act.6 決断
(……あー……ここってばサイコーの現実逃避場所……)
十日後。
緋凪は、母方の祖父が運営する羊の放牧場の片隅で大の字になっていた。視線の先には、青々と広がった空がある。
こうしていると、日本での出来事が嘘のようだ。
春生が殺されたことも、今時の日本では考えられないような脅迫劇があったことも。自分の中の葛藤でさえどうでもよくなりそうだった。
〈――ナギ〉
不意に上から降って来た声に、緋凪は目を瞬く。
視界の中に、某アルプスのアニメに出て来そうな老人の顔が割り込んだ。面長の輪郭に蓄えられた顎髭も、麦藁帽の中に隠れた髪も灰色で、瞳の色は緋凪のそれと瓜二つだ。
コバルト・ブルーの瞳はこの老人――祖父のヴィルフリート=ライオネル=ハーグリーヴスから受け継いだらしい。
〈こんな所で何をしてるんだい〉
話し掛けられる言葉は英語だが、祖父は緋凪と話す時はできる限り易しい英語でゆっくり喋ってくれる。
おかげで、緋凪も不得手なりに聞き取ることはできた。
〈別に……ただの現実逃避だよ〉
片言に近い英語で何とか返す。だが正直なところ、祖母も母もいない時は、込み入った会話をこなす自信はなかった。
その空気を感じ取っているのかいないのか、祖父は柔らかく微笑すると、緋凪の隣に腰を下ろす。緋凪もノロノロと起き上がった。
〈学校はどうだい?〉
〈相変わらずさ。この髪と目の色が、向こうじゃ珍しいんだ〉
緋凪は肩を竦めた。
〈珍しいといじめられるのかい?〉
前にも、この手の話を祖父としたことがある。その時は祖母のトモエ=ヤクモ=ハーグリーヴスが間で通訳をしてくれていたから、かなり突っ込んだ話ができた。
それで、祖父も緋凪が度々いじめに遭っているのを知っているのだ。
〈さあね。純血日本人の考えることは俺には理解できない〉
再度、肩を竦めながら言うと、祖父は苦笑に近い微笑を浮かべて話題を転じた。
〈夏休みの宿題は? 前は沢山抱えて来ていたよね〉
〈こっち来る前に終わらせた〉
父に叩き込まれた習慣である。愛媛にしろイギリスにしろ、旅行先では集中し辛いのだから自宅にいる間に済ませろという指南は、当を得ていると思う。
それでも、祖父の言う通り、小学校の中学年くらいまでは結局こっちに持ち越すことも少なくなかった。
〈そうか。ところでナギ。訊いてもいいかな〉
〈何を〉
〈何か、悩みがあるのかい?〉
いきなり核心を突かれて、瞬時口を噤む。
祖父と祖母には、春生が亡くなったことは母の翠から伝わっているはずだ。冬華がそれに伴って今年はイギリスへ来られないから、話さざるを得なかったのだ。
ただ、どういう風に伝わっているかは緋凪には分からない。
〈ナギ? えっと……私の言っていること、分かるかな〉
祖父は緋凪の沈黙を、言語の理解によるものと思ったらしい。
〈うん。何言ってるかは分かる〉
英語が得意でないのは確かだが、祖父くらい易しい言葉で喋ってくれる相手の英語であれば、聞き取るだけなら緋凪の場合、通訳はほとんど要らない。苦手なのはこちらが話すことだ。
生活基盤が日本だからか、脳内で考える言葉はどうしても日本語だ。それを口に出す前に英語に直すという作業を行わなければならない。
英語の語彙もあまり多くない為、日本人同士が日本語で話すようなテンポと同じにはいかない。
〈えーっと……母さんからは春姉のことは聞いてる?〉
〈ああ〉
緋凪からの答えがあったのにホッとしたのか、祖父は頷いて続ける。
〈亡くなったと聞いた。不幸な事故で。とても……悲しい。残念なことだったね〉
やっぱりな、と緋凪は思った。
春生が殺された挙げ句に遺族の許可も得ず警察に勝手に火葬までされ、その上犯人側から脅迫を受けてる、なんて話はできないだろう。
〈ハルが亡くなったことに関係ある悩みかい?〉
〈うん……まあ〉
緋凪は曖昧に言葉を濁した。
これは、祖父が日本語が理解できる人だったとしても、悩みを打ち明けるのは難しい。
するとそれは即座に察してくれたようだ。
〈言い辛いことなら、無理に話さなくてもいい。ただ、口から吐き出すだけで気持ちが軽くなることもある〉
「気持ちか……」
緋凪は覚えず、日本語で言った。
はあ、と小さく吐息を漏らして、パタリと元通り草むらに横たわる。
〈ナギ?〉
〈あのさー……祖父ちゃん〉
〈ん?〉
〈んーと……たとえ話なんだけどさ〉
〈何だい?〉
〈もし……もしも、祖父ちゃんの大事な人が殺されてたって分かって、犯人も分かってるとする。証拠はこれから探したいけど、犯人側が祖父ちゃんの周りで生きてる大事な人を人質に、自分を放っておけって脅迫して来たら……最悪、こっちも殺されそうだったら……祖父ちゃんならどうする?〉
緋凪の英語は、ひどく辿々しかった。自分でもその自覚がある。こんな長い文章を喋ったこともなかったので、通じている自信はまったくない。
ただ、今回の場合、通じてなければないでよかった。祖母を通じてできる話でもない。
だが、祖父はじっと緋凪の顔を見て、真剣に耳を傾けてくれているようだった。
祖父の沈黙は長かった。
緋凪の英語があまりにも拙すぎて、何を言っているか理解できていないのかも知れない。そう思い始めた頃、祖父が口を開いた。
〈……とても、難しい問題だ〉
〈……祖父ちゃん、俺の言ってること分かったの?〉
〈何とかね〉
祖父は苦笑して言葉を継ぐ。
〈結局、心のままに行動してみるしかないんじゃないかな〉
〈心のままに?〉
〈そう。もし……もしも、だ。ナギがその立場に立ったとしたら、犯人の要求通り沈黙を守っているのは、苦しいんじゃないか?〉
綺麗に図星を指されて、一瞬息が詰まった。
〈……そうかも〉
同じように苦笑して答える。祖父は苦笑を深くすると、放牧場のほうへ顔を向けて、独白のように続けた。
〈それは、身体は息をしていても心は死んでいる状態だ。呼吸困難と同じだな。なら、どうすれば息が楽にできるようになるかを考えるほうがいい〉
〈……それで……身体のほうの寿命が縮んでも? 周りを、危険に晒しても?〉
〈……うーん……それも、難しい問題だね。ただ……人質を殺したら、脅迫を受けているほうは失うものがなくなる。だから、脅しを掛けている標的が行動を起こしたら、脅迫者は標的本人を狙うようになるかも知れない。ある意味での膠着を破ってみるのも、一つの手だよ〉
〈祖父ちゃんならそうするってこと?〉
もう一度起き上がって訊ねると、祖父は振り返って緋凪の顔を見た。
そしてまた苦笑する。
〈……さあ……とても難しい。その場に置かれてみないと分からないよ〉
〈……そっか……〉
〈ただ……人生は一度きりだ。本当に大事なのは、人生を終える瞬間、後悔しない道を選ぶことじゃないかな〉
〈後悔……しない道?〉
〈ああ。もしもあの時行動していたら、もっと楽に息がつけただろうか……とか、もっといい人生が送れていただろうか、とか……最後の審判の時、神の御前で懺悔する時間は短いほうがいいからね。私にも神にも〉
(神……ねぇ)
イギリス人である祖父の血を引いていても、多宗教的な嫌いのある日本で生まれ育った緋凪には、特定の宗教めいた話になるとやや付いて行けないものがある。
それでも、それ以外の祖父の言葉は、いちいち胸に刺さった。
(最期になって後悔しない道……か)
鈍い動作で立ち上がって、遠くに目をやる。
見渡す限りの緑の絨毯の上に、放牧された羊が思い思いに歩き、草を食んでいる。その遙か先には山と小さく湖も見えた。
〈ナギ〉
祖父も立ち上がったのか、名を呼ぶ声が上から聞こえる。
振り仰ぐようにして見上げると、空の青より深いその色が、緋凪の目をじっと見つめた。
〈今のは、何のつもりのたとえ話だったんだい?〉
緋凪はクスリと苦笑をこぼす。
〈何のつもりでもないよ〉
〈だが……冗談にしてもタチが悪い。本当にたとえ話だね?〉
その問いには、すぐには答えられなかった。だが、やや置いてから、不敵に唇の端を吊り上げる。
〈もちろん。ありがとな、祖父ちゃん〉
一つ肩を竦めて、祖父に背を向ける。
広い放牧場を走り抜け、祖父母の家に飛び込むと、帰宅の挨拶もそこそこに祖母に断って電話の受話器を取った。
今回、父だけが千明の祖父母の家に行っているので、ここにはいない。
空で覚えている父のスマホの番号をもどかしい思いでプッシュし、受話器を耳に当てた。
『……はい、もしもし』
何コール目かの呼び出し音のあと、父の声が答える。
「父さん? 俺、緋凪」
『……ああ、緋凪か。どうしたんだい。今、イギリスだろう?』
到着の報告は、恐らく昨日の内に母がしていたのだろう。
「そう、祖父ちゃんの家から掛けてる。あのさ」
『……何だい?』
父の呼び掛けに、答えを口に乗せるのを少し躊躇う。この一言を言えば多分、もう引き返せない。
(……それでも)
人生が終わるその時、後悔するのだけは御免だった。たとえ、道半ばで殺されるとしても、行動して終わりたい。
弱気の自分を叱り飛ばすように、緋凪は空いた手を握り締めた。
「……俺、やっぱりダメだ」
『……何が?』
「春姉を殺した奴を野放しにできない。今沈黙を通したら、死ぬ時に絶対後悔する。……父さんは?」
父が、電話の向こうで息を呑んだような気がした。沈黙していたのが、どのくらいだったのか。
「父さん」
『……分かった、緋凪。帰国してから話そう』
そう言った父は、緋凪が何を返す間もなく通話を切った。
***
「……何だ、これ」
帰国して、電車で最寄り駅から乗ったタクシーを降り、家の自室に入った瞬間、その言葉が漏れた。
部屋の中は、ひどい有様だった。
出発前は、それなりに片付けていたはずだったと思ったのに、今の自室の中は、タンスや勉強机の引き出しがすべて開けられ、中身が部屋中にぶち撒けられている。
四国の実家に帰省していた父は、一足先に帰宅していた。玄関先はどうにか父が片付けてくれたらしいが、ほかの部屋までは手が回らなかったに違いない。
「……戻ったらこのザマだったよ」
リビングに戻ると、父が肩を竦めた。母も不安げな顔でその傍に立っている。
そのリビングも、床は見えているが、何となく雑然としているような違和感は拭えない。引っ越してきたばかりの家のようだ。
「……警察は?」
「警察が当てになるとでも?」
滅多なことでは人を悪く言わない父が、皮肉っぽい笑いを浮かべる。
「とは言え、通報した人がいたらしいからね。ウチも一応程度、事情聴取を受けてるよ」
「通報って?」
「空き巣に遭ったのはウチだけじゃない。この周辺一帯の数軒がやられたらしい」
「夏休み中の帰省で不在の家が多いからってだけの理由かよ、これ……」
緋凪は思わずその疑問を口に乗せた。
通常なら、それで済むだろう。だが、春生のことで市ノ瀬家が脅迫を受けてから、まだ一ヶ月だ。脅迫者は、千明家がその血縁だということも知っている。それを考えると、周辺の家を荒らしたのはカムフラージュとしか思えないのは、やはり思考の幅が狭まっているだけなのだろうか。
「盗られたものは?」
母が訊ねると、父は何とも言えない表情で溜息を吐いた。
そして、ソファへ腰を下ろす。
「実はね。緋凪から電話を貰った時、父さんはまだ悩んでいた」
「えっ?」
「イギリスから電話をくれたろう?」
「あ、ああ……」
出し抜けに脈絡のないことを言われたので、一瞬何のことかと思った。が、すぐに思い当たる。
ヴィルフリート祖父と少し話したあと、その勢いのまま日本にいる父に連絡したのだ。春生の死の真相に関しての沈黙をやめたいと。
「確かに、父さん個人としては春生の件の追及をやめるのはもどかしいし、やり切れない。だが、もし追及に失敗したら失うものがあまりに多いからね。叔父さんや、楠井の決断を責める気にもなれない。表面上だけでも平穏な生活が保てるのなら、このままやり過ごすほうに傾いていたんだ。父さんの気持ちとしてはね」
「父さん……」
「でも、緋凪の電話の数日後、出版社の同僚から連絡があったんだ」
「出版社の同僚?」
「ああ。ウチの出版社は、盆の休みを交代で取る。まあ、会社は父さんの所でなくともおおむねそうだと思うけど……」
なぜ、父の出版社の話になるのか。再度、話が飛んだ気がして首を傾げていると、父が渋い顔をしたまま続けた。
「……やられたよ。夜の内に泥棒が入ったらしい」
「父さんの会社に?」
「ああ。表面的には全体が荒らされているように見えたが……特に父さんのデスクの周辺だけが妙に念入りなんだ」
「それは、いつのことなの?」
それまで黙っていた母が口を開いた。せかせかとした足取りでソファへ向かい、父の隣に腰を下ろす。
「被害が判明したのは、十五日の朝だそうだ。つまり、犯行があったのは前日、十四日の夜。僕に連絡が来たのが、十六日になってからだが……」
その為、父は急遽予定を繰り上げ、十七日にこちらへ帰宅したらしい。自宅の空き巣被害には、この時気付いたという。
「気付いたと言っても、家に戻ったらちょうど警察がウチの現場検証に掛かろうとしていたところでね」
「どこの警察だよ」
「当然所轄だよ。つまり、東風谷署」
覚えず舌打ちが漏れた。
「なあ、これって本当に仕組まれてねぇか? 泥棒の目的も父さんが何か春姉のことについて嗅ぎ回ってないかを調べに来たとか、警察が入ってそれを調べる為の口実作りとか、そんなんじゃねぇの?」
父も母も何も言わなかった。
これも普通なら、いくら何でも、と一笑に付すところだろう。が、そうとは言い切れない事例がその前に山ほど、立て続けに起きている。
「何か……盗られたものは?」
母も、眉尻を下げて父を覗き込み、先程と同じ質問をした。
すると、疲れた表情ではあったが、父はなぜかニヤリと唇の端を吊り上げる。
「特に何も」
「は?」
「何も……盗られてないの?」
「ああ。避難が間に合ったからね」
「避難って……」
父は、眼鏡の弦を押し上げながら緋凪に目を向けた。
「叔母さんたちが脅迫に遭ったのがいつか、緋凪は覚えてるかい?」
「えっ? えっと……一ヶ月くらい前じゃなかったか?」
「そう。で、それから父さんたちがそれぞれ愛媛とイギリスに発つまで十日くらいあっただろう?」
「あ、ああ」
確かにそうだ。けれども、それが何だというのだろうか。
「その間に、調査データのコピーは済ませておいた。原データはネット上のクラウドと、銀行の貸金庫に隠してある」
「……はあ?」
顎が落ちたような気がした。何それ、という言葉しか浮かばない。しかし、次に父はもっと、ある意味で呆れるような爆弾を投下した。
「正確に言えば盗難には遭ったけど、全部コピーさ。今頃向こうはコピーだけを始末してひとまずの安心を見ているだろうね」
「……何だよそれ……」
足から力が抜けそうになった。倒れ込む前に、辛うじて両親の向かいのソファに腰を下ろす。
「でも、我々もまだ安心はできない。向こうが立ち直る前にどうにか反撃に転じないと」
「父さん? じゃあ」
ソファの背もたれへ沈んでいた上半身を弾かれたように起こすと、父は力強く頷いた。
「二件の盗難騒ぎで父さんも目が覚めたよ。覚悟を決めた。このままではいつ向こうの気が変わって殺されるか分からない。本当に身を守る為には戦うしかない、とね」
「攻撃は最大の防御――だもんな」
不敵に唇の端を上げて見せると、父は苦笑に近い微笑を浮かべる。
「ただ、派手に動き出すのは厳禁だ。向こうもまだこちらを見張っているだろうし……」
「俺に何かできることない?」
すると、父はまた困ったように笑って首を横に振った。
「今のところはね。それと、翠」
「何?」
視線を向けられて、母が首を傾げるようにして父を見る。
「君はイギリスに帰っていたほうがいいかも知れない」
途端、母は緋凪と瓜二つの整った顔立ちを強張らせた。
「そんな」
「本当は緋凪も……今回イギリスに渡ったまま、しばらく向こうにいて貰えればよかったんだが」
「父さん!」
緋凪も顔をしかめた。
「父さん一人危険な目に遭わせて、俺たちはイギリスでのんびりバカンス楽しんでろって? できるわけないだろ!」
「緋凪の言う通りよ、あなた。結婚の時に誓ったじゃない。私たちは病める時も健やかなる時も死が二人を分かつまで一緒よ」
「……悪いんだけどさ……そーゆー恥ずかしい台詞は俺がいないトコで言ってくんない?」
さり気なくボソリと言うも、二人ともすでに聞いていないようで、ひたすら見つめ合っている。
「あのさあ。俺、席外そーか!?」
命の懸かった戦いの作戦会議じゃなかったんかい! と思う様脳内でツッコむと、両親はやっと我に返ったという顔で少し離れた。
©️和倉 眞吹2021.