act.5 市ノ瀬家の離脱
市ノ瀬家を訪れていた黒塗りの車のことが分かったのは、夏休みに入ってから最初の日曜日だった。
「……田舎に……引っ越そうと思うんです」
千明家を訪ねて来て、一家全員を前に、知寛叔父がそう切り出した。その顔は、葬儀で見た折よりも憔悴しているように思える。
「田舎って……」
父の呟きを拾うように、母が続けた。
「知寛さんの出里は確か、瀬戸内海の離島の一つだったって聞いてるけど」
「そうです。そこなら妻の実家も近いし……春生を散骨する許可を得て見送ったら、これから家族三人、静かに暮らしていくつもりです」
「ちょっと待って。仕事は? それに、春生ちゃんのことだってまだちゃんと解決していないのに」
「もういいんです、お義姉さん」
泣き出しそうな声で陽美叔母が母を遮る。だが、それきり俯いてしまった叔母を助けるように、叔父が続けた。
「仕事は続けます。生活のこともありますから。でも、拠点となる自宅をしばらくは首都圏から引き離したいんです」
「どういうことか、きちんと説明して貰えないか。春生のことはどうするんだ。真実を白日の下に晒すと、調査をすると、君も言っていたじゃないか」
「そうしたら今度は冬華が死ぬかも知れないの!」
唐突に、叔母が金切り声を上げた。
「こないだ……こないだ、学園の理事長が家に来たのよ」
言われて、緋凪は唐突に、終業式の二日ほど前に市ノ瀬家の前へ停まっていた黒塗りの車を思い出す。あれは、西院凛学園の理事長のものだったのだ。
「もうお宅のお嬢さんのことで煩わせるのはやめてくれって。春生がプールで亡くなっていたことは事故で、学園の管理不行き届きは認める、慰謝料が欲しいなら言い値を払うから、それで終わりにしろって……」
「それをお前は承諾したのか」
相手が妹だという気安さからか、父の口調が普段よりも砕けた物言いになる。続いた言葉は、緋凪を叱る時よりも厳しく聞こえた。
「金で済む問題じゃないだろう。春生は暴行を受けて殺されたんだ。プールで溺死したんじゃないことはお前だって知ってるはずだ」
「知ってるわよ!」
叔母も同様だった。相手が兄であるということ以前に、最早緋凪や母の存在は眼中にないように取り乱している。
「知ってるわ、春生は暴力を受けて亡くなったわ! そうよ、殺されたのよ!! でも私たちの子は春生だけじゃないの、春生だって大事な娘だけど冬華も大切なの! ねぇお兄ちゃん、春生を諦めれば冬華だけは助かるのよ、どれだけ謝罪されたってお金積まれたって春生はもう戻って来ないの! だったら、生きてる冬華を守るほうが私たちには大切なのよ!」
「真実を知らなくてもいいのか。春生の無念を晴らすことは大事じゃないと?」
「仕方ないじゃない! その場で緋凪君の首筋にナイフ突き付けられて決断迫られたら、お兄ちゃんだって絶対屈するわ!!」
父は息を呑んだ。緋凪もだ。
叔母の剣幕もさりながら、問題なのはその発言の内容だ。
つまり、脅迫の現場では冬華の首にナイフが突き付けられていた、ということにほかならない。
「……待てよ……冬、お前だって古武術道場に通ってるはずだよな」
姉の春生は根っからの文系人間だった。だから、ちょっとした護身術――たとえば、おかしな人間に絡まれそうになった時に相手を怯ませたり、隙を突いて逃げる程度のことしかできなかったが、妹の冬華は違う。
おとなしそうで、いかにも荒事は不得手に見えるが、柔術や空手なら、緋凪と互角に戦り合えるくらいの実力はあるのだ。
その冬華が、ナイフを突き付けられるままになっていたというのが緋凪には信じられない。だが、それを読んだように冬華が口を開いた。
「……その場にいたのが凪でも反撃できなかったよ」
「何で」
「目の前で両親の頭に銃口突き付けられてたら?」
深い青色が瞠目する。
無理だ、という結論しか出なかった。
自分に突き付けられているナイフを跳ね退けるのに一秒、それから――距離にもよるが、両親どちらかに突き付けられた銃を弾き飛ばすのに一秒から一・五秒。その間に、もう片方の親は死ぬ。確実に、だ。
(狂ってる)
愕然とした。
自分たちの犯罪を隠す為に、脅迫に銃まで持ち込むその考え方が、最早狂気だ。
裏社会の人間を甘く見ないほうがいい、と言った父の忠告が、今更のように腑に落ちた。
「……お兄ちゃんも分かったらもう手を引いて。春生のことに構わないで」
ハンカチに顔を埋めた叔母が、モソモソと涙声で言う。
「相手がどれだけ狂ってるか理解できたでしょ? 悔しいけどどうしようもない……」
「お義兄さん。我々だって望んで手を引くわけではない。でも、仕方ないんです。家族の命が懸かってる。冬華まで失えない。春生も分かってくれるでしょう」
「だからって……加害者を野放しにするのか? 新しい被害者が出るかも知れないのに?」
ポツリと緋凪の硬い声がリビングに落ちる。だが、叔母夫婦は揺るがなかった。
「緋凪君にもいつか分かる日が来るわ。そんなチッポケな正義より、今いる家族が大切なの」
「チッポケなんかじゃない!」
宥めるように言われて、感情があっという間に沸点を超える。
「よく考えろよ! 殺人犯を野放しにする意味を! 叔母さんたちみたいな思いする親が増えるかも知れない、冬だって標的にならない保証はないんだぞ!?」
「見も知らない子どもや親の気持ちなんて知ったことじゃないわよ!!」
叔母が、再度金切り声で叫んだ。
目を見開いた緋凪と視線が合うと、叔母はばつが悪そうにハンカチに口元を埋めて俯いた。
「……すまない、緋凪君」
妻を宥めるように彼女の肩をそっと抱き、叔父が眉尻を下げる。
「だが分かってくれないか。冬華のことは我々が守る。でも、あとはもうどうでもいいんだ」
「叔父さん」
「どうでもいい。他人はどうなったって知らない。……そう思えるだけの体験を、あの日我々はしてしまった。人は弱い生き物なんだ」
取り付く島もないとはこのことだ。
急に叔父も叔母も、言葉の通じない異星人になってしまったような気がした。
「ねぇ、分かった? お兄ちゃんも、もう手を引いて。春生は……自殺したの。いじめとストーカーに耐え兼ねて、自分で死んだの。お願いだから居もしない犯人を追い掛けたりしないで。ね?」
「そんな異常な脅迫……どうして警察に訴え出ないで終われるんだよ」
覚えず呟いた緋凪に、叔父はやはり小さく首を振った。
「警察なんて、最初から当てにならなかったじゃないか」
「それは、だけどっ……」
「こないだ、脅迫に来た人は言っていたよ。警察にはすでに手を回したと。彼のことを訴えれば、それは彼にも伝わる。もし、それが聞こえてきたら、家族だけじゃなく、血族揃ってあの世へ行くことになるから覚悟しろ、と……」
背筋に冷たいモノが這ったのを、緋凪は認めないわけにはいかなかった。
血族、ということは、向こうは春生の血縁関係まですべて調べ上げているということだ。その中には当然、緋凪も含まれている。
嫌だ死にたくない、巻き込まれたくないと反射で思ってしまった直後には、自分を殴り倒したくなった。情けないなんてモノじゃない。自分がこれほど意気地がないとは思わなかった。
そのことにも、再度愕然とした。
無意識に、自分を抱き締めるように上腕部を掴む。
今までだって、不良相手に一人で戦って来た。教師たちが守ってくれない以上、自衛するしかなかったからだ。
両親に訴えたところで、いじめっ子や不良の素行が即修正されるとも思えなかった。自分で叩きのめすしかない、幼いながらにもそう思ったからこそ、小学校へ入学直後から武術を習い覚え、撃退してきた。
緋凪の意思ではないとは言え、目立つ容姿をしている以上、学校へ通うのはほぼいじめとの戦いでもあった。
クラス替えがある度に、緋凪を知らない者は緋凪をからかい、ちょっかいを出し、時に暴力を振るう。いつしか、ハンムラビ法典がバイブルになっていた。
ただ、それで充分修羅場をくぐった気になっていたと、今になって思い知らされる。
同年代の不良と、市ノ瀬家を脅迫してきた者の違いは、こちらの命を奪うことも辞さないか否かだ。
不良少年の中にはナイフを持って向かってくる者もいたが、少なくとも緋凪を殺すつもりまではなかったに違いない。だから、緋凪も慣れれば怖いと思ったことはなかった。
緋凪の心を支配しているのは、間違いなく恐怖だ。両親も沈黙してしまっている。
父も母も、もうそれ以上何か言う気配がないと思ったのか、市ノ瀬家の面々は立ち上がった。
***
「何か手伝おうか?」
開きっ放しだったドアを叩くと、冬華が振り向いた。彼女の顎先で揃えられた、天然パーマのカールがピョンと跳ねる。
「……そうね。荷物運ぶ時、お願いしようかな」
市ノ瀬家はあれから即日、引っ越しの為に動き始めた。諸々の費用は、西院凛学園の理事長が出してくれるらしい。それも、慰謝料の内なのだろう。
「どうせなら北海道に引っ越せばいいのに。夏は涼しいし広いし」
荷物を段ボールに詰めながら言う冬華の後ろ姿をぼんやりと眺めつつ、緋凪は腕組みしてドアにもたれた。
「行ったことあるような口振りだな」
手伝う、と言っても、よく考えれば、彼女の荷物は主に服と本だ。
衣類には下着も含まれるので、いくら従姉弟同士とは言え、異性の緋凪が手伝うわけにもいかなかった。書籍類も、本人でなければ要不要の区別は分からない。
緋凪は手持ち無沙汰でベッドに腰を下ろした。このベッドは、引っ越し当日に、ほかの家具類と一緒にこの家からトラックに積み込まれるらしい。
「行ったことなんてないわ。あたしが行ったことある日本国内の土地は、東京都と愛媛県だけよ」
机から教科書類を下ろしながら、冬華が肩を竦める。
「あとは、小学校の修学旅行で行った鎌倉とか箱根とか、富士山くらいかな」
「まあ、フツーは中学生が自分の生活圏内から離れたトコには行かねぇよな」
緋凪はクスリと小さく笑った。
「で、いつなんだ、引っ越し」
「さあ。でも、夏休み中ってのは間違いないよ。今、お父さんとお母さんが手続きしてるみたいだし」
「そか」
短く言って、窓の外へ目をやる。
網戸の向こうには、いつもと変わらない住宅街の風景が見える。だのに、何だか随分遠い場所へ来てしまったような錯覚があった。
「……俺さ」
「ん?」
「八月の十日から二十日くらいまで、日本にいないから」
「ああ。イギリスね」
「うん」
母方の祖父母に会うのは、いつも長期の休みと決まっていた。
ハーグリーヴスの祖父母は、イギリスの湖水地方と呼ばれる場所に住んでいる。夏場は、そちらのほうが涼しいのだ。もっとも、最近はそこでも三十度を超えることもあるらしいが。
「でも、去年もイギリスだったよね」
ふと気付いたように冬華が言う。
両親の里帰りを兼ねて、一年置きに父方と母方を交互に訪ねていた。昨年は、冬華の言った通りイギリスの祖父母を訪ねたので、今年は愛媛県に住む祖父母の元へ行くのが予定ではあったが。
「何か、千明の祖父ちゃんに会う気分じゃなくてよ」
「へぇ。もしかして凪って、千明の祖父ちゃん苦手?」
「んー……何っか俺にだけキツいんだよな、あの祖父ちゃん」
一度、父にそう言ったら、
『緋凪は内孫だからね。それに男の子だし、変に期待してるだけだよ。その裏返しなだけだから、気にしなくていい。本当は可愛がってるんだから』
なんて返されたが、緋凪にしてみれば可愛がられている実感は余りに薄い。今流行りのいわゆるツンデレという奴かも知れないが、愛情表現はもうちょっと分かり易くやってくれないと困る。
「ただでも精神的に疲れてんのに、この上あの祖父ちゃんと面突き合わせんの気が重いって言ったら、今年もイギリス行くことになった」
「そうなんだ」
ふふっ、と吹き出すように笑った冬華は、「ヴィルお祖父ちゃんと巴お祖母ちゃんによろしくね」と続けた。
「自分でよろしくしろよ。手紙書いたら? 伝書鳩の代わりくらいはしてやる」
「ああ、そうか。そうね、そうする」
ありがと、と付け加えた冬華は、荷物詰めの作業に戻った。
春生と冬華も一緒に住んでいた関係上、緋凪たちの里帰りと一緒に二年おきにイギリスに行っている。ハーグリーヴスの祖父母と冬華たち姉妹は血の繋がりはないのだが、もう実の祖父母と孫たちも同然だった。
だが、こんなことになったので、もう冬華がイギリスの祖父母に会うことはないかも知れない。
「そういえばお前さ」
「ん?」
「まさかこれから一人暮らしとかじゃないよな」
「えー。どういう意味?」
「だってこれまでは叔父さんと叔母さんがいなくて春姉と二人暮らし状態だったからここにいただろ? 引っ越したからって急に叔父さんと叔母さんが仕事辞めるわけじゃないみたいだし……離島だとそっから愛媛まで船で高校通ってる奴もいたって父さんが言ってたぞ」
父に聞いたところによると、その父のクラスメイトは、放課後になると猛ダッシュでバスに飛び乗り港へ向かい、ギリギリ間に合う船の最終便に乗って、島の自宅へ帰っていたらしい。そのクラスメイトは当然、部活動に勤しむ暇などなかったという。
そう付け加えると、冬華は寂しげに「そこもまだ分かんない」と言った。
「本当はね」
「ん?」
「……あたし、ここを離れたくないんだ」
冬華は、箱詰め作業の手を止めて俯いた。
「お姉ちゃんは……物心付いてからこっちで暮らし始めたけど、あたしは物心付く前からここにいたから。あたしにはここが家なんだ。伯父さんと伯母さんがいて凪がいる、この場所が家なんだよ。伯父さんと伯母さんが本当の両親なのに、いきなり余所の顔見知りの夫婦に引き取られる気分」
一瞬、緋凪は息を呑む。言葉を探すが、結局「そっか」としか言えなかった。
「……分かる、気はするけどさ。それ、叔父さんと叔母さんに言うなよ」
「分かってるけど」
それ以上、冬華は何も言わなかった。言えなかったのかも知れない。
緋凪も同じだった。沈黙に耐え兼ねて立ち上がる。
すべての発端は、春生が亡くなったことだ。春生の死で、緋凪も冬華も――千明家も市ノ瀬家も、日常が崩壊してしまった。
その原因は、春生を死に至らしめた者だ。緋凪たちから日常を奪い去った元凶が、今も何もなかったかのように日常を謳歌していると思うと腹立たしかった。
いや、腹立たしいなんてものじゃない。ハラワタが煮えるようだ。
けれども、今は罰する手段もなく、犯人の特定もままならない。このまま放置するしかないのは本当にもどかしい。
ずっと、このままなのだろうか。
喉に刺さった魚の小骨に気付かぬ振りをするように、チクチクと痛む場所を知っていながら見ない振りをするしかないのか。
(……違う、そうじゃない)
緋凪は、拳を握り締めた。
小骨どころの話ではない。もっとずっと焦燥を煽る何か――たとえるなら、避難する為に登った木のすぐ下に、豹がうろついているのを放っておくような、恐怖にも似たモノがある。
撃退する猟銃は手の中にあるのに、後ろから銃口を押し当てられて引き金を引きたくとも引けない――単純な恐怖とも焦燥とも違う、もどかしくて堪らない感情を、緋凪はあれからずっと持て余していた。
それも今だけならまだいい。やり過ごす内にいつか消えてなくなるのなら、相手が緋凪たちのことを構わなくなる絶対の保証があるのならば。
しかし、仮にそうだとしても、春生を殺した相手を放免したという後ろめたさだけは消えずに残るに違いない。
心のどこか、あるいは頭のどこかにずっと、死ぬまで一生――
そう思った途端、背筋に寒気が走った。
(絶対に嫌だ)
出し抜けに沸いてきたのは、その一言だ。
ずっと死ぬまで一生こんなひどい罪悪感に苛まれて生きなければいけないのか。冗談ではない。
殺人を犯した人間や、それを銃まで持ち出して隠蔽する人間をこのままにしていたら、自分だけは絶対に安全だと言い切れる保証もない。
何より、春生を殺した者を無罪放免にしてなるものか。
彼女の命を奪っておいて、この瞬間も犯人はのうのうと生きている。その罪に対する罰を逃れたと、してやったりとほくそ笑んでいるなんて、とても許しておけない。
(……それに……)
拉致未遂現場に居合わせながら、結局守れなかった。
彼女を死に追いやった責任は、自分にもあるように思える。
(……だのに、自分の命を惜しむ権利が俺にあるのか?)
この自問に、緋凪は今もはっきりと答えを出すことができずにいる。自分に向けられるかも知れない銃口に向かっていく勇気も、まだ出ない。
できることなら安全な場所にずっと隠れていたい、命さえあれば罪悪感が何だというのだ、と囁く自分がいるのも事実だった。
(くそっ……!)
苛立ちのままに、緋色の前髪を掻き上げる。直後。
「……凪?」
怖ず怖ずといった口調で掛けられた声に、緋凪は我に返った。
「……あ……」
「どうかした?」
心配げに曇った冬華の瞳にも、複雑な感情が入り交じっているのが分かる。
緋凪の抱える葛藤は、冬華のそれでもあるのだ。彼女の中でも多分、答えが出ていないに違いない。少なくとも納得できて、罪悪感も解消できるような、そんな答えは。
黒真珠のような瞳としばらく絡ませた視線を引き剥がすようにしてほどきながら、「何でもない」と返す。
「部屋にいるから。荷物運びが要る時は呼べよ」
うん、と小さく首肯した冬華を目の端に捉えつつ、緋凪は彼女の部屋をあとにした。
©️和倉 眞吹2021.