act.7 始動
その後、両親の間でどういう話し合いがあったか、緋凪は知らない。
ただ、帰国の日から五日ほど経った今も、母も緋凪も日本にいることは確かだった。
もうじき、夏休みが終わる。
帰国した時には、市ノ瀬家は越して行ったあとで、冬華には「さよなら」も言えないままだった。その、越して行って無人の元市ノ瀬家にまで空き巣が入ったらしいと、父からチラリと漏れ聞いたが。
『……お掛けになった番号は、現在使われていないか、電源が入っていない為……』
お馴染みのフレーズを最後まで聞かずに緋凪はスマートフォンの画面をタップし、通信を切った。
帰国の翌日、冬華にはメールを出したが一向に返事がない。
今日は思い切って彼女のスマホに連絡を取ったが、繋がらなかった。
もしかして、叔母夫婦は千明家との繋がりを完全に絶つつもりなのだろうか。それがどういう意図から来ているのか、考えられることは二、三あるが、緋凪には正解は分からなかった。
ふっ、と一つ吐息を漏らして窓の外を見る。
八月も終盤だが、近年の異常気象による酷暑は連日続いており、今日も快晴だ。
(……宿題は済んでるし、部屋も大体片付け終わってるしなぁ……)
図書館でも行くか、と脳裏で呟いて、緋凪はスマートフォンをボトムのポケットに入れた。
学年が上がってクラス替えがある毎にいじめの洗礼を受けている緋凪には、冬華以外に友人と呼べる関係の同年代の人間はいない。
当然だ。
いじめられている人間には誰も近付きたがらない。要らぬ正義感を発揮して庇ったりしたら自分が標的になり兼ねない。別に庇うわけでもなくただ仲良くしたり、最悪挨拶をするだけで巻き添えになるかも知れない。
ゆえに、いじめられっ子には関わらないのが、自身の平穏を保つコツというのが、子どもの世界では暗黙の了解らしい。
それでなくとも、緋凪の容姿では一緒にいるだけで目立つ。
これを、『君子危うきに近寄らず』というのか、『触らぬ神に祟りなし』というのかは緋凪には分からない。が、少なくとも『君子』なら、いじめを見ぬ振りはしないだろう。
その割に、女子はたまにラブレターなどを手に近寄って来るのが、緋凪には謎だが。
(まあ、いじめに関わりたくないのはガキだけじゃねぇみたいだけど)
現場を見ていてさえ注意しない教師陣には反吐が出る。だからこそ、緋凪は早々に大人に助けを求めることは放棄し、自衛の手段をあれこれ探ったわけだが。
吐息を漏らしながら、緋凪はキャップを手に取って自室を出た。
「緋凪?」
呼ばれて振り返ると、父が廊下にいた。彼も今、私室を出たところらしい。
「出かけるのかい?」
「うん。ちょっと図書館まで」
すると、珍しく父が食い下がった。
「そうか。どうしても今日行かなきゃダメなのかい?」
緋凪が小首を傾げながら、「いや、暇潰しだけど」と答えると、父はホッとした顔をして、「じゃあ、今日は父さんに付き合ってくれないか」と続けた。
「いいけど……どこに?」
「行けば分かるよ」
ニコリと笑って先に階段を下りていく父に、緋凪は再度首を傾げ、キャップをかぶりながら続いた。
***
辿り着いた先は、とあるインターネットカフェだった。
父は慣れた様子で受付と二言三言やり取りし、店内へ歩を進める。その背に小走りで続きながら、緋凪は店内をキョロキョロと見回した。
ネットカフェには初めて入ったので、ほかの店舗のことは分からない。だが、この店舗は、ワンブースの壁が天井近くまであり、下もピッチリと床にくっついていた。プライベートはそれなりに守られているようだ。
迷いなくその中を進んだ父は、やがてあるブースの前で足を止めた。『730』と記された番号プレートの貼ってある扉をノックする。
一拍の間ののち、その扉が開いた。中から顔を覗かせたのは、年輩の男だった。
年の頃は、六十代の前半だろうか。
饅頭のような輪郭で、頭髪は頭頂部だけが大分薄くなっている。戦国時代を描いた絵から抜け出て来た落ち武者が、髪の毛を短くしたような印象だった。
目は小さく団子鼻で、唇は鱈子のようだ。ただ、それらが輪郭の中に妙に具合良く配置されている所為か、醜男と切って捨てられないものがあった。
「お久し振りです」
父が、その男に、会釈するように頭を下げる。男は無言で扉の外に視線を走らせると、父に「入れ」と促すように顎をしゃくった。
(え、入るの?)
緋凪は眉根を寄せた。
どう多く見積もっても、ワンブースの幅は畳の縦幅一畳分より少しあるくらいだ。室内の広さは推して知るべしである。
しかし、緋凪の戸惑いにお構いなく、父は「お邪魔します」と言うと、緋凪の肩を抱え込むようにしてブースへ足を踏み入れた。
「靴は脱いで中に持って入れ」
男が初めて口を開く。喋り方まで無愛想で、どうにもお近付きにはなり難そうな人間だ。
室内の床はリノリウムのようで、靴は脱いで座る仕様になっていた。
男の口調を気にすることもなく、父は自分と緋凪のスニーカーをブースの内に入れると、その隅へ裏返しにして置く。
緋凪の予想に反し、中は存外に広かった。
幅は確かに一畳半くらいなのだが、奥行きが広い。窮屈なのを我慢すれば、成人男性二人くらいは寝られそうだ。
ブースの一番奥にパソコンがあり、その右手には棚がある。使用する人間が自由に使える空間のようで、このブースの棚には本が数冊並んでいた。
壁と天井の僅かな隙間にはハンガーが引っかけてあり、スーツが下げられている。
そのすぐ下には、布団が一式折り畳まれていた。ここは男の事実上の住まいらしい。
「座れ」
またしても無愛想な声が命じる。
「失礼します」
父が言って腰を下ろしたので、緋凪もそれに倣った。
「緋凪。こちらは、谷塚晃史さんと言って、父さんの古い知り合いだ。元刑事だった人だよ」
「ふん、とっくに引退したがね」
投げるように言った、谷塚という男は、緋凪にどこか鋭い目を向けた。睨んでいるようにも思えたが、そうではないことは分かる。
油断のない目で観察されている。そんな風にも感じた。
それに気付いているのかいないのか、父が腹の読めない笑顔で谷塚に緋凪を紹介した。
「谷塚さん。こっちは僕の息子です。緋凪と言います」
「ああ、そうか。息子が生まれたって言ってた気がしたのに娘だったか、それとも奥さんが若返ったか考えちまったよ」
緋凪はリアクションに迷った。
(そりゃ女顔は否定しねぇし、この顔が母さんと瓜二つなのも否定しねぇけど……)
言葉が口から出ない分、自然唇だけが尖る。
「緋凪。挨拶しなさい」
「……どーも」
取り敢えず頭を下げるが、不機嫌そのものの声しか出ない。
しかし、父はそれを殊更咎めることはしなかった。谷塚も谷塚で失礼な面もあるということは、父にも分かっているようだ。
谷塚も軽い会釈で緋凪に応え、父に目を向けた。
「で? 本題に入ってもいいのかい」
「はい。あらましは、メールでお話しした通りなのですが」
(本題?)
口には出さない疑問を視線に乗せて、緋凪は父を見る。しかし、父のほうは谷塚に目を向けたきりだ。
谷塚は、チラリと緋凪を見て、父に視線を戻した。
「本当にいいのかい?」
緋凪には話が見えなかったが、父は頷く。
「はい。息子も今や当事者です。何も知らなければ防戦一方……それどころか、防ぐことすらできずにやられるだけだということは、息子もよく分かっています」
「そうかい」
谷塚は立ち上がると、パソコンデスクの下を探った。鞄を手に戻って来て腰を下ろす。中から出て来たのは、ノート型パソコンだ。
パソコンに電源を入れ、起動を待つ間に鞄の中からUSBメモリを摘み出した。
起動したパソコンにそのUSBを差し込み、しばらくの間谷塚がパソコンを操作する音だけが室内を支配していた。やがて、彼はパソコン画面を父と緋凪に向ける。
覗き込むと、画面にはいくつかウィンドウが開かれていた。
「……これ何」
思わず呟いた緋凪に、谷塚が答える。
「全部あの学園のよくない噂だ。特に理事長のことを色々調べて欲しいとお前さんの父さんに頼まれてな」
「父さんに?」
鸚鵡返しに言って、緋凪は父に目を向けた。目線が合うと、父が小さく顎を引く。
「銃まで持ち出して事件を隠そうとする裏には、必ず何かあると思ってね」
「何かって……単に自分が経営する学園で不祥事があったのを隠したかっただけなんじゃ」
「確かにそれもあるだろうね。ただ、理事長自身が潔白なら、それこそコトは単純だ。単に運営する学園内で遺体が発見された、それだけに過ぎない。警察が入って来て調査だ何だと煩わされるかも知れないが、別に痛くも痒くもないだろう。本当に潔白に生きている人間ならね」
緋凪は眉を顰めた。
「……つまり、理事長は潔白に生きてないってことか」
「まあ、そう一口に言っても色々あるだろうけどね。潔白じゃない内容は」
父は肩を一つ竦めると、パソコンを自分のほうへ向ける。センサーに手を置き、画面をスクロールし始めた。内容をこの場でざっと確認しているのだろう。
緋凪も画面を覗き込んで、文章に目を落とす。
西院凛学園の理事長は、小谷瀬康文と言うらしい。
(……そう言えば、春姉に言い寄ってきたバカが理事長の息子だったっけ)
纏められたデータには四十四歳と記されているが、添付の写真は年齢より若干老けて見えた。
四角の下に三角を継ぎ合わせたような輪郭で、顎先は尖っている。白いものの混じり始めた頭髪は七三にセットされ、これも尖っていそうな鼻先と三白眼が、顔に比較的端正に配置されていた。
この写真が撮られた時に使われたであろうカメラを不機嫌そうに睨むその表情は、教育者とは思えない。
履歴は、彼本人の手によるものではなく、谷塚の纏めたものらしい。
ただ、出身地や、生まれてから十七歳までの間のことが空白だった。
「……なあ、谷塚のおっちゃん」
「何だ」
「この理事長、十七までのことが書かれてないけど何で?」
「今の段階ではまだ分からん。調査中だ」
「分からない?」
「ああ。どうも先代理事長の養子らしいってことまでは分かってるんだが、その前がまだな」
「ふうん……」
谷塚と話す間に、父はその先を読んでいる。
「隠したいのは養子だってことなのかな」
しかし、それで『潔白でない人生』と定義されては、世の一般の養子養女に入った人たちに失礼だ。
「いや、多分これだ」
父が指さした箇所には、西院凛学園内で死亡事故がほかにもあったことが記されていた。
当時の学園は全寮制で、寮内で遺体で発見された女子生徒がいたらしい。むろん、そのことも公にはされておらず、自殺と断定されたようだ。
「実はな。その事件があった当時、おれは所轄に勤めてたのさ」
「えっ!?」
緋凪は弾かれたように顔を上げ、次に画面へ視線を戻し、また谷塚を見た。
「……マジで?」
「おうよ。大マジだ」
「所轄って、じゃあ東風谷署?」
「ああ。まあ勤めてたっつっても、教育係兼ねた閑職だったがね」
言いながら、谷塚は机の上からタバコの箱を取り上げた。取り出して一本くわえたものの、火を着けることはせずに話を続ける。
一応カフェ内は禁煙だからだろう。
「だからおれにとっちゃ、その調査も暇潰しの延長だった。繰り返すようだが、定年後の閑職にいる刑事なんて、周りの若い奴らにとっちゃ煙たい存在でしかない。教育係も名ばっかりで、ほとんど無視されてるようなモンだったからな。現場検証も暇潰しに見に行った。長年警官なんてやってたら、そんなことも職業病みたいに、やらないと気が済まなくなっちまっててよ」
自嘲気味に小さく笑った谷塚は、タバコを指先でもてあそびながら言葉を継いだ。
「おれが行った時には、遺体はすでに運び出されてた。仏さんにはそのあとで会いに行ったがね。最初、解剖を担当した監察医は他殺の線を主張してた。それが、三日もしない内に自殺だと言い出してな」
「何だよそれ」
「そう思うだろ? お前さん、いくつだっけ?」
「先月十三になったトコ」
「そうかい。当時を直接知らず、話を伝え聞いただけの、しかもたった十三歳のお前さんでさえおかしいと思うのに、それを署のお偉方は追及しなかったのさ。納得いかないおれは、密かに調査を続けてた。そうしたら一度殺され掛けてよ」
どこかで聞いたような話だ。しかし、緋凪は眉根を寄せて、静かに踏み込むようにして谷塚を見上げる。
「……誇張入ってる?」
「うんにゃ、大マジだ。全治三ヶ月。その間に警察は定年退職扱いになってた」
「……具体的な怪我の状態は?」
「あっちこっち骨折と軽く内臓損傷。聞き込みの帰り道、いきなり車に跳ね飛ばされてなぁ。もうちょっとで三途の川の向こうまで行くところだった」
冗談を言う口調だったが、冗談では済まない。
「で、犯人は?」
「捕まるヘマするわけないだろう。計画的にカメラの死角になる場所を狙ってやりやがったんだ。逃げてく車のナンバーは辛うじて記憶に叩き込んだが、あとで調べたら盗難車だった。念の入ったことだ」
「心当たりもないの?」
「そのデータの中にあるがな。犯人かは分からんが、関係者に一人、きな臭い人物がいる」
「この男ですか?」
父が言って、ウィンドウを切り替える。
表示されたのは、若い男の写真とその履歴だった。名前は、角谷成と記されている。
年齢は二十四歳。
どこかこれといって強烈な印象はないが、やはり整った顔立ちの男だ。やや長めの黒髪はボブスタイルで、額はすっきりと全開にしており、瞳は黒目がち。どちらかといえばインドア派のような印象だ。収まっている写真を見る限り、『きな臭い』という単語とは無縁に見える。
ただ、少し気になった。すると、それに気付いたのか、またタバコをくわえながら谷塚が首を傾げた。
「緋凪坊。ご感想は?」
「え、あ、ああ……何か……目が死んでるっつーか……表情がないような」
「ビンゴ!」
谷塚はニヤリと笑って言うと、口から引き出したタバコで緋凪を指した。
「中々いいね。中学生にしては観察力があるわ。坊も将来、刑事目指したらどうだい?」
「残念。せっかくのご推薦だけど、ここ数ヶ月でもうケーサツには愛想が尽きてるよ」
緋凪は苦笑気味に言って、肩を竦める。
「あんなノー足りん共と同じ職場で働くなんて、まあ死んでもゴメンだね」
「言うねえ。将来有望な新人を一人失ったのは、まったく残念なことだな」
不敵に笑ったまま言うと、谷塚も角谷の写真に目を向けた。
「おれも、腹の底が見えないようなこの目は少し気になっててな。それにこいつも十八歳以前のことがまだ分からん。そこにも纏めてあるが、今は学園の用務員をしているようだ」
「ここの付属短大を二年遅れで卒業後、すぐ就職してますね」
「らしいな」
「ちなみに、学業態度などは分かりますか?」
「比較的真面目に勉強してたようだぞ。卒業後、教師にと望まれたこともあるらしいが、教えるのは苦手みたいでな」
いくら成績がいいからと言っても、教え方が上手かどうかはまた別問題だ。中には、自分が分かっていることを他人に分かり易く教えるのが不得手という人間もいる。
「教職課程も採らなかったらしい」
「そうなんですか」
父はそう言いながら、ウィンドウを戻して画面のスクロールを再開する。
「谷塚さん。この二年前の事件って、その後調べてないんですか?」
春生のほかにあった、死亡事件のことだろう。
「すまんな。おれも退院してからすぐ解雇知らされて、挙げ句病院で唸ってる間に女房にも逃げられたから、ちょっと立ち直れなくてよ。捜査中断してたんだわ。こないだお前さんに連絡貰うまではな」
簡単な文章の中にすごい人生が詰まっている気がして、緋凪は目を剥いた。
そのリアクションに気付いたのか、谷塚が苦笑して肩を竦める。
「気にしなさんな、坊。二年前に終わったことだよ」
「……いや、まあその……」
何をどう言っていいか分からず、緋凪は視線を泳がせた。
***
「谷塚さん。確認なんですが……」
一通りデータの確認を終わった頃には、午後四時を回っていた。
帰り支度をしながらの父の問いに、谷塚もノートパソコンの片付けの手を止めないまま、「何だい?」と訊ねる。
「今後も捜査の続行をお願いして大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねぇって言ったらどうするんだい」
父が固まったように息を呑む。一瞬、静寂がその場を支配した。
直後、谷塚が軽く吹き出す。
「……まーったく、お前さんも生真面目だねぇ、相変わらず」
「……谷塚さん……」
困ったように眉尻を下げる父の肩先を、笑いの残滓を引きずりながらも谷塚はポンポンと叩いた。
「心配しなさんな。ちゃーんと付き合うよ。それこそ地獄の果てまでな」
「……真面目な話……本当にいいんですか。相手は銃で一般人を脅すような人種です。無法な暴力団と変わりありませんよ」
「今更何言ってるかねぇ、この人は。おれだって一度はあの学園に首突っ込んで殺され掛けた人間だぜ」
ニヤリと唇の端を吊り上げる谷塚に、父はやや苛立ったように返す。
「なら尚更です。二年前の事件のことで、谷塚さんは目を付けられているはず。恐ろしくはないんですか?」
「さてねぇ。就職が十八ん時だったから、二年前の事実上の解雇まで、かれこれ四十年以上も警察組織で仕事してたんだ。時には気が違った連中も相手にしたし、さっきも言ったが一度は三途の川も見た。今更何が恐怖かなんて、忘れちまったよ」
不敵に笑いつつ、あっけらかんと言うところが何だかすごい。緋凪は、またも呆気にとられてぽかんと口を開けてしまった。
「おいおい、緋凪坊。口閉じろや。せっかくの花の顔が台無しだぜ」
「……誰の顔が女だコラ」
「言ってねぇし。ひがみっぽい男は嫌われるぞ」
「いーよ、別に。無理しておっちゃんに好かれなくても」
一瞬でも彼の人生に同情した自分がバカだった。唇を尖らせて鼻を鳴らす。
すると、谷塚の笑いのツボを刺激したのか、またも彼は小さく吹き出し、父に目を戻す。
「まったく……綺麗な顔してとんだ毒舌だな。どーゆー育て方したらこうなるんだ?」
「……すみません……」
「別にお前さんに謝って貰うこたねぇよ。おれが挑発したんだからな」
バンバンと父の背を叩いて、「じゃあ、次は九月一日にな」と当然のように言う。
「……谷塚さん。奥様とは離婚されたんでしたよね。お子さんは?」
肝心なことを聞いていないとばかりに、父は尚も問いを重ねた。
それまでからかい顔だった谷塚も、真顔で父を見上げる。
「実子はいねぇよ。幸か不幸かな。ただ四年前に一人、ガキを拾ったがな」
「拾った?」
「まあ、弟子っつーか、養子みてぇなもんだな。その内ちゃんと紹介するわ」
「その子は大丈夫なんですか」
狙われたり、人質に取られたりする可能性もある。父の問いの含みに、長年刑事をやっていた男が、気付かないわけがなかった。
やはり真顔で父を見たまま、「心配無用だ」と頷く。
「断っとくが、別にお前さんたちを気遣って言ってるわけじゃねぇぞ。本当にアイツは大丈夫だ。これしきで死ぬならそれまで。裏社会のルールはそういうモンだろ。何事も自己責任だ。リスクも恩恵もな」
父は沈黙を返した。どうやら、反論の手札が尽きたらしい。
それまでのやり取りがまるでなかったかのように、「では、引き続きよろしくお願いします」と言って頭を下げた。
©️和倉 眞吹2021.