、舌打ちが漏れた。

 恐らく、佳月にも何らかの圧力はあったのだろう。だが、彼はそれを拒否した。しかも多分、表立って反抗したのに違いない。それが、小谷瀬康文の逆鱗に触れたのだ。

(……つまり……椙村佳月も殺されたってことかよ……!)

 それはすなわち、彼が保管していたはずの、春生の死に関する証拠も消えたということだ。十中八九、彼が陥れられ殺されたという証拠となる、ドライブレコーダーや防犯カメラ映像も、何らかの方法で消されただろう。

 だが、それよりも緋凪には、人一人の命が不当に絶たれたことのほうが赦せなかった。

(……小谷瀬、康文……!)

 彼という人間は、己の悪事を隠蔽する為にどれだけ、何人殺せば気が済むのか。

 無意識に拳を握り締める。掌に爪が食い込んだが、気にならなかった。

 ――お前を絶対に許さない。

 どことも付かない空を見つめ、脳裏で呟く。

 もちろん、彼が春生を殺した犯人であるかどうかはまだ分からない。けれども、隠蔽しようとする以上、春生の死に関わりはあるはずだ。

 どれだけ時間が掛かろうと、必ず証拠を見つけ出してみせる。問題は、こちらが全滅するより先にそれができるかどうかだが――

「……ナギ」

 ポン、と優しく谷塚の掌が握り込んだ拳を覆って、緋凪は我に返った。

「大丈夫さ。どうにかなる」

 出会った頃の無愛想さが嘘のように、谷塚が柔らかく微笑する。

「……う、ん……」

 戸惑いつつも一つ頷くと、谷塚は緋凪の手の甲をポンポンと叩いて言葉を継いだ。

「で、ナギの父さん……千明ちぎらがこっちの姉さんに連絡貰って、それからおれん所に来たんだったかな」

 話を振られた朝霞は、しゃくり上げながら頷く。派手な音を立てて鼻をかむと、涙声ではあったが口をひらいた。

「……佳月が……亡くなってしばらく……あたしは放心状態だった。佳月の弟の面倒も見なくちゃならなかったのに、気持ちに全然余裕がなくて……」

「佳月の弟? 何であんたが面倒見る流れになるんだ?」

 最後に会った時、朝霞が電話口に向かって『宗君』と言っていたのをふと思い出す。『宗君』と呼ばれていた相手が、その弟なのだろう。

「佳月とあたしは婚約してて……彼と彼の弟の宗君……宗史朗そうしろう君には、もうご両親がいなかったから」

(……そーゆーことか)

 彼女の嘆きようも、じきに結婚するはずだった相手を失ったのなら納得がいく。

「早くに亡くなられたらしくて……二人きりの兄弟だったのに……」

 涙が時折ぶり返すのか、その度に彼女の声は震えた。それでも、鼻を啜り上げるようにしながら、朝霞は気丈に先を続ける。

「だ、だから……なのにあの子ったら毎日のようにあたしの所に来て、食事だけ作って帰ってくれたりして……ひと月くらいしてからだったかな。『もう一人で平気?』ってあの子が訊くのよ。今後どうするか訊いたら、高校卒業したら警官になるって……」

 緋凪は危ういところで言葉を呑み込んだ。『そいつ、正気か?』と口から飛び出そうになったのだ。

 もちろん、そんなことを今の精神状態の朝霞にぶつけていいわけがないというのは緋凪にも分かっている。だが、両親亡きあと、支え合ってきた兄を殺した警察に、よりによって就職を考える思考回路が、緋凪には理解不能だった。

 しかし、俯いたままの朝霞は、緋凪のもの言いたげな表情には気付いていないようだ。

「幸い、高校のほうも卒業するまで彼が在学するのを認めてくれてるし……宗君のほうはもう心配要らないと思って。それでその頃……緋凪君のお父様に連絡取ったの。結局、あれから二ヶ月もご無沙汰しちゃったし、そちらの状況も気になってたから……」

 話をする内に、少し落ち着いて来たのだろう。「ちょっとごめん」と言い置いて立ち上がると、朝霞は洗面所へ向かった。顔でも洗っているのか、水を流す音が聞こえ、ややあってから戻って来る。

「……ごめんね」

「いや……」

「そうじゃなくて……そっちもかんばしくない状態みたいだから」

 どこを見るべきか分からなくて、伏せていた目を上げる。

 彼女の顔も目も、泣いたばかりで赤くなっていたものの、迷いのようなものは見えなかった。

「……まあな。父さんから話聞いた?」

 やや間を置いて問い返すと、朝霞は頷く。

「大体のことはね」

「で、あんたがここにいる理由は聞かせて貰えんの」

「端的に言えば、家族を巻き込まない為ね」

 緋凪は目をしばたたかせ、谷塚に視線を移す。

「ここ、やっぱ避難場所としても機能してるんじゃねぇの」

 すると谷塚は、「時と場合によりけりだな」と言って、麦茶を一口含むと続ける。

「もっとも、今回のケースは瀧澤本人の懲戒処分と、彼女のフィアンセだった監察医を殺したことで、小谷瀬サイドは彼女への脅迫は充分って判断したんだろうな。あれから彼女の両親に接触してきた気配はないらしい。……まあ、仲間に頼んで彼女の両親のガードはきっちりやってるけどな」

「仲間?」

 何それ、と緋凪は眉根を寄せた。

「おっちゃん、元刑事の癖に、裏社会歴たった二年でもうそんなに裏社会のお友達がいるのかよ」

「失礼だな。気持ちの上ではちゃんと更生した裏社会のお歴々さ。それに刑事ったって、職業柄相手にするのは犯罪者ばっかだって忘れてねぇかい、坊ちゃん」

「……気持ちの上ではってトコがポイントだよな……」

 はっきり確認するのも怖いが、更生したと言っても谷塚曰くの『仲間』は、それぞれにまだ裏社会と繋がっているのだろう。

 察するに、一昔前のヤクザ――『一般の皆様にご迷惑お掛けするんじゃねぇ!』がスローガンの連中だろうか。もっとも、今時の反社会的組織と定義される集団は、ヤクザか暴力団か、判別不能になっているような気もするが。

「ところで朝霞。あんたきょうだいは?」

 飛び出した質問が、唐突に思えたのだろう。朝霞は一瞬、目を丸くするが、質問の意図をすぐに察したらしい。訊き返すことなく答えた。

「あたしは一人っ子よ。幸か不幸か」

「じゃあ、祖父ちゃんとか祖母ちゃんは?」

「母方の祖母だけが健在。今は地方の老人ホーム住まいで、ほかは皆あたしが十代の頃亡くなったわ。ほかの親戚も地方で、しかも北から南へ満遍なく在住だから、いくら小谷瀬が手段を選ばないサイコパスでも触手を伸ばすのはちょっと手間が掛かるはずよ」

「……手段を選ばないサイコパス相手に、手間がどうとかいう世間一般の常識当てはめないほうがいいとは思うけど……」

 またも眉根を寄せる緋凪の頭を、谷塚がまたポンポンと叩く。

「まあ、用心に越したこたぁねぇがな。用心し過ぎると逆に動けなくなっちまう。まずは大丈夫と仮定して動くのも大事だぞ」

「……へーい、りょーかい」

 緋凪は、一つ肩を竦めた。

 どう頑張っても、自分は裏社会歴まだ半月だ。ここはベテランのアドバイスに従うのが妥当だろう。

「……それで? あとはその宗史朗って兄ちゃんだけだな、心配なのは」

 チラリと朝霞に視線を戻すと、朝霞は「それは大丈夫」と頷いた。

「あの子も佳月がどうして亡くなったのかは承知してるわ。その上で警官になるって言い出したのも意図があると思うの。早くにご両親亡くしたからか、その辺の同年代の子たちよりはしっかりしてるから、多分ね」

「標的にされたら自己責任って辺りも?」

「ええ。あたしはもう少しほとぼりが冷めたら、反撃チームに加わりたいと思ってる」

 恋人が殺されたのだ。報復したいと思うのは、当然だろう。

 緋凪も小さく首肯して、谷塚に目を向ける。

「俺は宗史朗に会わなくて大丈夫かな」

「そうだな……顔合わせの機会は作るよ」

「分かった。じゃ、連絡待ちってことで」


©️和倉 眞吹2021.

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